異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第112話 不釣り合いな助言者

 退色したセピア色の世界から抜け出した瞬間、肺の底に溜まっていた重苦しい空気が一気に吐き出された。

 狂った時間感覚を押し付けられていた『焦燥の時計塔』の内部から、第五十一層の静謐な回廊へと戻ってきた蒼介たちは、文字通り崩れ落ちるように赤い絨毯の上にへたり込んだ。

 

 等間隔に並ぶ水晶のシャンデリアが青白い光を落としている。

 左右の壁に掛けられた真っ白な額縁は、今のところ不気味な沈黙を保っていた。

 

「……死ぬかと思った。二度とあんな場所には入りたくない」

 

 蒼介は大の字になって天井を仰ぎ見ながら、絞り出すように呟いた。

 肉体的なダメージはほとんどない。しかし早く動こうとする本能をねじ伏せ、あえてゆっくりと動くことで超加速を得るという矛盾した戦いは、精神の摩耗を極限まで早めていた。

 体内を巡るナノマシンが疲労物質を分解しようとフル稼働しているが、脳が感じている異常な疲労感まではすぐに消し去れない。

 

「全くだ。自身の反射神経を殺して戦うなど、騎士の鍛錬を根底から否定されるような思いだった」

 

 セレスティアも傍らに白銀の槍を置き、荒い息を整えている。

 常に最速の反応で敵を迎え撃つよう訓練されてきた彼女にとって、あの空間での戦いは自己否定の連続だったはずだ。彼女の美しい金髪は汗で額に張り付き、端正な顔立ちには深い疲労が刻まれていた。

 

「ううぅ……。まだ頭の中がチクタク鳴ってるよぉ……」

 

 ネアは絨毯の上に丸まり、両手で耳を塞いでいた。

 彼女の強力な暗示魔法がなければ、あの機械仕掛けの猟犬の群れを突破することは不可能だっただろう。しかしその代償として、彼女の未熟な三半規管と魔力回路は悲鳴を上げていた。

 

 そんな満身創痍の三人の横で、たった一人だけ全く別の時間を生きているかのような男がいた。

 

「いやあ、お疲れ様。見事な立ち回りだったよ。君たちの適応力の高さには本当に驚かされるな」

 

 白金級冒険者フェイルである。

 彼は赤い絨毯の上に優雅に腰を下ろし、どこから取り出したのか小さな魔導ランタンに火を灯していた。

 

 淡いオレンジ色の光が彼の整った横顔を照らし出す。その黒髪には埃一つついておらず、息すら全く乱れていない。

 あの狂気の空間を単なる「散歩」として楽しんでいた彼の異常性が、改めて浮き彫りになっていた。

 

「アンタは本当に……化け物だな」

 

 蒼介は上体を起こし、恨みがましくフェイルを睨みつけた。

 

「化け物だなんて酷いな。僕はただ、少しばかり要領が良いだけさ」

 

 フェイルはニコニコと人懐っこい笑みを浮かべている。

 蒼介は深い溜息をつき、腰のポーチから携帯食料と水筒を取り出した。今は文句を言っている体力すら惜しい。

 

 彼らは魔導ランタンの灯りを囲むようにして、短い休息を取ることにした。

 魔の峡谷のような常に死と隣り合わせの環境とは違い、この画廊の回廊は額縁に近づきさえしなければ比較的安全なようだった。

 

 乾いた肉を水で流し込みながら、蒼介は静かにナノマシンのインターフェースを確認する。

 エネルギー残量は半分を切っている。先ほどの時間加速を伴う刺突は、思いのほかナノマシンの出力を消費していたようだ。

 

 少し離れた場所では、体力をわずかに回復させたセレスが立ち上がり、自身の槍の手入れを始めていた。

 布で穂先の汚れを拭き取り、魔力の通りを確かめるように軽く型を振る。

 

 ヒュッ、と鋭い風切り音が静寂の回廊に響いた。

 美しく、そして無駄のない洗練された突き。

 王国騎士として、そして名門エッケハルト家の令嬢として徹底的に叩き込まれた実直な剣技だ。

 

「うん。エッケハルトの剣筋だね。実直で美しくて素晴らしい」

 

 ランタンの炎を眺めていたフェイルが、不意に口を開いた。

 その言葉にセレスの動きがピタリと止まる。

 

「……なぜ、私の家名を知っている」

 

 セレスは鋭い視線をフェイルに向けた。

 冒険者ギルドに登録してはいるが、彼女は普段から家名をひけらかすようなことはしていない。

 ましてや、ただ槍を振るった型を見ただけでそれを見抜くなど、普通の冒険者にできることではない。

 

「そりゃあ知ってるさ。エッケハルト家の剣術、槍術は王都でも有名だからね」

 

 フェイルは全く悪びれることなく、座ったままセレスの型を批評し始めた。

 

「魔力を螺旋状に練り上げて穂先に集中させる一撃必殺の突き。威力は申し分ない。でも……ちょっと真面目すぎるかな」

 

「真面目すぎる、だと?」

 

 セレスの青い瞳に不快感の色が浮かんだ。

 誇り高き騎士の家系に伝わる武術を、得体の知れない男に軽々しく評価されるのは我慢ならないのだろう。

 彼女が反論しようと口を開きかけた時、フェイルはさらに言葉を重ねた。

 

「君の突きは腕と腰の連動で放たれている。人間としては完璧なフォームだ。でも魔力というものは肉体の枠組みに囚われない。もっと……そうだな、肩甲骨から魔力を流すイメージで振るといいよ。背中全体を一つの魔力炉に見立てるんだ」

 

「我が家の剣技に口出しするか。白金級とはいえ、いささか無礼が過ぎるのではないか」

 

 セレスは槍を強く握りしめ、静かな怒りを露わにした。

 代々受け継がれてきた型を否定されることは、彼女の生き方そのものを否定されるに等しい。

 

「口出ししたつもりはないよ。ただのちょっとしたアドバイスさ。試すか試さないかは君の自由だ」

 

 フェイルは両手を軽く上げて微笑んだ。

 その態度はどこまでも飄々としており、相手の怒りなど全く意に介していない。

 セレスは忌々しそうにフェイルを睨みつけた後、ふいっと顔を背けた。

 

 しかし彼女の生真面目な性格が、フェイルの言葉を完全に無視することを許さなかった。

 圧倒的な強者からの助言。それがどれほど不快な相手からであっても、武の道を志す者として試さずにはいられなかったのだ。

 

(肩甲骨から魔力を流す……背中を魔力炉に……)

 

 セレスは目を閉じ、静かに呼吸を整えた。

 これまでは丹田で練り上げた魔力を腕の経路を通して槍へと流し込んでいた。

 彼女はフェイルの言葉通り、意識を背中へと集中させる。

 左右の肩甲骨の間に熱を集め、そこから直接両腕へと魔力を押し出すイメージ。

 

 カッ、と目を開き、セレスは無人の空間に向かって槍を突き出した。

 

 ドォンッ!

 

 空気が爆発するような重低音が回廊に響き渡った。

 蒼介が思わず身構えるほどのすさまじい一撃だった。

 

 槍の穂先から放たれた紫電はこれまでの比ではないほど太く、そして信じられないほどの速度で虚空を貫いていた。

 突き出された槍から生じた衝撃波が、赤い絨毯を派手に捲り上げる。

 

「な、なんだこれは……」

 

 突きを放ったセレス自身が、信じられないというように己の両手を見つめていた。

 魔力の通りが全く違った。

 まるで詰まっていたパイプが一気に開通したかのように、膨大な魔力が抵抗なく槍へと流れ込んだのだ。

 威力も速度も、先ほどまでの彼女の全力の一撃を遥かに凌駕している。

 

「ほらね。君の魔力回路は背中に太い経路が通っているんだ。そこを使わない手はないよ」

 

 フェイルが満足げに拍手をした。

 セレスは愕然とした表情でフェイルを見下ろした。

 わずか一言のアドバイス。それだけで自分の中にあった壁が呆気なく崩れ去ってしまったのだ。

 悔しさと、そして圧倒的な実力差を突きつけられた武人としての畏敬の念が、彼女の胸の中で複雑に渦巻いていた。

 

「……礼を言う。貴殿の眼力は確かなようだ」

 

 セレスは小さく頭を下げた。

 不本意ではあっても、彼女は強さを認める潔さを持っている。

 フェイルは「どういたしまして」と軽く手を振り返した。

 

 そして彼の漆黒の瞳が、今度は蒼介へと向けられた。

 

「さて、次は君の番だ」

 

「俺に剣術の型なんてないぞ。ただの泥臭い我流だ」

 

 蒼介は警戒心を露わにして身構えた。

 フェイルの視線は蒼介の肉体だけでなく、その内側にある何かを値踏みしているような気味の悪さがあった。

 

「わかってるよ。君の戦い方は技術というより『視る力』と『考える力』だ。状況を瞬時に解析し、最適解を導き出す。その戦術眼は最高だよ。白金級の連中と比べても遜色ない」

 

 フェイルの称賛の言葉に、蒼介は全く喜べなかった。

 褒め言葉の裏に棘が隠されているのがわかるからだ。

 

「でもね」

 

 フェイルは声のトーンをわずかに落とした。

 その瞬間、周囲の空気が一気に冷たくなったような錯覚に陥った。

 

「その体の中の『奇妙な力』に頼りすぎると、いずれ『自分が何者か』を見失うよ」

 

 ドクン、と蒼介の心臓が大きく跳ねた。

 全身の血の気が引いていくのがわかる。

 フェイルの目は、真っ直ぐに蒼介の体を貫いていた。

 いや、体だけではない。その内側に巡るナノマシンの存在を完全に捉えている視線だった。

 

(こいつ……見えているのか? この異世界には存在しないはずの技術の存在が)

 

 現代日本のオーバーテクノロジーの結晶。

 蒼介の肉体を強化し、傷を癒し、周囲の情報を解析する魔法のような力。

 それをフェイルは「奇妙な力」と呼んだ。魔法の溢れるこの世界において、それが異質であることを正確に見抜いているのだ。

 

「力は借り物じゃなく、自分の魂で制御しないとね」

 

 フェイルの言葉が、鋭いナイフのように蒼介の胸に突き刺さる。

 ナノマシンは確かに借り物の力だ。蒼介自身の才能でも努力でもなく、ただ注射器によって体内に打ち込まれただけの他者の技術。

 それに依存しているという自覚は蒼介自身にもあった。

 だが、それに頼らなければこの理不尽な世界で生き抜くことなど不可能なのだ。

 

「……アンタ、何者だ?」

 

 この問いかけは何度目だろうか。蒼介は無意識のうちに腰のナイフに手をかけていた。

 声が微かに震えている。

 未知の怪物に対する恐怖とは違う。自分の根底にある秘密を暴かれたことに対する、人間としての根源的な恐怖だった。

 

『ソウスケさん……』

 

 ペンダントの中からリリアが案じるような声を出す。

 彼女もまた、フェイルの異常な洞察力に戦慄しているのが伝わってきた。

 

 蒼介の殺気を含んだ問いかけに対し、フェイルはふっと表情を緩めた。

 冷ややかだった空気が霧散し、いつもの飄々とした態度に戻る。

 

「だから言ってるじゃないか。ただの長生きした冒険者さ」

 

 フェイルは肩をすくめ、はぐらかすように笑った。

 しかしその答えに納得できるはずがない。

 蒼介がさらに追及しようと口を開きかけた時だった。

 

「お兄さん、笑ってるけど……すっごく悲しそう」

 

 静かな声が回廊に響いた。

 絨毯の上で丸くなっていたネアが、体を起こしてフェイルを見つめていた。

 彼女の紫色の瞳は、恐怖を通り越して純粋な同情の色を浮かべている。

 

「泣き疲れた後の目をしているよ」

 

 ネアの言葉に、その場にいた全員の動きが止まった。

 魔人族の少女は、論理や理屈ではなく、ただその真っ直ぐな魂でフェイルの本質を見抜いていた。

 

 常に余裕に満ち、すべてを遊び半分でこなしているように見える白金級冒険者。

 しかしその分厚い仮面の奥底にある、隠しきれない虚無感と悲哀を、彼女の無邪気な直感が正確に撃ち抜いたのだ。

 

 フェイルの顔から、張り付いていたような笑みが消えた。

 彼は少しだけ目を丸くし、瞬きを繰り返した。

 それは今までに見せたどのような表情よりも、人間らしい驚きの顔だった。

 

「……君は、鋭いね」

 

 フェイルはぽつりと呟いた。

 そして、初めて作り物ではない、ひどく寂しげな笑みを浮かべた。

 まるで遠い昔に失ってしまった大切な何かを思い出すような、酷く懐かしく、そして悲痛な微笑みだった。

 

「長生きしすぎるとね、涙の流し方も忘れちゃうんだよ。だから笑うしかないのさ」

 

 フェイルは誰に言うでもなく、そう独りごちた。

 その横顔には、圧倒的な強者としてのプレッシャーは微塵もなかった。

 ただ途方もない時間を孤独に歩き続けてきた、一人の迷子のようだった。

 

『彼の纏う気配……やはり、どこか古く、そして悲しい匂いがしますわ』

 

 リリアの静かな声が蒼介の脳裏に響く。

 五百年前に滅びた王国の王女である彼女だからこそ、フェイルの抱える果てしない時間の重みを感じ取っているのかもしれない。

 

 ランタンの炎が微かに揺れた。

 フェイルはすぐにいつもの飄々とした態度に戻り、パンッと軽く手を叩いた。

 

「さて、休憩はこれくらいにしておこうか。次の絵画が君たちを待っているよ」

 

 フェイルは立ち上がり、回廊の奥へと視線を向けた。

 その背中には、もう先ほどのような寂しげな影は見えなかった。

 蒼介は無言で立ち上がり、ナイフの柄から手を離した。

 

(ただの狂人じゃない。こいつの奥底には、俺たちの想像もつかないような執念が隠されている)

 

 ナノマシンを見透かされた恐怖は消えていない。

 しかしネアの言葉によって、フェイルという存在がただの不気味な怪物ではなく、一つの心を持った人間なのだということが辛うじて理解できた。

 

「行くぞ。遅れるなよ」

 

 蒼介が短く声をかけると、セレスとネアも立ち上がった。

 セレスの足取りは先ほどよりもずっと軽く、ネアも蒼介の隣にしっかりと並んでいる。

 

 白金の狂言回しという不釣り合いな助言者を得て、彼らは法則の歪む画廊をさらに奥へと進んでいく。

 真っ白な額縁に、次はどのような狂気が描かれるのか。

 蒼介は静かに息を吸い込み、未知の領域へと足を踏み出した。

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