異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第124話 特等席の終わり

 煮えたぎる溶岩の川を乗り越え、絶えず襲い来る熱波と黒焔の脅威を掻き潜りながら、蒼介たちは大迷宮の下層をひたすらに進み続けていた。

 第六十一層の入り口で感じた絶望的なまでの熱気は、階層を下るごとにその密度を増しているように思えた。

 

 岩盤の至る所から噴出する漆黒の呪炎。溶岩の海に潜み、足場を砕きながら襲いかかってくる凶悪な魔物たち。

 すべてが挑戦者の命を刈り取るために設計された地獄の釜の中を歩くような道程だった。

 

 現在、彼らが辿り着いたのは第六十五層付近と推測されるエリアだった。

 広大なマグマの湖を迂回するように続く険しい岩山の連なり。その中腹に、ぽっかりと口を開けた洞窟のような岩陰が存在していた。

 奇跡的と言うべきか、その岩陰の内部には地面の亀裂がなく、呪いの黒焔が噴き出す危険性が皆無だった。さらに、岩の構造が外からの熱風を遮断しており、下層に足を踏み入れてから初めて、まともに呼吸ができる空間だった。

 

「……ここは安全そうだ。少し長めに休むぞ」

 

 蒼介が疲労しきった声で告げると、セレスティアとネアは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。

 蒼介自身も、背負っていた重いリュックを乱暴に下ろし、硬い岩壁に背中を預けた。

 体内のナノマシンがオーバーヒート寸前で稼働し続けていたため、安全圏に入った途端に強烈な気怠さが全身を襲ってくる。

 

「はぁ……はぁ……。まるで(かまど)の中で戦い続けているような気分だったな」

 

 セレスが白銀の甲冑の留め具を少し緩め、荒い息を吐き出した。

 彼女の美しい金髪は汗で肌に張り付き、疲労の色は隠しようもない。雷の魔力を練り上げるたびに、周囲の熱気と黒焔の干渉を受けて異常な消耗を強いられていたのだ。

 それでも彼女は弱音を吐くことなく、前衛としての役目を全うし続けていた。

 

「ネア、大丈夫か。水はまだあるぞ」

 

 蒼介が水筒を差し出すと、岩の床に丸まっていたネアが弱々しく顔を上げた。

 彼女の顔色は青白く、呼吸も浅い。

 極限の環境下で、パーティ全体に「熱を感じない」という認識阻害の暗示を掛け続けてきた代償だ。物理的な熱ダメージを精神力で抑え込むという荒業は、魔人族の少女の精神回路を焼き切る寸前まで追い込んでいた。

 

「ん……ソースケぇ……。すずしい、すずしいよぉ……」

 

 ネアは焦点の定まらない紫色の瞳でふにゃりと笑い、受け取った水筒の水を一口だけ飲むと、そのままコトリと目を閉じた。

 彼女の小さな体は限界を超えており、安心できる場所を見つけた瞬間に深い眠りへと落ちてしまったのだ。

 

「寝かしといてやろう。彼女の暗示がなければ、とっくに俺たちは干からびていた」

 

 蒼介はネアの寝顔を見つめながら、自分の外套を脱いで彼女の体にそっと掛けた。

 下層の熱気は凄まじいが、この岩陰の中は不思議と温度が安定している。とはいえ、汗をかいたまま眠れば体力を奪われる危険がある。

 

「そうだな。彼女には本当に助けられた」

 

 セレスも穏やかな視線をネアに向けた後、自身の槍の手入れを始めた。

 蒼介は携帯用の魔導コンロを取り出し、静かに火を灯す。

 周囲には溶岩の赤い光が満ちているが、この岩陰の奥は薄暗い。コンロの青白い炎が、ささやかな安らぎの空間を作り出していた。

 

『ネアさんの魔力波長は安定していますわ。ただの疲労による眠りです。今はゆっくり休ませてあげるのが一番の良薬でしょう』

 

 腰のペンダントから、リリアーナの静かで優しい声が響く。

 彼女もまた、この過酷な道中において常に魔力探知を張り巡らせ、目に見えない脅威から一行を守り続けていた。物理的な肉体がないからこそ、熱気の影響を受けない彼女のサポートは生命線だった。

 

「ああ。俺たちも少し休んだら、装備の点検と聖水の残量確認をしておくか。この先、あの火炎ネズミやマグマ・サーペントがどれだけ湧いてくるかわからない」

 

 蒼介がコンロの火を見つめながら言うと、不意に、岩陰の入り口付近から足音が聞こえた。

 

「いやあ、素晴らしいキャンプ地を見つけたね。君のその能力は、本当に便利で羨ましいよ」

 

 のんびりとした、この緊迫した迷宮には不釣り合いなほど軽薄な声。

 白金級冒険者フェイルである。

 彼は漆黒の革鎧に身を包み、相変わらず汗一つかいていない涼しい顔で岩陰に入ってきた。

 

 道中、蒼介たちが死に物狂いで溶岩からの奇襲を凌ぎ、黒焔を消火している間も、彼は一切手を出さずに「見学」を決め込んでいた。

 極薄の魔力による断熱層を無意識に展開し続けるという神業で、この地獄の環境すらも快適な散歩コースに変えてしまっている異常な男だ。

 

「見学なら外でやってろ。狭くなる」

 

 蒼介はフェイルの方を見向きもせず、冷たく言い放った。

 彼の飄々とした態度は、必死に命を削っている蒼介たちにとっては神経を逆撫でする毒でしかない。

 

「手厳しいなあ。でも、僕もそろそろ邪魔者扱いされるのに飽きてきたところだったからね」

 

 フェイルは岩陰の壁に背中を預け、ふらりと立ち上がった。

 そして、コンロの火を挟んで蒼介とセレスを見下ろすように視線を向ける。

 

 その漆黒の瞳には、いつもの人を食ったような笑みは浮かんでいなかった。

 代わりにあったのは、何かを見定めたような、あるいは見届けたような、ひどく静かな光だった。

 

「さて、僕の同伴はここまでだ」

 

 フェイルの口から静かに告げられた言葉に、蒼介は顔を上げた。

 セレスも槍を拭く手を止め、鋭い視線を男に向ける。

 

「急な用事でも思い出したか?」

 

 蒼介は警戒混じりに問うた。

 この男の行動原理は全く読めない。突然同行を申し出てきたかと思えば、今度は勝手に去るという。

 彼が敵対行動を取らないのは幸いだが、その気まぐれな振る舞いの裏に何が隠されているのか、蒼介のナノマシンは一切の解答を弾き出せなかった。

 

「君たちにはいつまでも付いていきたいところなんだけど……ちょっと別口の用事(・・)があってね」

 

 フェイルは口角をわずかに上げ、微笑を浮かべた。

 その笑顔は、どこか遠くを見るような、郷愁に似た色を帯びていた。

 

「それに、君たちの素晴らしい連携を見られて満足したよ。あのマグマ・サーペントを仕留めた時の息の合い方。誰一人欠けても成立しない、完璧な歯車だった」

 

 フェイルは一つ一つ言葉を噛み締めるように紡ぐ。

 

「探知、阻害、拘束、そしてトドメ。君たちは互いの弱点を補い、強みを最大限に引き出している。力を持たない人間が、理不尽な世界に抗うための最も美しい形だ」

 

「……何を言いたい」

 

 蒼介は目を細めた。

 フェイルの言葉は賛辞に聞こえるが、その底にはどこか突き放したような冷たさが感じられる。

 

「ここから先は、君たち自身の物語だ、ということさ」

 

 フェイルは両手を軽く広げ、芝居がかった手振りを見せた。

 

「僕みたいな舞台装置が、これ以上しゃしゃり出る幕じゃない。君たちの輝きは、君たち自身の手で証明しなくちゃ意味がないからね」

 

 舞台装置。

 その奇妙な言い回しに、蒼介は強い違和感を覚えた。

 まるで自分を、世界を動かすためのただの歯車や書き割りの一部だとでも言っているようだ。

 

(こいつは、自分の人生をすでに終わったものだと思っているのか?)

 

 蒼介の脳裏に、そんな推測がよぎる。

 だが、深く踏み込む義理はない。フェイルが去ってくれるというのなら、それに越したことはないのだ。

 これ以上、正体不明の爆弾を抱えて下層を進むのは精神衛生上良くない。

 

「そうかよ。なら勝手にしろ。同行したよしみだ。見学代は請求しないでおいてやる」

 

 蒼介は冷たく返し、再び視線をコンロの火へと戻した。

 セレスも無言のまま、フェイルから興味を失ったように槍の手入れを再開する。

 フェイルはそんな二人の態度に苦笑すると、クルリと背を向けた。

 

「それじゃあ、またどこかで会えたら嬉しいな。生きていれば、の話だけど」

 

 足音一つ立てず、漆黒の革鎧が岩陰の奥の暗闇へと溶け込んでいく。

 溶岩の放つ赤い光が彼の背中を照らしたが、すぐにその姿は迷宮の闇に飲まれて見えなくなった。

 

「……行ったか」

 

 蒼介は小さく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。

 ようやく重圧から解放されたという安堵がある。

 

『ソウスケさん……』

 

 ペンダントから、リリアの躊躇うような声が聞こえた。

 

『彼が去ったこと、本当に良かったのでしょうか。彼の力は、確かに異常で危険でしたが……悪意はないように思えたのですが』

 

「悪意がないからタチが悪いんだ。自分の目的のためなら、周りがどうなろうと知ったことじゃない。そういう種類の人間だ」

 

 蒼介は現代日本のダンジョンで、そういった手合いのシーカーを嫌というほど見てきた。

 強すぎる力を持つ者は、力を持たない者の苦しみを本質的には理解できない。

 

「だが、これで俺たちだけで進む覚悟が改めて決まった。頼るべきは自分と、仲間だけだ」

 

 蒼介は静かに眠るネアの顔を見つめ、そう自分に言い聞かせるように呟いた。

 その時だった。

 

 ザッ、と微かな衣擦れの音が、蒼介のすぐ背後で鳴った。

 振り返る暇もなかった。

探知(サーチ)】のレーダーには何の反応もなかった。

 まるで空間を転移したかのように、気配を完全に殺した何者かが、蒼介の背中越しに立っていたのだ。

 

 背筋に氷を突き立てられたような、絶対的な悪寒。

 ナノマシンが警告を発するよりも早く、耳元で声が囁かれた。

 フェイルの声だった。

 しかし、普段の飄々とした軽薄な響きは微塵もない。

 底知れない深淵の底から響いてくるような、ただただ冷たく、重い声音。

 

「――決して足を止めてはいけないよ。たとえなにがあろうと(・・・・・・・・・・)、ね」

 

 その囁きは、アドバイスでも警告でもなく、予言のように聞こえた。

 心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような強烈な胸騒ぎ。

 蒼介は反射的にナイフを抜き放ち、弾かれたように振り向いた。

 

「~~ッ!」

 

 鋭い切っ先が空を切る。

 だが、そこには誰もいなかった。

 コンロの青白い炎が揺れ、岩陰の奥にはただ果てしない迷宮の暗闇が続いているだけだ。

 セレスが驚いて立ち上がり、槍を構える。

 

「どうしたソウスケ! 敵か!」

 

「……いや」

 

 蒼介は荒い息を吐きながら、ナイフを下ろした。

 額から冷や汗が流れ落ちる。

 今のは幻聴だったのか? いや、確かに耳元で声がした。

 あの圧倒的な絶望を孕んだ囁きが。

 

(たとえなにがあろうと、足を止めるな……?)

 

 その言葉の裏に隠された不吉な響きが、蒼介の脳髄にへばりついて離れない。

 フェイルは何を知っているのか。

 この先に待ち受ける運命を、あの特等席から見通していたとでもいうのか。

 

「ソウスケ、顔色が悪いぞ。本当に何ともないのか」

 

 セレスが心配そうに覗き込んでくる。

 蒼介は努めて平静を装い、首を横に振った。

 

「何でもない。ただの……気の迷いだ」

 

 蒼介はナイフを鞘に収め、再び岩壁に背中を預けた。

 しかし、胸の奥で警鐘のように鳴り響く嫌な予感は、どうしても消し去ることができなかった。

 

『ソウスケさん……』

 

 リリアの声も、どこか震えているように聞こえた。

 

 特等席の観客は去った。

 ここから先は、誰の助けも介入もない、彼ら自身の物語だ。

 

 灼熱の地獄【黒焔火山】の闇は、ただ静かに、挑戦者たちの運命を飲み込もうと口を開けていた。

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