異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第119話 破綻するキャンバス

 真っ白なキャンバスに描かれた地獄のような空間で、大迷宮第六十層の主『狂気の画家(マッド・ペインター)』が巨大な筆を振り上げた。

 のっぺらぼうの頭部が、不気味に揺れる。

 左腕のパレットの上で、赤、青、黄、緑といった極彩色の絵の具がすべて混ざり合い、底なしの沼のような漆黒へと変貌を遂げていた。

 

 これまでの理不尽な法則がすべて凝縮されたかのような、最悪の一撃。

 それが空間に叩きつけられれば、重力異常、極低温、高圧電流、そして猛毒が一度に牙を剥くことになろう。

 回避する場所などすでにこの闘技場には残されていない。

 

「ネア!」

 

 蒼介の鋭い声が、戦場の轟音を切り裂いた。

 すでに限界を迎え鼻から赤い血を流していた魔人族の少女が、その声に反応して紫色の瞳を限界まで見開いた。

 

「わかってる! 私だって、みんなの足手まといにはならないもん!」

 

 ネアは両手を胸の前で強く組み合わせ、全身の魔力を己の双眸へと集中させた。

 彼女の精神回路が悲鳴を上げ、毛細血管が切れるような激しい痛みが脳を直接殴りつける。

 それでも彼女は決して視線を外さなかった。

 

「私の目を見て……!」

 

 ネアの放つ強烈な魔力の波長が、空間を伝ってマッド・ペインターの意識の根源へと突き刺さった。

 標的は視覚や痛覚ではない。

 この魔物が絶対の自信を持って振るおうとしている、その手元の感覚だ。

 

「筆の軌道が、ズレているよ……!」

 

 強力な錯覚の暗示。

 巨大な筆を振り下ろそうとしたマッド・ペインターののっぺらぼうの顔が、一瞬だけピクリと硬直した。

 彼自身の認識の中で、握りしめているはずの筆の角度がわずかに狂ったのだ。

 

 自分の描こうとしている絵がキャンバスの意図しない場所に付着してしまう。芸術家としてのプライドがそのズレを許容できず、魔物は無意識のうちに軌道を修正しようと手首を捻った。

 その修正動作が生み出したのは、ほんのわずかなタイムラグだった。

 漆黒の絵の具が筆から放たれ、白い空間に張り付くまでの時間が、一瞬だけ遅延したのである。

 

『今ですわ! ソウスケさん!』

 

 ペンダントからリリアーナの魂が叫んだ。

 法則が書き換わる直前の、完全に無防備となるニュートラルな時間。

 0.5秒という絶望的に短い隙が、ネアの決死の暗示によってわずかに引き伸ばされたのだ。

 

「おおおおぉぉぉぉッ!」

 

 蒼介は凍傷で感覚を失った左腕を引きずりながら、大地を爆発的に蹴った。

 体内のナノマシンに蓄えられていた最後のエネルギーをすべて神経系へと叩き込む。

迅速(ブースト)】の最大出力。

 彼の肉体は黒い弾丸と化し、真っ白な空間を音速を超えて突き抜けた。

 周囲の景色が引き伸ばされ、秒針の音が止まったかのような極限の加速世界。

 蒼介は右手に握ったナイフを逆手に構え、マッド・ペインターの無防備な懐へと一気に肉薄した。

 

(これで終わりだ!)

 

 蒼介が渾身の力を込めてナイフを突き出そうとした、その瞬間だった。

 彼の【探知(サーチ)】のレーダーが、マッド・ペインターの胸部を覆う致命的な障害物を可視化した。

 法則のバリアは確かに消え去っている。しかし、物理的な防御を担う硬質な魔力障壁が、分厚いガラスのように奴の心臓部を守ったまま残存していたのだ。

 

(クソッ! 物理障壁は法則書き換えの隙とは無関係なのか!)

 

 蒼介は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばった。

 このままナイフを突き出しても、鋼鉄より硬い障壁に弾かれるだけだ。

 かといって足を止めれば、0.5秒の隙はすぐに終わりを告げ、漆黒の絵の具が発動して死を迎える。

 どうする。どうすればこの理不尽な壁を打ち砕ける。

 思考が焼き切れそうになったその刹那、腰のペンダントからリリアの絶叫が響いた。

 

『ソウスケさん! 障壁の結節点は、胸元の中央の一点ですわ! そこに力が集中しています!』

 

 リリアの的確なナビゲートが響く。

 魔力で構成された壁にも、必ず構造上の支点となる部分が存在する。

 蒼介は突き出そうとしたナイフの軌道を強引に捻り曲げ、動かないはずの左腕を気合いだけで跳ね上げた。

 腰のホルスターから、ワイヤー射出式のアンカーショットを引き抜く。

 狙うのはただ一点。リリアが示した障壁の結節点だ。

 

「弾き返せるもんなら、やってみろッ!」

 

 蒼介はアンカーショットの銃口を、硬質な魔力障壁に直接押し当てた。

 完全に密着させた状態での、ゼロ距離射撃。

 引き金を引いた瞬間、火薬の爆発音に似た轟音と共に、特殊合金製の鋭利なアンカーが射出された。

 

 ガァァァンッ!

 

 すさまじい反動が蒼介の左腕を打ち据える。

 本来は遠くの岩壁に突き刺すためのアンカーを至近距離から叩き込まれたことで、魔力障壁が悲鳴を上げた。

 結節点に深々とアンカーの爪が食い込み、そこを起点としてガラスにヒビが入るような放射状の亀裂が走る。

 

(まだだ! まだ貫通してねえ!)

 

 障壁は亀裂が入っただけで、完全に砕け散ってはいない。

 マッド・ペインターが異常を察知し、のっぺらぼうの顔を蒼介へと向ける。漆黒の絵の具が定着するまで、あとわずか数ミリ秒。

 蒼介は突き刺さったままのアンカーショットを楔に見立てた。

 そして右手に握ったサバイバルナイフの強靭な柄をハンマーのように振りかぶり、アンカーの後部目掛けて渾身の力で叩き込んだ。

 

「砕けろォォォ!!」

 

 蒼介の絶叫と共に、ナイフの柄がアンカーをさらに深く打ち込んだ。

 物理的な打撃と質量が、限界を迎えていた結節点の構造を完全に破壊する。

 

 パリィィィンッ!!

 

 甲高い破砕音と共に、マッド・ペインターの絶対防御は粉々に砕け散った。

 

「ギギィッ!?」

 

 仮面の下から驚愕の悲鳴が漏れた。

 障壁を強引に破壊された衝撃で、マッド・ペインターの巨体が大きく体勢を崩し、後方へとよろめく。

 漆黒の絵の具が空間に定着するまでの時間が、さらに引き伸ばされる。

 蒼介は体勢を崩しながらも、そのまま横へと身を投げ出して射線を空けた。

 

「終わりだッ!」

 

 空を裂くような凜とした声が、真っ白な空間の頭上から降り注いだ。

 セレスティアだった。

 

 彼女は蒼介が突撃するのと同時に、残された全魔力を両足に集中させて遥か上空へと跳躍していたのだ。

 白銀の甲冑が、青白い光を反射して神々しく輝く。

 

 セレスは両手で槍を握りしめ、体を弓のように反らせた。

 白金級冒険者フェイルからの助言を、彼女は完璧な形で自分のものにしていた。

 

 腕や腰ではない。肩甲骨の奥底、背中という巨大な魔力炉から、直接槍の穂先へと純度百パーセントの雷属性魔力を流し込む。

 槍全体がプラズマの塊と化し、空気が焦げる異臭が辺りに立ち込めた。

 

「我が雷霆よ、狂気の夢を撃ち抜け!」

 

 セレスは落下する重力を味方につけ、一筋の雷光となってマッド・ペインターの無防備な胸元へと急降下した。

 

「【雷刃(ライトニング・ピアス)】ッ!」

 

 強烈な閃光が視界を白く染め上げた。

 セレスの放った渾身の刺突は、マッド・ペインターの胸部を寸分の狂いもなく貫き、背中へと抜け出た。

 膨大な雷の魔力が傷口から内部へと侵入し、主の体を構成する絵の具の細胞を次々と焼き尽くしていく。

 

『ゴガアアアァァァァァァァッ!!』

 

 マッド・ペインターが天を仰ぎ、この世のものとは思えない断末魔の絶叫を上げた。

 雷光に焼かれたその体は、形を保つことができずドロドロの極彩色の絵の具となって崩れ落ちていく。

 振り下ろされようとしていた漆黒の絵の具もまた、主の消滅と共に魔力を失い、ただの黒い水たまりとなって白い床に広がった。

 のっぺらぼうの頭部が最後にずるりと滑り落ち、完全に液状化して消滅する。

 

 主の死。

 それはこの階層を支配していた理不尽な法則の完全な崩壊を意味していた。

 空間を包み込んでいた真っ白なキャンバスの壁が、パラパラと剥がれ落ちていく。

 極彩色のトラップも、重力異常も、すべてが幻のように霧散していく。

 後に残されたのは、荒々しい岩肌が剥き出しになった、本来の大迷宮の巨大な石室だけだった。

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 セレスは槍を杖にして立ち上がり、荒い息を吐きながら周囲を見渡した。

 彼女の全身からは疲労の色が濃く滲んでいるが、その眼差しには確かな勝利の安堵が宿っていた。

 

「……勝った、のか」

 

 蒼介は仰向けに倒れ込んだまま、黒い岩盤の天井を見上げて呟いた。

 右腕は二つの魔力を衝突させた反動で皮膚が裂け、左腕は凍傷で感覚がない。

 ナノマシンが必死に修復作業を行っているが、限界を超えた過負荷はすぐには癒えないだろう。

 それでも、生き残ったのだ。

 あの理不尽な絶望の化身を、自分たちの力で打ち倒したのだ。

 

「ソースケぇ!」

 

 泣きじゃくるような声と共に、ネアが蒼介の胸に飛び込んできた。

 彼女の顔は鼻血と涙でぐしゃぐしゃになっていたが、その体温は確かに温かかった。

 

「痛かったよぉ……怖かったよぉ……」

 

「馬鹿、泣くな。お前があの隙を作ってくれなきゃ、全員絵の具の染みになってたんだぞ」

 

 蒼介は動く方の右腕を少しだけ持ち上げ、ネアの青紫の髪を優しく撫でた。

 セレスも歩み寄り、膝をついて蒼介の無事を確認するように小さく微笑む。

 

『皆様、本当にお疲れ様でした。あの絶体絶命の状況から活路を見出すとは……私の魂も震え上がりましたわ』

 

 ペンダントの中のリリアも、心からの賞賛と安堵の声を上げた。

 彼女自身も蒼介の無茶な魔力運用で相当な負荷を負ったはずだが、そんなことは微塵も感じさせない気丈な声だった。

 

 パチ、パチ、パチ。

 

 静寂が戻った石室に、乾いた拍手の音が響いた。

 闘技場の高台から降りてきたフェイルだった。

 彼はゆっくりと歩み寄りながら、心底感心したように目を細めていた。

 

「素晴らしい。本当に素晴らしい戦いだったよ」

 

 フェイルは蒼介たちを見下ろし、いつもの軽薄な笑みとは違う、静かな表情で言葉を紡いだ。

 

「システム自体に存在するわずかな綻びを突いて崩壊させる。君のその戦い方は、力を持たない人間が理不尽な世界に抗うための最高の解答だ」

 

 その言葉には皮肉の響きはなかった。

 純粋な賛辞であり、そして彼自身の果てしない旅路の中で何かを確かめるような独白のようにも聞こえた。

 

「君たちなら、本当にあそこまで行けるかもしれないね」

 

 フェイルが視線を向けた先。

 マッド・ペインターが消滅した跡地に、青白く光る巨大なゲートが静かに浮かび上がっていた。

 大迷宮第六十一層。

 中層を完全に踏破し、ついに未知の領域である『下層』へと続く入り口である。

 

「あそこ、だと?」

 

 蒼介は顔をしかめながら問い返した。

 フェイルの言う「あそこ」が単なる次の階層を指しているとは思えなかった。

 最深部。この大迷宮の底の底、なんでも願いが叶うという伝説の場所。

 それを暗示しているかのような響きがあった。

 

「さあ、どうだろうね。僕はただの散歩中の冒険者だから」

 

 フェイルはすぐにはぐらかすように笑い、肩をすくめた。

 その真意を測りかねつつも、蒼介はそれ以上追及する気力を持ち合わせていなかった。

 今はただ、この勝利の余韻に浸り、仲間たちの生還を喜びたかった。

 

「……とりあえず、ここはクリアだ。ゲートは開いた」

 

 蒼介はよろめきながら立ち上がり、セレスに肩を貸してもらった。

 ネアも袖で顔を拭い、笑顔を取り戻している。

 

「次はいよいよ下層か。どんな地獄が待っているか想像もつかないな」

 

「恐れることはない。私たちなら必ず道を切り拓ける」

 

 セレスの力強い言葉に、蒼介も小さく頷いた。

 しかし彼らの物資も体力もすでに限界に達している。このまま第六十一層に足を踏み入れるのは自殺行為だ。

 

「まずは一度帰還する。テルスの街に戻って、傷を癒すのが先だ」

 

 蒼介の提案に誰も反対する者はいなかった。

 フェイルも「僕も少しお酒が飲みたくなってきたところだよ」と呑気に同意する。

 

 彼らは青く光る帰還用のゲートに向かって、互いに支え合いながら歩き出した。

 法則の歪む画廊での長く苦しい戦いは終わった。

 次なる試練へと向かうための束の間の休息を求めて、一行は光の中へと消えていった。

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