異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第122話 溶ける気力

 大迷宮第六十一層【黒焔火山】の道程は、ただそこを歩くという行為すらも命を削る試練だった。

 右を見ても左を見ても、視界を埋め尽くすのは煮えたぎる溶岩の海と、黒く焼け焦げた岩肌のみ。巨大な地下空間であるはずなのに、どこからともなく吹き荒れる熱風が、まるで逃げ場のない密閉されたサウナ室にいるかのような息苦しさをもたらしていた。

 

 ゴボッ、ボコォッ、と溶岩の表面で巨大な気泡が弾けるたびに、致死量の熱気が蒼介たちの頬を撫でる。

 蒼介は重い足を引きずりながら、小さく息を吸い込んだ。

 それだけで、気管から肺の奥底にかけてヤスリで削り取られるような激痛が走る。

 

 空気が乾燥しきっている上に、呼吸をするたびに超高温のガスを吸い込んでいるようなものだった。

 現代日本のダンジョンで数々の死線を潜り抜け、ナノマシンによって身体能力と免疫力を底上げしている蒼介でさえ、この環境の暴力の前には急速に体力を奪われていた。

 

(……限界が近いな)

 

 蒼介は霞む視界の中で、網膜に投影されたインターフェースを睨みつけた。

 ステータスバーは危険を示す赤色で明滅を繰り返している。体温の上昇を抑えるためにナノマシンがフル稼働しているが、外部からの熱量供給が圧倒的すぎて冷却処理が全く追いついていない。

 システム全体がオーバーヒート気味になっており、普段なら瞬時に細胞を活性化させる【自己修復(リペア)】の効率も明らかに落ちていた。

 

 さきほどの火炎ネズミとの戦闘で負った小さな火傷の跡が、いつまで経っても塞がらないのがその証拠だ。

 体内の水分が汗となって噴き出し、それが瞬時に蒸発していく。まるで自分の肉体が徐々に干からびたミイラへと変わっていくような恐怖があった。

 

「ソウスケ……水は、まだあるか」

 

 後ろから掠れた声が聞こえ、蒼介は足を止めて振り返った。

 セレスティアが槍を杖のように突き立て、膝を折りそうになりながら立っていた。

 彼女の美しい金髪は汗で束になり、額からポタポタと落ちる汗が地面に触れる前にジュッと音を立てて消えている。

 

 彼女が身につけているのは、王国騎士としての誇りである白銀の甲冑だ。

 防御力という点では最高の装備だが、この灼熱地獄においては最悪の枷となっていた。金属は周囲の熱を容赦なく吸収し、彼女の体をオーブンのように内側から焼き上げているのだ。

 耐熱の外套を羽織っているとはいえ、その下に蓄積される疲労と熱気は隠しようがない。

 

「ああ。無理はするな、こまめに飲め」

 

 蒼介は背中のリュックから水筒を取り出し、セレスに手渡した。

 彼女は無言でそれを受け取ると、震える手で蓋を開け、喉を鳴らして水を流し込む。

 水そのものもすでに温まっていたが、干上がった体に水分が補給されるだけでもわずかな救いだった。

 

「すまない……。足手まといになっているな」

 

 セレスが口元を手の甲で拭いながら、自嘲気味に呟いた。

 

「馬鹿言うな。この熱さは異常だ。誰が歩いたってこうなる」

 

 蒼介は水筒を受け取り、今度は少し離れた場所で座り込んでいるネアの方へと歩み寄った。

 魔人族の少女は、岩の陰に隠れるようにして小さく丸まっていた。

 彼女の青紫の髪もしっとりと汗に濡れ、顔立ちはゆでダコのように真っ赤になっている。

 

「ネア、水だ。飲めるか?」

 

「……ううっ。ソースケぇ、あついよぉ……。体がドロドロに溶けちゃいそう……」

 

 ネアは涙目で蒼介を見上げ、力なく水筒を受け取った。

 彼女の体力は三人の中でも一番低い。その上、さきほどの戦闘で風魔法を酷使したため、魔力の消耗も激しいはずだ。

 

 蒼介は水筒の残量を確認した。

 テルスの街で大量に買い込んできたはずの水が、すでに三分の一近く消費されている。

 冷却石を水筒の中に放り込んではいるが、氷の魔力もこの異常な環境下ではすぐに溶け切ってしまう。

 このままでは、次の階層へ続くゲートを見つける前に干上がってしまうだろう。

 

『ソウスケさん、皆様の生命反応が著しく低下していますわ。このまま休息なしで進むのは危険です』

 

 腰のペンダントから、リリアーナの心配そうな声が響く。

 彼女には肉体がないため物理的な熱を感じることはないが、仲間の魂の輝きが弱まっていくのを敏感に感じ取っていた。

 

「わかってる。だが、ここで立ち止まっていても熱風に焼かれるだけだ。安全な岩陰なんてどこにもない」

 

 蒼介は苛立ちを隠せない声で答えた。

 溶岩の海から容赦なく照りつける熱射。時折地面の亀裂から噴き出す黒焔。

 立ち止まることは死を意味する。少しでも前へ進み、環境が変化する場所を探すしかないのだ。

 

「わたしが、なんとかする……」

 

 水筒を返しながら、ネアがふらふらと立ち上がった。

 彼女は両手で自分の頬をペチペチと叩き、気合を入れるように紫色の瞳を強く見開いた。

 

「ネア? 何をするつもりだ」

 

「みんな、すごく苦しそうだもん。私が魔法で、なんとかするの」

 

 ネアはそう言うと、両手を胸の前で組み、ふぅーっと長く息を吐き出した。

 彼女の体から微弱な魔力の波長が広がり、蒼介とセレスの体をふわりと包み込む。

 それは第五十六層の『色彩の暴力』を突破した際に使ったのと同じ、認識阻害の魔法の応用だった。

 他者の脳に直接干渉し、現実の認識を書き換える禁忌の力。

 

「熱くない、熱くない……。ここはすごく涼しい風が吹いてるよ。冷たくて、気持ちいい場所だよ……」

 

 ネアが呪文のように言葉を紡ぐ。

 その暗示が脳に届いた瞬間、蒼介はハッと息を呑んだ。

 肌を焼くような不快な熱気が、嘘のようにスッと引いていったのだ。

 肺の奥を焼いていた痛みが消え、代わりにメントールのような清涼感が気管を通り抜けていく錯覚を覚える。

 セレスもまた、驚きに目を見開いて自身の腕を確かめていた。

 

「驚いた……。熱さを、全く感じない」

 

「えへへ……よかったぁ。すずしい、すずし~い……」

 

 ネアは自分自身にも暗示をかけているのか、虚ろな笑顔を浮かべながらフラフラと歩き出した。

 

 確かに苦痛は消えた。

 しかし蒼介の表情は決して晴れなかった。むしろ彼の顔には、さらに深い焦燥の色が浮かんでいた。

 ナノマシンのインターフェースを確認する。

 脳が「涼しい」と錯覚しているだけで、外部の気温が下がったわけではない。蒼介の体温は依然として危険領域に達しており、細胞の破壊は現在進行形で続いている。

 ネアの暗示は、あくまで精神の痛覚を麻痺させているだけなのだ。

 火に手を突っ込んでも熱さを感じないのと同じ。実際の物理的な熱ダメージ、すなわち脱水症状や軽度の火傷が消滅したわけではない。

 

(これは危険だ。限界のサインに気づけなくなる)

 

 蒼介は無意識に唇を噛んだ。

 人間は痛みや苦痛を感じるからこそ、危険を回避し、体を休めようとする。

 それを強制的に遮断してしまえば、肉体が完全に壊死するまで動き続けてしまう可能性がある。

 無理をして歩き続ければ、ある日突然糸が切れたように倒れ、そのまま死に至るだろう。

 

「ネア、お前自身の魔力消費はどうなんだ。無理はしてないか」

 

 蒼介が背後から声をかけると、ネアは振り向かずに答えた。

 

「だいじょうぶだよぉ。すずしいから、全然疲れないもん」

 

 その声のトーンが不自然に浮きついているのが、蒼介には恐ろしかった。

 彼はセレスの肩を軽く叩き、小声で注意を促した。

 

「セレス、熱さを感じなくても体は悲鳴を上げてる。こまめな水分補給だけは絶対に怠るな。自分の汗の量と呼吸の乱れを客観的に監視しろ」

 

「……わかっている。痛みを忘れることの恐ろしさは、騎士の訓練でも教えられている」

 

 セレスは神妙な顔で頷いた。

 彼女もまた、この暗示の危うさを正確に理解しているようだった。

 苦痛というアラートを失った状態で、己の限界を理知的に管理しなければならない。それはただ熱さに耐えるよりも、さらに高度な精神力を要求される作業だった。

 

 偽りの涼しさに包まれながら、一行は黒岩の道をさらに奥へと進んでいく。

 溶岩の河は相変わらず激しくうねり、時折噴き上がるマグマの飛沫が岩肌を赤く焦がしている。

 蒼介は定期的に歩みを止め、有無を言わさずにネアに水を飲ませた。

 本人は「喉渇いてないよ」と嫌がったが、脱水症状で倒れられては困る。

 すべてがギリギリの綱渡りだった。

 

 ふと、蒼介は自分たちの最後尾を歩く男の存在を思い出し、振り返った。

 

「…………」

 

 白金級冒険者フェイル。

 彼は蒼介たちから数メートル離れた位置を、相変わらず散歩でもするような呑気な足取りでついてきていた。

 蒼介は目を細め、その姿をじっと観察した。

 漆黒の革鎧。黒い髪。

 そして何より異常なのは、彼の肌に一粒の汗も浮かんでいないことだった。

 ネアの暗示は蒼介たち三人にしかかかっていないはずだ。フェイルはこの灼熱の地獄の熱気を、生のまま浴びているはずである。

 それなのに、彼の呼吸は全く乱れておらず、涼しい顔で周囲の溶岩の景色を楽しげに眺めている。

 

(どういうことだ。人間が耐えられる環境じゃないはずだ)

 

 蒼介は右目に青い光を宿し、ナノマシンの【探知(サーチ)】をフェイルの身体へと集中させた。

 以前、画廊の回廊で彼をスキャンしようとした時は、分厚いノイズに阻まれて何も読み取ることができなかった。

 だが今回は違う。環境があまりにも過酷なためか、フェイルの周囲の魔力の動きがわずかに可視化されたのだ。

 

「……なるほどな」

 

 蒼介は無意識に低く呟いた。

 ナノマシンのレーダーが捉えた映像。

 フェイルの皮膚の表面、わずか数ミリの隙間に、極薄の魔力の層が展開されていたのだ。

 

 それはただの防御魔法ではない。

 外部の熱気を完全に遮断し、同時に内部の体温を一定に保つための、完璧に制御された断熱層だった。

 宇宙服の生命維持装置を、目に見えない魔力だけで構築しているようなものだ。

 しかも驚くべきことに、フェイルが呪文を唱えたり、魔力を練るような素振りをしたりした形跡は一切ない。

 彼は呼吸をするのと同じくらい無意識のレベルで、この超高度な魔法技術を皮膚の表面に維持し続けているのだ。

 

(ふざけた野郎だ。魔法の精度が桁違いすぎる)

 

 蒼介は奥歯を強く噛み締めた。

 魔法が使えない蒼介には、その技術を真似することなど絶対に不可能だ。

 ナノマシンの機能で皮膚を硬質化させることはできても、熱そのものを完全に遮断する断熱層を形成する機能はない。

 

 現代科学の結晶であるナノマシンが、異世界のたった一人の人間の魔法技術に完全に敗北している。

 己の無力さと、フェイルという男の異常さを、蒼介は改めて痛感させられていた。

 

「ん? どうしたんだい、リーダー」

 

 視線に気づいたのか、フェイルがひらひらと手を振ってきた。

 

「こんなに熱い視線を向けられると照れちゃうな。僕の顔に何か付いてる?」

 

「……いや。何でもない」

 

 蒼介は深く息を吐き出し、前を向き直した。

 嫉妬や焦燥感を抱いても意味はない。自分に持っていないものを数え上げるより、今ある手札でどう生き抜くかを考えるのがシーカーの鉄則だ。

 

「アンタは本当に、見学を楽しむためだけに生きてるみたいだな」

 

 蒼介は背中越しに皮肉を投げかけた。

 

「ははは。冒険の醍醐味は観察することにあるからね。君たちがこの過酷な環境をどう乗り越えるのか、すごく興味があるんだよ」

 

 フェイルの声には相変わらず悪意はない。純粋な知的好奇心だけがそこにあった。

 だが蒼介にとって、その好奇心こそが最も不気味だった。

 

『ソウスケさん、彼は本当に人間なのでしょうか』

 

 リリアの静かな声が、蒼介の疑問を代弁する。

 

『五百年前のアルストロメリアにも、優れた魔法使いは数多くおりました。ですが、あれほど精密で無駄のない魔力運用を、無意識で維持し続けられる者など存在しません。まるで、魔力そのものが彼の肉体の一部として機能しているような……』

 

「……俺にもわからない。ただ一つ言えるのは、あいつは俺たちの常識が全く通用しないバケモノだということだけだ」

 

 蒼介は小さく首を振り、歩みを速めた。

 フェイルの正体が何であれ、今は彼にかまけている余裕はない。

 ネアの暗示による偽りの涼しさは、いつ限界を迎えるかわからない時限爆弾だ。

 実際の体力が尽きる前に、この溶岩地帯を抜け、あるいは安全に休息できる場所を見つけ出さなければならない。

 

「セレス、ネア。ペースを上げるぞ。痛みがなくても足元には十分注意しろ」

 

「了解した。足が動く限りは前へ進もう」

 

「うんっ! まだまだ行けるよ!」

 

 蒼介の指示に、二人が力強く応える。

 彼らは溶岩の河が放つ紅蓮の光に照らされながら、黒い岩肌の道をひたすらに進み続けた。

 時折、地面の亀裂から呪いの黒焔が噴き出すが、蒼介の【探知(サーチ)】が事前にそれを察知し、ルートを細かく修正することで戦闘を回避していく。

 

 だが、大迷宮が挑戦者をいつまでも無傷で歩かせてくれるほど甘い場所ではないことを、蒼介たちは嫌というほど知っていた。

 溶岩の海が大きくうねり、地鳴りのような重低音が地下空間に響き渡る。

 熱波の奥から、新たな絶望が彼らを待ち受けている気配が、肌を刺すように迫ってきていた。

 

 蒼介は額の汗を手の甲で拭い、右手に握ったサバイバルナイフの柄をきつく握りしめた。

 気力も体力も溶けていくような灼熱の地獄。

 その果てにあるものを目指して、異邦人と仲間たちの過酷な歩みは止まらない。

 

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