異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第117話 狂気のキャンバス

 軋むような重低音を響かせながら、大迷宮第六十層のボスの間への扉がゆっくりと開かれていく。

 複雑な歯車と眼球を組み合わせたような悍ましい装飾が施された両開きの巨大な扉。その隙間から溢れ出してきたのは、肌を刺すような濃密で暴力的な魔力の波動だった。

 

 蒼介は扉の取っ手から手を離し、ゆっくりと鞘からナイフを引き抜いた。

 体内のナノマシンが周囲の異常な魔力濃度を検知し、網膜に赤い警告ログを幾重にも明滅させている。だが彼の呼吸は驚くほど静かで深く、迷いや恐怖は微塵もなかった。

 

「……行くぞ」

 

 蒼介の短く力強い声に、背後の仲間たちが無言で頷く。

 セレスティアは白銀の槍を握り直し、ネアは両手を胸の前でギュッと組んで魔力を高めている。腰のペンダントに宿るリリアーナもまた、これまでにないほど鋭敏な魔力探知を周囲に張り巡らせていた。

 扉が完全に開ききり、彼らは中へと足を踏み入れた。

 

 その瞬間、蒼介は自分の視界がバグを起こしたのかと錯覚した。

 そこは、どこまでも続く真っ白な空間だった。

 

 天井も床も壁も境界線が曖昧で、すべてが純白に塗り潰されている。しかしその広大な空間の四方を囲むようにして、見上げるほど巨大な金色の額縁が存在していた。

 まるで彼ら自身が、一枚の巨大な白いキャンバスの中に取り込まれてしまったかのような錯覚を覚える。

 広さで言えばローマの闘技場コロッセオをすっぽりと飲み込むほどだろう。

 そしてその広大な真っ白な闘技場の中央に、一つの異形が佇んでいた。

 

「あれが……第六十層の主か」

 

 セレスが槍の穂先を下げたまま、険しい顔で呟いた。

 それは人間の形をしていたが、とても人間とは呼べない代物だった。

 

 身長は優に三メートルを超えている。その痩せぎすの体躯には、あらゆる色の絵の具でドロドロに汚れたボロボロのローブが纏われていた。

 頭部には目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした白い球体が乗っているだけだ。

 右の手には身の丈を越えるほど巨大な筆が握られ、左腕自体が極彩色の絵の具が渦巻く巨大なパレットと同化している。

 

『ソウスケさん。気をつけてくださいませ。これまでの絵画のように……あの魔物自身が、法則を歪める力を内包しています』

 

 リリアの緊張を孕んだ声が蒼介の脳裏に響く。

【法則の歪む画廊】と呼ばれる第五十一層から続く中層後半戦の総決算。

 そのすべてを統べる主。

 フェイルが囁く。

 

「『狂気の画家(マッド・ペインター)』。そう呼ばれてるよ」

 

 蒼介は右目に青い光を宿し、【探知(サーチ)】のスキルを最大出力で稼働させた。

 真っ白な空間の座標データが次々と解析されていく。

 その時だった。

 歩いていた白金級冒険者フェイルが、不意に足を止めた。

 彼は真っ白な空間を見渡し、満足そうに頷くと、ポケットから手を出して軽く肩をすくめた。

 

「さて、僕の同伴はここまでだ。さすがに「主」との戦闘は手伝えない。これは君たちの試練だからね」

 

 フェイルはそう言うと、信じられないほどの跳躍力でふわりと宙に舞い上がった。

 重力を完全に無視したその動きは、数十メートル離れた金色の額縁の一部、まるで観客席のように一段高くなっている場所へと正確に着地した。

 彼はそこに腰を下ろし、片膝を立てて楽しそうに蒼介たちを見下ろした。

 

「ここなら全体がよく見渡せる。特等席で応援させてもらうよ」

 

 その態度は、これから始まる死闘をただの見世物として楽しもうとする残酷な傍観者のそれだった。

 しかし蒼介は動じなかった。

 最初からこの男に助けを求める気など毛頭ない。この理不尽な迷宮を自分たちの力で切り拓いてこそ、生きて帰る道が繋がるのだ。

 

「ハッ、最初からアンタの力なんかアテにしてねえよ!」

 

 蒼介はフェイルのいる高台に向かってナイフの切っ先を向け、不敵な笑みを浮かべてみせた。

 強がりではない。ここまで共に死線を越えてきた仲間たちへの絶対的な信頼が、彼にその軽口を叩かせていた。

 

 蒼介の声に反応したのか、それとも侵入者を排除するシステムが起動したのか。

 闘技場の中央に立つ『狂気の画家(マッド・ペインター)』が、ゆっくりと巨大な筆を振り上げた。

 のっぺらぼうの頭部がギギギと不気味な音を立てて蒼介たちの方を向く。

 そして左腕のパレットから、ドロリとした赤い絵の具を巨大な筆にたっぷりと含ませた。

 

「来るぞ! 散開しろ!」

 

 蒼介の号令と同時に、三人は瞬時に散った。

 マッド・ペインターが巨大な筆を力任せに横へと振り抜く。

 バシャアァァッ! という生々しい水音と共に、鮮やかな赤い絵の具が真っ白な空間に向かって放物線を描いて飛散した。

 それは物理的な液体ではなかった。

 空中の何もない空間に付着した赤い絵の具は、そのまま空間そのものを染め上げるようにピタリと静止したのだ。

 そして次の瞬間、その赤く染まった空間の範囲内で、物理法則が暴力的に書き換えられた。

 

「きゃあっ!?」

 

 ネアの悲鳴が上がった。

 彼女が回避のために飛び込んだ先、赤い絵の具が飛散した空間。

 そこに足を踏み入れた瞬間、ネアの体は突如として上方に向かって「落下」を始めたのだ。

 天地の逆転。第五十一層の『逆さまの雨』で経験した、重力が反転する異常空間が、その赤い領域にだけ局所的に発生したのである。

 

「ネア!」

 

 蒼介が叫ぶが、ネアは空中に向かって真っ逆さまに落ちていく。

 しかし彼女はパニックになりかけていたが、これまでの経験が彼女の体を無意識に動かした。

 

「【風の壁(ウィンド・シールド)】!」

 

 ネアは空中に向かって風の障壁を展開し、それを足場にするようにして強引に空中で姿勢を立て直した。

 そのまま赤い空間の範囲外へと風の反発力を利用して飛び出す。

 範囲外に出た瞬間、正常な重力が戻り、ネアは白い床へとドスンドスンと転がった。

 

「いったぁ……! なにこれ、そこだけ上と下が逆になってた!」

 

「無事かネア! 奴の筆から放たれた色が、その場の法則を書き換えているんだ!」

 

 蒼介は素早く状況を分析し、叫んだ。

 マッド・ペインターは攻撃を休めることはない。

 今度はパレットから真っ青な絵の具を掬い取り、蒼介とセレスの足元に向かって激しく叩きつけた。

 

「退けセレス!」

 

 蒼介は【迅速(ブースト)】を瞬時に起動し、青い絵の具の飛沫から逃れるように大きく後方へ跳躍した。

 

 セレスもまた、フェイルの助言で得た滑らかな魔力運用で地面を蹴り、大きく距離を取る。

 青い絵の具が白い床に付着した瞬間、そこを中心とした半径十メートルの範囲が、突如としてドロドロの青い沼へと変貌した。

 ただの沼ではない。

 その沼からは白い冷気がもうもうと立ち上り、周囲の空気を瞬時に凍らせている。

 第五十六層『色彩の暴力』で経験した、視認するだけで凍傷を引き起こす極低温のギミック。それが直接的な物理トラップとして床に展開されたのだ。

 

「シュー……ッ」

 

 青い沼に触れた空気が凍りつき、微細な氷の結晶となってキラキラと舞い散る。

 もしあそこに足を踏み入れていれば、一瞬にして両足が壊死していただろう。

 

「来るぞ! これまでの絵画ギミックの複合だ!」

 

 蒼介の叫び声が、真っ白な闘技場に響き渡った。

 重力反転、極低温の沼。

 この六十層の主は、これまでの画廊に存在したあらゆる理不尽な法則を、パレットの上で自在に混ぜ合わせ、キャンバスであるこの空間に描き出す力を持っているのだ。

 それも、絵画の中に入らなければ影響を受けなかった今までとは違う。

 リアルタイムで、戦場の地形と法則そのものを次々と塗り替えていくという、悪夢のような能力。

 

「なんてデタラメな能力だ……。一歩踏み出す先が、どのような法則に支配されているかわからないということか!」

 

 セレスが槍を構えたまま、額に冷や汗を浮かべた。

 彼女の目の前には赤い重力反転の空間が広がり、背後には青い極低温の沼が横たわっている。

 安全な白い床の領域は、マッド・ペインターが筆を振るうたびに少しずつ削られていく。

 

『ソウスケさん! 敵が次の色を準備しています! 今度は黄色ですわ!』

 

 リリアの焦燥に満ちた声が脳内に響く。

 マッド・ペインターののっぺらぼうの頭部が、不気味に揺れている。

 左腕のパレットの上で、黄色い絵の具がバチバチと激しい火花を散らしながら練り上げられていた。

 感電のギミック。それがどのような形で襲ってくるかはわからないが、直撃すれば命はないだろう。

 

(くそっ、地形を書き換えられるなら、どうやって奴に近づけばいい!)

 

 蒼介はナノマシンの【探知(サーチ)】をフル稼働させ、刻一刻と変化する安全地帯の座標を計算し続ける。

 しかし敵の攻撃範囲は広く、絵の具の飛沫一つ一つが致命的なトラップと化す。

 近づくことすら許されない、遠距離からの絶対的な空間支配。

 

「試練はまだ始まったばかりだよ。さあ、どう描いてみせるのかな?」

 

 遥か上空の高台から、フェイルの楽しそうな声が降ってくる。

 蒼介は奥歯を強く噛み締め、ナイフを構え直した。

 

「セレス、ネア! 足元ばかり見るな! 奴の筆の動きと色を見極めろ!」

 

 蒼介は絶望的な状況下にあっても、決して思考を止めなかった。

 どんな理不尽な力にも、必ずシステム的な穴がある。

 それが現代ダンジョンを生き抜いてきたシーカーの矜持だ。

 

「色が法則なら、その法則を逆手に取ってやる!」

 

 巨大な筆が振り下ろされ、黄色い稲妻のような絵の具の飛沫が、蒼介たちの頭上へと降り注いでくる。

 真っ白なキャンバスの上で、極彩色の絶望に彩られた第六十層の死闘が、今まさに幕を開けた。

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