異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第115話 無限の回廊

 冷たい大理石の床の上で短くも深い眠りにつき、蒼介はゆっくりと目を開けた。

 大迷宮第五十一層から続く『法則の歪む画廊』。この階層群は戦闘の激しさよりも、精神を削り取るような悪辣なギミックが特徴的だった。

 視覚情報が直接ダメージに変換されるという狂気の絵画『色彩の暴力』を抜け、一行は回廊の片隅で野営を張っていた。

 見張りを交代した際の、白金級冒険者フェイルとの短い会話が蒼介の脳裏に蘇る。

 

(……探し物、か)

 

 蒼介は起き上がり、少し離れた場所で壁にもたれて目を閉じているフェイルを一瞥した。

 漆黒の革鎧に身を包んだその男は、寝ているのか起きているのかすら判然としない。

 底知れない実力と、人を食ったような飄々とした態度。しかしその奥底には、途方もない時間を孤独に歩き続けてきた者の虚無が隠されていた。

 警戒を完全に解いたわけではない。彼の目的も素性も依然として謎のままだ。

 だがフェイルもまた、自分と同じように何かを喪い、絶望の淵を歩いてきた人間なのだという直感が、蒼介の中の刺々しい敵意をわずかに和らげていた。

 

「おはようソースケ。なんだか全然疲れが取れないよ……」

 

 毛布から這い出してきたネアが、目をこすりながら近づいてきた。

 彼女の紫色の髪はあちこち跳ねており、顔には深い疲労が残っている。精神干渉という大技を連発した代償は、一晩の休息で完全に癒えるものではなかった。

 

 セレスティアも静かに身を起こし、愛用の白銀の槍の手入れを始めている。

 彼女の表情もまた硬い。騎士としての武力が通用しない空間の理不尽さは、彼女のプライドを静かに削り続けているようだった。

 

「無理もない。ここはいるだけで神経をすり減らす空間だ」

 

 蒼介は携帯食料を三人に手渡し、手早く野営の片付けを始めた。

 

「さあ、出発しよう。君たちの冒険の続きを早く見たいからね」

 

 いつの間にか目を開けていたフェイルが、楽しげな声で立ち上がった。

 昨夜の寂しげな表情は微塵も残っていない。彼は再び『悪趣味な観客』の仮面を被り、蒼介たちを試すように見つめている。

 

 一行は再び赤い絨毯の敷かれた回廊を歩き始めた。

 どこまでも続く無機質な大理石の壁。真っ白な額縁が等間隔に並ぶその光景は、もはや見慣れたものになっていた。

 

 第五十二層、五十三層、と。

 彼らは回廊を塞ぐ絵画の迷宮を次々と突破していった。

 すべてが音を吸い込むような静寂の部屋であったり、逆に僅かな物音が爆音となって跳ね返る反響の部屋であったりした。

 その度に蒼介の【探知(サーチ)】とナノマシンの解析能力、そして仲間たちとの連携で理不尽をねじ伏せてきた。

 

 そして第五十七層に該当する地点。

 彼らの前方に、またしても巨大なキャンバスが立ちはだかった。

 

 額縁は白と黒の石材が幾何学的な模様を描いて組み合わさっており、どこか無機質な冷たさを放っている。

 キャンバスに描かれていたのは、無数の階段が複雑に交差する巨大な石造りの建物の内部だった。

 人が歩いている姿も描かれているが、彼らの歩く方向が致命的におかしい。

 ある者は階段を上っているのに下へ向かっており、ある者は壁を床にして歩いている。

 見つめているだけで脳が平衡感覚を失いそうになる、奇妙なだまし絵だった。

 

(まるでエッシャーの絵画だな)

 

 蒼介は現代日本で見たことのある有名な版画を思い出しながら、額縁の下の真鍮プレートを確認した。

 

「『無限の回廊』。嫌な予感しかしない名前だ」

 

「無限だと? 大迷宮の主へと続く道に、無限などあってたまるものか」

 

 セレスが槍を強く握りしめ、キャンバスを睨みつける。

 

「いやあ、これはまた厄介そうな代物だね。またもや空間そのものが歪んでいそうだ」

 

 フェイルは顎に手を当てて楽しそうに絵画を眺めている。

 蒼介は深く息を吸い込み、覚悟を決めてキャンバスへと右手を突き入れた。

 絵の具が波立ち、四人と一人の体は一瞬にして絵画の内部へと吸い込まれていった。

 

 

 * * *

 

 

 コツン、コツン。

 

 石造りの階段を上るセレスの足音が、静寂の空間に虚しく響いていた。

 絵画の中に吸い込まれた蒼介たちが目を開けた時、そこはキャンバスで見た通りの奇妙な空間だった。

 白い石で作られた無数の階段と回廊が、網の目のように交差している。

 上下左右という概念は存在しない。

 右の壁だと思っていた場所が、少し進むと別の回廊の床に繋がっている。天井から生えている階段を下っていくと、なぜか自分たちが元いた場所の背後に出てしまう。

 

「……またここか」

 

 蒼介は舌打ちをして立ち止まった。

 彼らが今立っているのは、四本の階段が交差する踊り場だ。

 その中央には特徴的な傷のついた石柱が立っている。

 この石柱を見るのは、すでに五回目だった。

 

「どういうことだ。私たちは間違いなく上へ向かって階段を登り続けていたはずだぞ」

 

 セレスが苛立ちを隠せない声で言った。

 彼女の額には汗が滲んでいる。

 絵画の中に入ってから、すでに数時間が経過していた。

 その間、魔物は一切出現していない。ただひたすらに階段を登り、回廊を曲がり、出口を探して歩き続けているだけだ。

 しかしどれだけ歩いても、必ずこの石柱のある踊り場に戻ってきてしまうのである。

 

「うう……もう歩けないよぉ。目が回る~、吐きそう……」

 

 ネアが力なくその場にへたり込んだ。

 彼女の三半規管はすでに限界を迎えていた。

 上だと思って登っていた階段がいつの間にか下りになっていたり、廊下の先が天井に繋がっていたりするのだ。

 

 エッシャーのだまし絵の中に閉じ込められ、空間のループを永遠に歩かされているような状態だった。

 魔物が出現しないことが、逆に彼らの精神力をゴリゴリと削り取っていた。

 剣も魔法も役に立たない。ただ出口のない迷路を彷徨うだけの無力感が、セレスのプライドを苛立たせている。

 

「ええい! こんな壁、打ち砕いて進んでやる!」

 

 セレスは怒りに任せ、近くの石壁に向かって槍を渾身の力で突き出した。

 ドォンッ! という轟音と共に、雷を纏った槍が壁を大きく粉砕する。

 しかし次の瞬間だった。

 砕け散った石の破片が、まるで時間を巻き戻すかのように空中で静止し、あっという間に元の壁の形へと修復されてしまったのだ。

 ひび割れ一つ残っていない。

 

「なっ……!?」

 

 セレスは愕然として槍を下ろした。

 

「無駄だよ。力技で壁を壊しても、空間ごと修復されるだけだね」

 

 踊り場の隅で壁にもたれかかっていたフェイルが、面白そうに口を挟んだ。

 彼はこの数時間、一切口を出さずに蒼介たちが迷い歩くのをただ眺めていた。

 

「ここは物理的な建造物じゃない。法則によって定義された概念の空間だ。壁を壊したところで、その『壁がある』という概念自体を破壊できなきゃ意味がない」

 

 フェイルはそう言って、試すような視線を蒼介に向けた。

 

「さあ、どうする? このまま歩き続けて餓死するか、それとも精神が壊れるのが先か。君の『視る力』でどうにかできるかい?」

 

 挑発的な言葉だった。

 蒼介は無言でフェイルを睨み返し、深く息を吐き出した。

 フェイルの言う通りだ。ここはただの迷路ではない。空間そのものが円環のように繋がっているのだ。

 右に進めば左から出てくる。上へ登れば下から出てくる。

 正攻法で歩いて出口が見つかるはずがない。

 

(なら、空間のルールそのものの裏をかくしかない)

 

 蒼介は目を閉じ、体内のナノマシンをフル稼働させた。

 右目に青い光が宿り、【探知(サーチ)】と【物質分析(アナライズ)】のスキルが同時に起動する。

 網膜の裏側に、このだまし絵の空間が3Dのワイヤーフレームとなって構築されていく。

 

『ソウスケさん。この空間、魔力の流れが完全に循環していますわ』

 

 ペンダントからリリアの冷静な声が響いた。

 

『捻って繋げた紙輪のように、表と裏が途切れることなく繋がっています。どこにも出口の気配がありませんの』

 

「ああ。わかってる」

 

 蒼介は脳内のマップを回転させながら呟いた。

 

「完璧に作られた空間に見える。だが、迷宮のギミックである以上、これを構築しているシステムが存在するはずだ」

 

 現代日本のシーカーとしての経験が、蒼介の思考を導いていく。

 どれほど精巧に作られた3Dゲームの空間であっても、必ずポリゴンの繋ぎ目やテクスチャのズレが存在する。

 開発者が意図しない「バグ」や「エラー」の箇所だ。

 この『無限の回廊』も、自然の産物ではなく迷宮が創り出したシステムに過ぎない。ならば必ずどこかに破綻がある。

 

(ナノマシンからのエラー報告を拾い上げろ)

 

 蒼介は意識を集中させた。

 【物質分析(アナライズ)】は、この空間の石材がすべて同じ成分であることを示している。

 しかし空間座標を計算する際、ナノマシンが微小なエラーを吐き出し続けている箇所があった。

 

「……そこか」

 

 蒼介はゆっくりと目を開け、踊り場から続く一本の階段の中腹を睨みつけた。

 肉眼で見ればただの空間だ。何もない虚空である。

 しかしナノマシンの解析では、その一点だけ空間座標の計算が合致していない。

 右の回廊の空間と、左の回廊の空間が、そこで無理やり縫い合わされているのだ。

 

「見つけた。あそこだけ力の流れが途切れてる」

 

 蒼介の言葉に、セレスが弾かれたように顔を上げた。

 

「本当か!? 出口があるのか!」

 

「出口じゃない。空間の『繋ぎ目』だ。ゲームでいうところのテクスチャのズレみたいなもんだ」

 

 蒼介は腰のホルスターからアンカーショットを引き抜いた。

 異世界人であるセレスたちにゲーム用語は通じないだろうが、言葉の意味を理解させる必要はなかった。

 

「セレス、魔力を限界まで練り上げろ。最高火力の突きを準備するんだ」

 

「了解した!」

 

 セレスは文句一つ言わず、白銀の槍を構えた。

 彼女の全身から眩い紫電がほとばしる。

 フェイルの助言を取り入れたことで、彼女の魔力循環は格段にスムーズになっていた。肩甲骨から溢れ出す魔力が、怒りという感情を乗せて槍の穂先に極限まで圧縮されていく。

 

 蒼介はアンカーショットの照準を、虚空の何もない一点へと定めた。

 空間のほころび。

 そこに物理的な質量があるのかどうかすらわからない。

 だが蒼介は己の直感とナノマシンの解析を完全に信じていた。

 

「食らえッ!」

 

 蒼介は引き金を引いた。

 特殊合金製のアンカーが空気を切り裂いて射出される。

 カキンッ! という硬質な音が響き渡った。

 何もないはずの虚空で、アンカーがピタリと静止したのだ。

 いや、静止したのではない。「見えない壁」に深く突き刺さったのだ。

 

「……嘘だろ。本当に空間そのものに刺さった」

 

 フェイルが初めて驚きの声を上げた。

 蒼介は即座にワイヤーの巻き取り機構を最大出力で稼働させた。

 

「セレス! 俺がワイヤーで空間のほころびを引っ張る!」

 

 蒼介の全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 ナノマシンの出力を限界まで引き上げ、両足で石畳を強く踏み締める。

 強靭なワイヤーがギリギリと音を立てて張り詰めた。

 見えない空間の壁を、物理的な力で強引に引き剥がそうとする前代未聞の荒業だ。

 

「おおおおぉぉぉぉッ!」

 

 蒼介の雄叫びと共に、虚空に奇妙な変化が生じた。

 アンカーが刺さった一点を中心に、空間そのものがグニャリと歪み始めたのだ。

 まるで透明な布を無理やり引っ張っているかのように、周囲の景色が引き伸ばされ、不自然なシワが寄る。

 メビウスの輪のように完璧に繋がっていた空間の法則に、物理的な暴力による「破綻」が生じた瞬間だった。

 

 ミリミリミリ……ッ。

 

 空間が悲鳴を上げるような音が響き、アンカーの周辺に真っ黒な亀裂が走った。

 次元の裂け目。

 その向こう側には、このだまし絵の世界とは違う、本来の赤い絨毯の回廊の景色が微かに見えていた。

 

「いまだセレス! その隙間に全力で雷をブチ込め!」

 

 蒼介の怒声が飛ぶ。

 セレスは一瞬の迷いもなく大地を蹴った。

 限界まで圧縮された雷の魔力が、彼女の体を紫電の矢へと変える。

 空間の繋ぎ目を引き剥がしたことで生じた、わずか数十センチの亀裂。

 そこに向けて、セレスは白銀の槍を渾身の力で突き出した。

 

「【雷刃(ライトニング・ピアス)】ッ!」

 

 極太の雷光が空間の亀裂に直撃した。

 それは完璧に構築されていたシステムに対する、致命的なウイルスの注入だった。

 破壊不可能なはずの空間の概念が、内部から注入された膨大な魔力によって完全に飽和する。

 

 パァンッ!!

 

 巨大なガラスが粉々に砕け散るような、甲高い爆音が空間全体に響き渡った。

 アンカーの刺さっていた見えない壁が粉砕され、そこを起点としてだまし絵の空間全体に無数の亀裂が走っていく。

 

「世界が……割れるよぉ!」

 

 ネアが頭を抱えて悲鳴を上げた。

 交差する階段も、天井に続く廊下も、すべてがステンドグラスのようにひび割れ、バラバラに崩壊し始めた。

 偽りの空間が剥がれ落ちていく。

 光の奔流が四人を包み込み、強烈な浮遊感と共に彼らの体を現実へと弾き出した。

 

 ドサッ、という鈍い音と共に、蒼介たちは赤い絨毯の上へと転がり出た。

 背後を振り返ると、『無限の回廊』が描かれていたキャンバスは完全に色を失い、中央から大きく裂けていた。

 ギミックの崩壊。

 彼らはだまし絵の迷宮を、純粋な知恵と物理的な暴力でこじ開けたのだ。

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 蒼介は仰向けに倒れ込み、激しく息を吸い込んだ。

 ワイヤーを引き絞った両腕の筋肉が断裂寸前の痛みを発している。

 

 セレスも槍を杖にして膝をつき、肩で息をしていた。

 ネアは絨毯の上に大の字になって目を回している。

 

「素晴らしい」

 

 頭上から、惜しみない拍手が降ってきた。

 フェイルだった。

 彼は蒼介たちを見下ろし、心底楽しそうな笑顔を浮かべていた。

 

「空間の歪みを、法則の穴を突いて物理でこじ開けるとは。そんな力技、いままで見たことがないよ」

 

 フェイルの称賛の言葉に、蒼介は顔をしかめた。ペンダントの中のリリアが微かに反応したのがわかった。

 

「……最高だね。君たちの冒険は本当に退屈しない」

 

 フェイルはしゃがみ込み、蒼介の顔を覗き込んだ。

 

「これだから、人間を見るのはやめられないんだ」

 

 その言葉は、彼自身がすでに人間という枠組みを超えた存在であることを、無意識に宣言しているようだった。

 蒼介は重い腕を動かし、フェイルの顔から視線を逸らした。

 

「見学は楽しめたか。ならさっさと先へ行くぞ」

 

 蒼介は痛む体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。

 無限に続くかと思われた絶望の空間は突破した。

 法則の歪む画廊の攻略も、いよいよ終盤に差し掛かっているはずだ。

 

「セレス、ネア。立てるか」

 

「ああ。魔力は消費したが、精神的な苛立ちは晴れた」

 

 セレスが槍を肩に担いで力強く頷く。

 ネアもふらふらと立ち上がり、無言で蒼介の背中にしがみついた。

 

「……行くぞ」

 

 蒼介は短く告げ、再び静寂の回廊を歩き始めた。

 フェイルの不気味な賞賛を背に受けながら、彼らは大迷宮のさらなる深淵へと足を進めていくのだった。

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