異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第116話 少女の絵物語

 空間を切り裂くような甲高い爆音が去り、後には静寂だけが残った。

 だまし絵のように物理法則が狂い果てた『無限の回廊』。その理不尽なギミックを暴力と知恵で突破した蒼介たちは、本来の正しい空間である第五十一層から続く画廊の回廊へと復帰していた。

 そこから先の道のりは、驚くほど静かで平穏なものだった。

 第五十八層、第五十九層に該当すると思われる絵画の迷宮も存在した。しかし蒼介の【探知(サーチ)】とナノマシンの解析、そして仲間たちの完璧な連携により、彼らは大きな消耗を強いられることなく次々と障害をクリアしていったのだ。

 

 そうして彼らはついに、中層の後半戦の締めくくりとなる階層へと足を踏み入れていた。

 大迷宮第六十層。

 ボス部屋へと続く最後の大回廊である。

 

 床には長く美しい真紅の絨毯が敷き詰められていた。

 磨き上げられた大理石の壁は、鏡のように蒼介たちの姿を淡く映し出している。

 高い天井からは豪華な水晶のシャンデリアが等間隔に吊り下げられており、青白い光が回廊全体を幻想的に照らしていた。

 壁に並ぶ額縁の中には、もはや人を狂わせるような絵画は存在しない。ただ純白のキャンバスが静かに並んでいるだけだった。

 魔物の気配は全くない。

 靴底が分厚い絨毯に沈み込む微かな音と、衣擦れの音だけが空間に響いていた。

 

「静かだな。嵐の前の静けさってやつか」

 

 蒼介は警戒を緩めることなく前方を見据えながら呟いた。

 体内のナノマシンは常に周囲の環境情報を収集し続けている。危険な兆候はない。だがこの静謐さが逆に、この先に待ち受ける強大な存在へのプレッシャーを煽っていた。

 

「ここを抜ければ、ついに第六十層の主との戦いとなる。気を引き締めていこう」

 

 隣を歩くセレスティアが、白銀の槍の柄を軽く握り直して言った。

 彼女の横顔には、これまでの階層で培われた確かな自信と騎士としての誇りが満ちていた。

 白金級冒険者フェイルからのたった一言の助言。それを自らの武の形に組み込んだ彼女は、肉体的にも精神的にも一回り大きく成長していた。

 

『ええ。私の感知にも、この回廊の奥から凄まじい魔力の渦が感じられますわ』

 

 蒼介の腰に下げた銀のペンダントから、リリアーナの凜とした声が響く。

 

『これまでの主とは比べ物にならないほどの密度です。おそらく、この画廊の空間そのものを維持している中枢が存在するのでしょう』

 

「なるほどな。そいつをぶっ飛ばせば、この趣味の悪い階層ともお別れってわけだ」

 

 蒼介は軽く肩を回し、首の骨を鳴らした。

 疲労は蓄積しているが、不思議と体は軽かった。

 

 絶望的な状況を何度も共に乗り越えてきた。隣には背中を預けられる仲間がいる。

 現代日本のダンジョンで孤独に泥水をすすっていた頃の彼には、想像もつかないほどの充足感が胸の中にあった。

 

「……ねえねえ、ソースケ」

 

 ふいに、外套の裾をちょいくいと引っ張られる感覚があった。

 視線を落とすと、魔人族の少女ネアが、蒼介の顔を下から覗き込んでいた。

 彼女の紫色の髪が、歩くたびにふわふわと揺れている。

 長丁場の探索で顔には疲労の色が浮かんでいるはずだ。しかし彼女の大きなアーモンド型の瞳は、どこか楽しげにキラキラと輝いていた。

 

「どうしたネア。足が痛むのか?」

 

 蒼介が歩みを少しだけ緩めて尋ねる。

 

「ううん、全然平気だよ! ただね、この絨毯の道を歩いてたら、ふと昔のことを思い出しちゃって」

 

 ネアは弾むような声で言いながら、蒼介の隣へとぴたりと寄り添ってきた。

 

「昔のこと?」

 

「うん。私ね、人間の作った絵物語が大好きだったんだ」

 

 ネアは懐かしむように目を細め、シャンデリアの光を見上げた。

 

「魔人族の隠れ里って、外の世界の情報が全然入ってこないの。でもたまーにね、迷宮に迷い込んだ冒険者の遺品とかで、本が流れ着いてくることがあったんだよ」

 

 その言葉に、蒼介はわずかに眉を寄せた。

 冒険者の遺品。それは迷宮で命を落とした誰かの生きた証だ。

 それを娯楽として消費するという事実に少しだけ残酷さを感じる。だが閉ざされた環境で生きる魔人族の子供にとっては、それが外の世界を知る唯一の窓だったのだろう。

 

「どんな本を読んでたんだ?」

 

「えっとね、色々あったよ! 剣と魔法の英雄のお話とか、お姫様が悪い竜に攫われるお話とか。文字が読めない本もあったけど、絵が描いてあったから想像して読んでたの」

 

 ネアは両手を大きく広げて、その本の大きさを表現するように身振り手振りを交える。

 

「私、その本を擦り切れるくらい何度も何度も読んだっけ。里の大人たちは『外の世界は怖いところだ』って言うばっかりだったけど、私には絵物語の中の世界がすごくキラキラして見えたんだあ」

 

 彼女の語る言葉には、純粋な好奇心と憧れが詰まっていた。

 魔の峡谷の中腹にある隠れ里。そこでの生活は平和だっただろうが、自由奔放な彼女にとっては窮屈な鳥籠のようなものだったのかもしれない。

 

「そうか。それで里を飛び出してきたってわけだ」

 

 蒼介が苦笑いしながら言うと、ネアはえへへと照れくさそうに笑った。

 

「そうだよ。ソースケたちについてきて本当に良かったって思ってる。だって、絵物語の中でしか見たことのない本物の『冒険』を、今こうして自分がしてるんだもん!」

 

 ネアは自身の胸に両手を当て、誇らしげに胸を張った。

 その無邪気な姿に、隣を歩いていたセレスも思わず頬を緩めている。

 

「君は本当に物怖じしないな。普通の少女なら、このような迷宮の深淵に足を踏み入れただけで恐怖に竦んでしまうだろうに」

 

「だってセレちゃんやソースケが守ってくれるでしょ? それにリリさんもいるし! 私、全然怖くないもん」

 

 ネアの真っ直ぐな信頼の言葉に、セレスは少しだけ顔を赤らめて咳払いをした。

 

『ふふ。ネアさんは本当に強い子ですわ』

 

 ペンダントの中でリリアも楽しげに笑う気配がした。

 

「それでね、私、ずっと憧れてることがあるの」

 

 ネアは蒼介の腕に軽く触れながら、さらに言葉を続けた。

 彼女の瞳が、何か大切な宝物を語る子供のようにいっそう輝きを増す。

 

「憧れてること?」

 

「うん! 物語の主人公ってね、ここぞって時に、すごく素敵でかっこいい『言葉』を使うでしょ?」

 

 ネアは歩くのをやめ、蒼介の前に立ち塞がるようにして両手を腰に当てた。

 そしてわざとらしいくらいに低い声を作って、ポーズを決める。

 

「『俺が相手だ、悪しき竜め!』とか、『この剣に誓って、君を守り抜く!』とかさ。そういう決め台詞みたいなやつ!」

 

 そのあまりにも古典的で芝居がかった台詞回しに、蒼介は思わず吹き出しそうになった。

 現代日本の漫画やアニメでもよく見る王道の展開だ。異世界の絵物語も、人間が好むエンターテイメントの根幹は変わらないらしい。

 

「私、そういうのにずっと憧れてるんだあ」

 

 ネアはポーズを解き、再び普段の無邪気な表情に戻った。

 

「だから私もね、いつか冒険の中で一番大切な場面が来たら、私だけのかっこいい言葉を使うぞー! って、ずっと前から決めてるの」

 

 彼女の宣言は、静謐な大回廊に明るく響き渡った。

 それは死と隣り合わせの迷宮探索にはあまりにも不釣り合いな、平和で夢見がちな少女の願いだった。

 

 大迷宮の攻略は英雄譚のような華々しいものではない。血と泥にまみれ、恐怖と絶望に耐えながら生き汚く這いずるだけの作業だ。

 それでも、ネアの中にある純粋な憧れを否定する気にはなれなかった。

 

「……お前なぁ」

 

 蒼介は呆れたように短く息を吐き出した。

 しかしその顔には、彼自身も気づいていないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。

 彼は右手を伸ばし、ネアの青紫色の髪を少し乱暴に、しかし優しくわしゃわしゃと撫で回した。

 

「わ、わわっ。ソースケ、髪がぐしゃぐしゃになっちゃうよぉ」

 

「……いい心がけじゃないか。お前なら言えるさ、そのかっこいい言葉ってやつが」

 

 蒼介はネアの頭から手を離し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「その『ここぞ』って時が来たら、俺が特等席で聞いててやるよ。だからせいぜい、気の利いた台詞を考えておくんだな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ネアの顔がパァッと花が咲いたように明るくなった。

 彼女は弾かれたように蒼介に飛びつき、その右腕にギュッと抱きついた。

 

「えへへ、約束だよソースケ! 絶対に特等席で聞いててね!」

 

「おいおい、歩きにくいだろ。離れろって」

 

 蒼介は苦笑しながら腕を振るが、ネアはコアラのようにしがみついたまま離れようとしない。

 彼女の体温が外套越しに伝わってくる。

 

 それは現代日本で孤独に生きてきた蒼介にとって、かつては鬱陶しいとしか感じなかった他者の温もりだった。

 しかし今、その温もりは彼の心の奥底にこびりついていた氷を、確実に溶かし続けていた。

 

「こらネア。ソウスケが困っているだろう。あまり我が儘を言うものではないぞ」

 

 セレスが呆れたように窘めながらも、その目尻は優しく下がっている。

 

『本当に賑やかなことですわね。でも、この過酷な場所で笑顔でいられるのは素晴らしいことですわ』

 

 リリアの穏やかな声が、その場を温かく包み込んでいた。

 四人の間に流れる空気は、とても六十層のボスの間へと向かっているとは思えないほど和やかだった。

 互いを信頼し、背中を預け合える関係。

 それは大迷宮という絶望の闇の中で、彼らが自らの手で掴み取った確かな光だった。

 

 そんな彼らの微笑ましいやり取りを、少し後ろから静かに見つめている者がいた。

 白金級冒険者フェイルである。

 彼はポケットに両手を突っ込んだまま、足音一つ立てずに回廊を歩いていた。

 

 彼の漆黒の瞳は、楽しそうに笑い合う蒼介とネアの姿を真っ直ぐに捉えている。

 普段の彼であれば、ここで茶化すような言葉を一つや二つ投げかけているところだろう。

 しかし今の彼は何も言わなかった。

 その口元にはいつもの飄々とした笑みは浮かんでいない。ただ、蒼介たちを眩しそうに見ている。

 

「……君たちは、本当にいいチームだ」

 

 フェイルの口から、微かな声が零れ落ちた。

 それは誰に聞かせるためでもない、彼自身の内側から自然と溢れ出たような呟きだった。

 

「その光を、どうか最後まで失わないでほしいね」

 

 その声の響きには、昼間見せていたような強者の余裕は微塵もなかった。

 そこにあるのは、自分には永遠に手に入らないものを眩しむような、ひどく深い哀愁だった。

 

 たった一人で歩き続けてきた者。

 失われたものを探し求め、死ぬことすら許されないという男。

 彼にとって、蒼介たちの間で結ばれた絆の輝きは、あまりにも美しく、そして残酷なほどに眩しかったのだろう。

 

 フェイルはゆっくりと目を細め、シャンデリアの青白い光を仰ぎ見た。

 その横顔は、大迷宮の暗闇よりもずっと深く、底知れない孤独に染まっていた。

 

「おいフェイル。遅れるなよ」

 

 前方を歩いていた蒼介が、少しだけ振り返って声をかけた。

 その声に反応した瞬間、フェイルの顔に再びいつもの胡散臭い笑顔が張り付いた。

 孤独な亡霊のような顔は一瞬にして消え去り、ただの軽薄な冒険者の顔へと戻る。

 

「ごめんごめん。君たちの仲の良さにあてられて、ちょっと立ち止まっちゃったよ。いやあ、青春だねえ」

 

 フェイルは小走りで蒼介たちの元へと追いつき、大げさな身振りでからかって見せた。

 

「なにが青春だ。ふざけたことを言うな」

 

 蒼介は舌打ちをして前を向き直した。

 彼の【探知(サーチ)】はフェイルの感情の揺らぎまでは読み取れない。

 しかし先ほどのフェイルの纏っていた空気が、ただの軽薄な男のものではなかったことだけは、蒼介の本能が確かに感じ取っていた。

 

(こいつの抱えている闇は、想像以上に深いかもしれないな)

 

 蒼介はネアが腕にしがみついたまま歩くのを許容しつつ、思考の端でフェイルの存在を反芻していた。

 敵対する理由はない。だが心を開き切ることもできない。

 そんな奇妙な均衡を保ちながら、彼らは真紅の絨毯の上を進み続けた。

 

 やがて、果てしなく続くと思われた大回廊の奥に、一つの巨大な影が浮かび上がってきた。

 壁の額縁とは違う。それは回廊の終点を完全に塞ぐようにしてそびえ立つ、重厚な扉だった。

 

 扉の表面には、複雑な歯車と眼球を組み合わせたような、悍ましくも美しい装飾が彫り込まれている。

 扉の隙間からは、今まで経験したことのないほど濃密で、そして暴力的な魔力の波動がじわじわと漏れ出していた。

 

「……着いたな」

 

 蒼介は足を止め、その巨大な扉を見上げた。

 

「これが第六十層の主の部屋か」

 

 セレスが槍を構え、表情を険しくした。

 ネアも蒼介の腕から離れ、少しだけ不安そうに扉を見つめている。

 

『皆様。ここから先は、これまでの空間の歪みとは次元の違う力との戦いになりますわ。どうか、お気をつけくださいませ』

 

 ペンダントの中のリリアが、静かに、しかし力強く警告を発した。

 蒼介は無言で頷き、腰のナイフの柄を確かめるように握りしめた。

 体内のナノマシンが戦闘態勢への移行を完了し、全神経が極限まで研ぎ澄まされていく。

 

「さあ、見学のメインイベントだ。どんな怪物が出てくるか、楽しみだね」

 

 フェイルが背後で楽しげに口笛を吹いた。

 蒼介はその言葉を無視して、仲間たちの顔を一度だけ見渡した。

 

 セレスの青い瞳には強い意志が。ネアの紫の瞳には信頼が宿っている。

 彼らはもう、ただ迷宮を彷徨うだけの無力な存在ではない。数々の死線を乗り越え、物理法則すらもねじ伏せてここまで辿り着いたのだ。

 

「行くぞ。俺たちの手で、このふざけた画廊に幕を引いてやる」

 

 蒼介は扉の重厚な取っ手に手をかけた。

 軋むような重低音を響かせながら、第六十層のボスの間への扉がゆっくりと開かれようとしていた。

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