異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第121話 第61層『黒焔火山』

 冒険者都市テルスに朝の光が差し込む頃、蒼介たちは大通りを歩いていた。

 宿での十分な休息を経て、彼らの体力は完全に回復している。前日の和やかな観光気分はすでに抜け落ち、全員が厳しい迷宮探索者の顔つきに戻っていた。

 

 蒼介の背中には、普段の数倍の大きさに膨れ上がったリュックが背負われている。

 中に入っているのは、大量の水と氷魔法が付与された冷却石、火傷の治癒に特化した軟膏、そして何よりも目を引くのが、小瓶に詰められた高価な聖水の山だった。

 

(これで銀貨がごっそり飛んだな……。まったく、金のかかる階層だ)

 

 蒼介は肩に食い込むリュックの重みを感じながら、内心で深いため息をついた。

 ギルドで事前に収集した情報によれば、彼らがこれから向かう大迷宮第六十一層から始まる下層エリアは、これまでの環境とは一線を画す灼熱の地獄だという。

 

 備えを怠れば、魔物と戦う前に環境そのものに殺される。

 そのため、彼らはなけなしの資金を叩いて耐熱装備を整えていた。

 蒼介とセレスティア、そしてネアの三人は、薄手だが強力な耐火・冷却魔法が編み込まれた特殊な外套を羽織っている。

 昨日買ったばかりの真新しい服の上から無骨な外套を被ることになり、ネアは少しだけ不満そうだったが、命には代えられないと渋々納得していた。

 

「しかし、これほどの大荷物を一人に背負わせるのは心苦しいな。私も半分持とう」

 

 隣を歩くセレスが、申し訳なさそうに声をかけてくる。

 

「気にするな。前衛のお前や後衛のネアが荷物で動きを鈍らせる方がリスクが高い。俺なら、この程度の重さは筋力補正で相殺できる」

 

 蒼介は軽く肩を竦めてみせた。

 実際に【自己修復(リペア)】や微弱な【迅速(ブースト)】の機能を低負荷で常時稼働させることで、疲労の蓄積をコントロールすることは可能だ。

 とはいえ、これから向かう環境の過酷さを思えば、気休め程度にしかならないだろうが。

 

『ソウスケさん、ギルドの入り口に誰かいますわ』

 

 腰のペンダントから、リリアーナの静かな声が響いた。

 蒼介が視線を上げると、冒険者ギルドの重厚な両開き扉の横にある柱に寄りかかり、のんびりと手を振っている男の姿があった。

 漆黒の革鎧に身を包んだ、黒髪黒目の青年。  白金級冒険者フェイルである。

 

「やあ、おはよう。随分と朝早くからの出勤だね」

 

 フェイルは人懐っこい笑みを浮かべ、蒼介たちの元へと歩み寄ってきた。

 昨日別れたばかりだというのに、彼の姿には疲労の欠片も見当たらない。耐熱装備のようなものを身につけている様子もなく、いつも通りの身軽な格好だった。

 

「アンタこそ、こんな朝っぱらから付きまといか」

 

 蒼介は警戒心を隠すことなく、鋭い視線を向けた。

 彼が口にした「探し物」という言葉。底知れない孤独と執念を感じさせたあの横顔を、蒼介は忘れていない。

 だからといって、この男を無条件に信用する気にはなれなかった。

 

「人聞きの悪いことを言わないでよ。僕もたまたまこれから潜るところだったんだ。せっかくだし、途中まで一緒に行こうよ」

 

「……本気で言っているのか。これから向かうのは第六十一層だぞ。ただの観光気分でついてこられては足手まといになるだけだ」

 

 セレスが槍の石突を地面に突き立て、厳しい声で牽制した。

 だがフェイルは全く意に介する様子もなく、ふんわりと微笑む。

 

「足手まといにはならないと約束するよ。それに、下層は中層までとは比べ物にならないくらい厄介だからね。僕がいた方が、何かと便利だと思うけどな~?」

 

 その言葉には、圧倒的な実力者としての自負が込められていた。

 蒼介は舌打ちをした。

 確かに、法則の歪む画廊で彼が見せた絶技は、いざという時の保険としてはこれ以上ないほど強力だ。監視の目を外すよりは、目の届くところに置いておく方が安全という判断もある。

 

「……好きにしろ。だが、俺たちの指示には従ってもらうぞ」

 

「了解。頼りにしてるよ、リーダー」

 

 フェイルは機嫌良く頷き、蒼介たちの後ろに続いた。

 一行はギルドの受付で手続きを済ませ、転移施設へと向かう。

 巨大な魔法陣の上に立つ。眩い青白い光が彼らの視界を包み込み、転移の感覚が全身を駆け抜けた。

 

 

 * * *

 

 

 光が収まり、足の裏に硬い岩の感触が伝わってきた瞬間だった。

 ドワッ、と暴力的なまでの熱風が蒼介たちの全身を打ち据えた。

 

「ぐっ……! な、なんだこの熱さは……!」

 

 蒼介は思わず手で顔を覆い、呻き声を上げた。

 呼吸をするだけで、肺の中に熱湯を流し込まれているような激痛が走る。

 空気が乾燥しきっており、皮膚の表面から瞬時に水分が奪われていくのがわかった。

 体内のナノマシンが異常な体温上昇を検知し、冷却と細胞の保護のためにフル稼働を始める。警告の文字が滝のように流れていた。

 

「あつっ……! 息が、苦しい……っ!」

 

 ネアが喉を押さえ、その場に膝をついて咳き込んだ。

 彼女の羽織っている耐熱外套がかすかに光を放ち、編み込まれた冷却魔法が作動しているはずなのだが、それでもこの空間の熱量には焼け石に水だった。

 セレスも顔をしかめ、甲冑の隙間から入り込む熱気に耐えるように歯を食いしばっている。金属の鎧は熱を吸収しやすく、彼女にとっては最悪の環境と言えた。

 

 蒼介は薄く目を開け、視界に広がる光景に絶句した。

 そこは、文字通りの灼熱地獄だった。

 見渡す限りの広大な地下空間。しかし天井は遥か高く、どこまでも続く暗黒の岩肌に覆われている。

 眼下には、ドロドロと煮えたぎる真っ赤な溶岩の海が、巨大な河となってうねりながら流れていた。

 赤と黒。

 それ以外の色彩が存在しない、死の世界。

 時折、溶岩の表面から巨大な気泡が弾け、粘り気のあるマグマの飛沫が数十メートルの高さまで噴き上がっている。

 

「これが……第六十一層。大迷宮の下層エリアか」

 

 蒼介は額から噴き出した汗が、顎を伝う前に蒸発していくのを感じながら呟いた。

 

『皆様、足元に気をつけてくださいませ! 地面の亀裂から、ただの炎ではない魔力が噴出していますわ!』

 

 ペンダントからリリアの切羽詰まった声が響いた。

 蒼介が足元に視線を落とすと、彼らが立っている黒い岩盤のあちこちに深い亀裂が走っていた。

 そしてその亀裂の奥から、チロチロと不気味な炎が立ち上っている。

 赤でもオレンジでもない。それは、周囲の光を吸い込むような漆黒の炎だった。

 

「黒い炎……ギルドの資料にあった『黒焔』か」

 

 セレスが槍の穂先で、その炎から距離を取りながら言った。

 

『ええ。あれは自然の炎ではありません。純粋な悪意と魔力が結びついた、呪いの炎ですわ』

 

 リリアの解説に、蒼介は顔をしかめた。

 呪いの炎。それはただ熱いだけではない。

 触れた者の生命力と魔力を燃料にして燃え広がり、水魔法や通常の冷却手段では決して消すことができないという極めて厄介な代物だ。

 完全に鎮火させるには、解呪の力と物理的な冷却を同時に行わなければならない。

 蒼介がリュックに大量の聖水を詰め込んできたのも、この黒焔に対抗するためだった。

 

 冒険者ギルドで「まだ誰も突破できていない」と聞いていた【黒焔火山】。その名に違わぬ絶望的な光景が、挑戦者の心をへし折りにきている。

 この大迷宮の再深踏破記録は、「主」の手前と思われる69層までだ。そしてその記録を持つ者こそ――

 

「ん? 僕の顔になにか付いてるかい?」

 

 この飄々とした男だった。

 

「いやあ、絶景だねえ。まるで地獄めぐりみたいで楽しいじゃないか」

 

 その過酷な環境の中で、ただ一人だけが涼しい顔で笑っている。

 彼は耐熱装備など一切着ていないにもかかわらず、額に汗一つかいていない。

 漆黒の革鎧が熱を帯びる様子もなく、溶岩の照り返しを受けて彼自身の瞳が赤く輝いているだけだ。

 

「アンタのその体、どういう構造になってるんだ……」

 

 蒼介は呆れ果ててため息をついた。

 ナノマシンで体温を強制調節している自分ですら立っているだけで体力を削られているというのに、この男は完全に環境の法則から外れている。

 

「ん~まだ秘密さ。さあ、のんびりしていると本当に干からびちゃうよ。進もうか」

 

 フェイルは軽やかに先頭を歩き出した。

 蒼介も気を取り直し、ネアの背中を軽く叩いて立たせる。

 彼らは溶岩の河に沿って続く、狭く険しい黒岩の道を歩き始めた。

 

 一歩足を踏み出すごとに、靴底から伝わる熱が足の裏を焼く。

 呼吸をするたびに喉が渇き、体内の水分が悲鳴を上げていた。

 

 蒼介は定期的に立ち止まり、水筒の水をネアとセレスに少しずつ分け与えながら進む。

探知(サーチ)】のレーダーは、周囲の溶岩と黒焔の異常な熱源に阻まれ、ノイズがひどく使い物にならない。

 視覚と聴覚だけが頼りの、最も原始的で過酷な探索だった。

 

 三十分ほど歩いた頃だろうか。

 蒼介の耳が、溶岩の流れる重低音とは違う、微かな異音を捉えた。

 

「止まれ。何かが来る」

 

 蒼介の低い声に、セレスが即座に槍を構え、ネアがその後ろに隠れる。

 フェイルも足を止め、興味深そうに周囲を見回した。

 

 ボコッ、ボコボコッ!

 

 彼らの右側を流れる溶岩の河。

 その表面が不自然に盛り上がり、巨大な気泡が連続して弾けた。

 

 そして真っ赤な溶岩の中から、ぬらりと姿を現すものがあった。

 体長は一メートルほど。黒く硬質な毛皮に覆われ、長い尾を持つ四足歩行の獣。

 巨大なネズミだった。

 しかし普通のネズミではない。その体からはドロドロの溶岩が滴り落ち、背中からはあの不吉な黒焔がチロチロと立ち上っている。

 

「火炎ネズミか……! 溶岩の中に潜んでいたとはな」

 

 セレスが鋭い声で魔物の正体を見破った。

 浅層でも見かける火炎ネズミだが、ここの個体は大きさが倍以上あり、何よりその身に纏う呪いの炎が致命的な脅威だ。

 

「キィィィィィッ!」

 

 金切り声を上げながら、三体の火炎ネズミが溶岩から跳躍し、岩場へと着地した。

 その足裏が触れた岩盤から、ジュウッと黒煙が上がり、黒焔が燃え広がる。

 

「囲まれる前に仕留める! セレス、右の二体を頼む! 左は俺がやる!」

 

「承知!」

 

 蒼介の指示に合わせ、セレスが動いた。

 熱気で重くなった体を感じさせない、滑らかで鋭い踏み込み。

 彼女は白銀の槍を構え、穂先に清冽な雷の魔力を練り上げる。

 フェイルから教わった肩甲骨からの魔力運用が、彼女の動きを最適化していた。

 

「貫け!」

 

 槍の穂先から放たれた極太の紫電が、灼熱の空気を切り裂いて右側の二体のネズミを正確に撃ち抜いた。

 雷の直撃を受けた魔物は、断末魔の叫びを上げる間もなく炭化し、岩場へと崩れ落ちる。

 

 同時刻、蒼介は左から迫る最後の一体に向けて【迅速(ブースト)】で一気に距離を詰めた。

 熱波のせいでナノマシンの冷却が追いつかず、筋肉が千切れるような痛みが走る。

 それでも彼は足を止めず、すれ違いざまにサバイバルナイフを閃かせた。

 硬質な毛皮の隙間、首の頸動脈を正確に切り裂く。

 黒い血が噴き出し、火炎ネズミが地面に転がった。

 

「やったね! あっという間だよ!」

 

 ネアが安堵の声を上げた。

 確かに魔物自体の強さは、中層の主に比べれば大したことはない。

 しかし、この第六十一層の真の恐ろしさは、魔物を倒した「後」にあった。

 

「……待て。様子がおかしいぞ」

 

 蒼介が油断なくナイフを構えたまま、地面に転がるネズミの死骸を睨みつけた。

 炭化し、首を裂かれた死骸。

 そこから流れた黒い血と、魔物が纏っていた溶岩が岩盤に触れた瞬間だった。

 

 ボワァァァッ!

 

 死骸を中心にして、あの不吉な漆黒の炎が爆発的に燃え上がったのだ。

 ただの炎なら、燃えるもののない黒い岩肌で燃え広がるはずがない。

 しかし黒焔は違った。岩盤に染み込んだ微量な魔力や、倒れた魔物自身の残存魔力を燃料にして、まるで生き物のように周囲へと侵食を始めたのだ。

 

「なんだこの炎は! 死骸から燃え広がっているだと!?」

 

 セレスが驚愕して後退する。

 黒焔は瞬く間に直径数メートルの範囲を覆い尽くし、蒼介たちの退路を塞ぐように壁となって立ち塞がった。

 炎から放たれる熱は通常の火の比ではなく、肌が焼けるような痛みが直接神経を叩き打つ。

 

『ソウスケさん! 早く消火を! このままでは岩盤ごと溶かされて足場がなくなりますわ!』

 

 リリアの切迫した声が響く。

 蒼介は舌打ちをし、背中のリュックから急いで小瓶を取り出した。

 高位の聖職者が解呪の祈りを込めた、純度の高い聖水だ。小瓶一本で銀貨数枚が飛ぶという代物である。

 

「ネア! お前の風魔法で俺の撒く聖水を炎全体に散らせ!」

 

「わ、わかった!」

 

 蒼介は聖水の小瓶の蓋を乱暴に開け、燃え盛る黒焔の中心に向かって中身を思い切りぶち撒けた。

 同時にネアが両手を突き出し、魔力を込めた風の突風を放つ。

 風に乗った聖水が霧状になり、黒い炎全体に降り注ぐ。

 

 ジュウウウゥゥゥゥッ!!

 

 聖水と黒焔が触れ合った瞬間、おぞましい断末魔のような蒸発音が響き渡った。

 呪いの炎が解呪の力と衝突し、激しく抵抗しながらも次第に勢いを失っていく。

 大量の白い水蒸気が立ち上り、むせ返るような匂いが辺りを包み込んだ。

 数秒後、ようやく黒焔は完全に鎮火し、焦げ臭い煙を上げるだけの黒い染みへと変わった。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 蒼介は空になった小瓶を握りしめ、荒い息を吐き出した。

 たった三体の雑魚を倒しただけで、これほどの労力と高価なアイテムを消費させられたのだ。

 

「あのネズミども……死んでからも罠として機能するのか」

 

 セレスが信じられないというように黒い染みを見つめる。

 

「ああ。魔物を倒すたびに呪いの炎が燃え広がる。それを消すためにいちいち聖水を使ってたら、いくら金があっても足りねえぞ」

 

 蒼介は空の小瓶をリュックにしまいながら、忌々しそうに吐き捨てた。

 ギルドで大量に買い込んできたとはいえ、所持している聖水や冷却ポーションには限りがある。

 戦闘を避けるのが一番だが、この狭い一本道で溶岩から奇襲されれば戦わざるを得ない。

 

「こんなのが何層も続くのかよ……。冗談じゃないぜ」

 

 蒼介は額の汗を拭いながら、終わりの見えない灼熱の道を睨みつけた。

 中層までの知恵や戦術が通じない、純粋な環境の暴力。

 一歩進むごとに物資と体力が確実に削り取られていく。それが下層エリアの真の恐ろしさだった。

 

「おや、もう音を上げるのかい? まだ入り口に入ったばかりだよ」

 

 煙が晴れた道の先から、フェイルののんびりとした声が響いた。

 彼は黒焔が燃え広がった時も、全く動じることなく少し離れた場所で事態を見守っていた。

 彼にとっては、蒼介たちがもがき苦しむ姿すら一つのエンターテイメントなのだろう。

 

「るせえ。見学なら大人しく黙ってろ」

 

 蒼介は憎まれ口を叩きながら、再び重いリュックを背負い直した。

 フェイルの言葉に苛立ちを覚えつつも、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 生きて帰るためには、この灼熱の地獄を踏破するしかないのだ。

 

「行くぞ。セレス、ネア。ここから先は魔物を倒す位置にも気を使え。炎が燃え広がる前に、溶岩の中に蹴り落とすか、燃えない空間で仕留めるんだ」

 

「了解した。だが、言うは易しだぞ」

 

「わかってる。だからこそ、俺の指示を信じろ」

 

 蒼介はナノマシンの出力を再調整し、熱波によるダメージを最小限に抑えながら歩き出した。

 セレスとネアも、無言でその後を追う。

 煮えたぎる溶岩の赤と、岩肌の黒。

 大迷宮の下層【黒焔火山】の絶望的な道程は、まだ始まったばかりだった。

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