異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第126話 『黒焔の巣』

 大迷宮第七十層、最深部。

 自らゆっくりと開いていった巨大な石扉の向こう側から、冷たく重苦しい空気が流れ出してくる。

 

 灼熱の地獄であるはずの第六十層台の奥底で、なぜこのような冷気を感じるのか。

 いや、それは物理的な温度の低下ではなかった。

 圧倒的な死の気配が、本能的な恐怖として彼らの肌を粟立たせ、疑似的な悪寒を生み出していたのだ。

 

 重い足を引きずりながら、四人は扉の先へと足を踏み入れた。

 そこは、巨大な火山の中をすり鉢状にくり抜いたような、広大なカルデラの火口底だった。

 見上げれば、首が痛くなるほど高くそびえ立つ黒い岩壁が、外界を完全に遮断して円形に囲んでいる。

 まるで巨大な闘技場、あるいは処刑場だ。

 そして、そのカルデラの中央には、直径数百メートルはあろうかという巨大な溶岩湖が、赤黒く煮えたぎっていた。

 

 一行は言葉を失っていた。

 熱気は確かに存在するが、これまでの階層のような暴風や無秩序な黒焔の噴出はない。

 ただ、静まり返った溶岩湖の中心に向けて、空間全体の魔力が吸い込まれていくような、異様な重圧感があった。

 

「……これが、下層最初の壁か」

 

 セレスティアが掠れた声で呟く。

 彼女の握る白銀の槍の穂先が、かすかに震えていた。

 冒険者ギルドの公式記録において、これまで誰一人として生きて帰った者のいないという、未知の絶対領域。

 その理由が、今まさに彼らの目の前で顕現しようとしていた。

 

 ボコッ、と溶岩湖の中心で、一際大きな気泡が弾けた。

 それを合図にしたかのように、広大な溶岩の海面が激しく波打ち始める。

 ズズズズズッという地鳴りが足元の黒い岩盤を揺らし、カルデラの底全体が震動した。

 

「来るぞ! 構えろ!」

 

 蒼介は【迅速(ブースト)】による過負荷で悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、サバイバルナイフを抜き放った。

 溶岩湖の中央が隆起し、真っ赤なマグマが滝のように四方へと流れ落ちる。

 そのマグマのベールの内側から、巨大な影がゆっくりと天に向かって姿を現した。

 

 バサァッ!!

 

 広げられた漆黒の双翼が、カルデラの空気を一気に切り裂いた。

 それは、途方もなく巨大な鳥型の魔物だった。

 全長数十メートルに及ぶその体躯は、実体のある肉ではなく、凝縮された魔力と漆黒の炎――『黒焔』そのもので構成されているように見えた。

 

「ギャアアアアアァァァァァッ!!」

 

 鼓膜を突き破らんばかりの咆哮が、すり鉢状の岩壁に反響し、脳髄を直接揺さぶる。

 巨大な鳥が上空へと舞い上がると同時に、その全身から溢れ出した黒焔が、まるで後光のように虚空を焼き焦がした。

 第七十層の主、『不死黒鳥(ノワールフェニックス)』。

 かつて五百年前に滅びた王国の王女でさえ、文献の中でしか見たことのない、神話クラスの災厄がそこに君臨していた。

 

『ソウスケさん……! あの魔物、存在そのものが呪いの塊ですわ!』

 

 腰のペンダントから、リリアーナの悲鳴に近い声が響いた。

 彼女の魂が、かつてないほどの恐怖に震えているのが伝わってくる。

 

「これが七十層の主……。まーた鳥かよ。ふざけるな、どうやって倒せってんだ」

 

 蒼介は、上空で優雅に旋回を始めた巨大な黒鳥を見上げ、奥歯を噛み締めた。

 不死黒鳥が一度羽ばたくたびに、その漆黒の翼から無数の黒焔の塊が剥がれ落ちる。

 それは、黒い流星群のようにカルデラの底へ向かって降り注いできた。

 

「散開しろ!」

 

 蒼介の絶叫が、絶望の開幕を告げた。

 ただの炎ではない。生命力を燃料とする呪いの黒焔だ。

 触れれば最後、肉体は瞬時に炭化し、骨の髄まで燃やし尽くされる致死の雨。

 

「くっ!」

 

 セレスが大きく地を蹴り、黒焔の雨を間一髪で回避する。

 黒い炎の塊が岩盤に激突した瞬間、ジュウッと不気味な音を立てて岩を溶かし、燃え広がっていく。

 回避スペースが、着弾する黒焔によって徐々に削り取られていくのだ。

 

「ひぃっ!」

 

 体力の限界を迎えていたネアが、飛来する黒焔に反応遅れて足をもつれさせた。

 

「ネア!」

 

 蒼介は迷わず【迅速(ブースト)】を起動した。

 限界を超えたリミッター解除が、全身の血管を破裂させんばかりに血流を加速させる。

 

 彼は黒い弾丸となって岩盤を蹴り、ネアの体を強引に抱き抱えて横へと転がった。

 直前まで彼女がいた空間を、巨大な黒焔が通り過ぎ、岩盤をドロドロに溶かす。

 

「……痛っ」

 

「大丈夫か、ネア!」

 

「う、うん……ごめんね、ソースケ」

 

 ネアは蒼介の腕の中で、青ざめた顔で頷いた。

 だが、安心している暇はない。

 上空を高速で飛び回る不死鳥は、次から次へと黒焔の雨を降らせてくる。

 カルデラの底は瞬く間に漆黒の炎の海と化し、彼らの立つ安全な岩盤は孤島のようになっていた。

 

「このままではジリ貧だ! 私が撃ち落とす!」

 

 セレスが立ち上がり、空の不死鳥を睨み据えた。

 彼女は残された魔力を振り絞り、白銀の槍を頭上へと高く掲げる。

 肩甲骨から溢れ出す魔力を、一点に圧縮していく。

 過酷な行軍の中で彼女が研ぎ澄ませた槍は、かつてないほど眩い紫電を纏っていた。

 

「貫け、我が雷霆よ!」

 

 セレスの渾身の一撃が、上空の巨大な黒鳥に向かって放たれた。

 極太の雷光が、空気を焼き焦がしながら真っ直ぐに不死鳥の胸元へ突き進む。

 それは間違いなく、中層の主であれば一撃で致命傷を与えるほどの威力と速度だった。

 

 しかし。

 

『ギャアッ!』

 

 不死鳥が嘲笑うように短く鳴き、翼を一度だけ大きく羽ばたかせた。

 その瞬間、不死鳥の眼下から凄まじい熱量を持った上昇気流が巻き起こった。

 さらに、黒焔そのものが分厚い魔力障壁となって不死鳥の巨体を覆い隠す。

 

「なっ……!?」

 

 セレスの放った雷の刃は、不死鳥に届く手前で、異常な熱の壁と強烈な上昇気流にぶつかった。

 軌道を完全に逸らされた紫電は、不死鳥の遥か上空へと逸れていき、虚空で虚しく霧散してしまったのだ。

 

「そんな……私の全力の魔法が、届きすらしないというのか……」

 

 セレスが絶望に目を見開く。

 魔法剣士としての彼女の最大火力が、ただの羽ばたき一つで無効化されたという事実。

 それは、格という言葉では片付けられないほどの、圧倒的な力の差だった。

 

「クソッ、ならこれでどうだ!」

 

 蒼介はリュックから、道中で買い込んでいた高価な聖水の小瓶を取り出した。

 呪いの黒焔を消し去る解呪の聖水。

 彼は【迅速(ブースト)】で加速した右腕を限界まで振りかぶり、上空の不死鳥に向かって小瓶を全力で投擲した。

 だが、その試みも無意味だった。

 小瓶は不死鳥に到達する遥か手前、黒焔の雨と熱波の壁に触れた瞬間にパァンと破裂し、中の聖水は一瞬にして蒸発してしまった。焼け石に水、どころではない。

 

「……私の番だね。前の鳥さんもいけたもん、きっと大丈夫!」

 

 ネアがふらつく足で立ち上がり、両手を胸の前で強く組んだ。

 彼女の鼻からは再び赤い血が流れ出し、限界を超えた魔力行使が彼女の精神を蝕んでいることを示していた。

 それでも彼女は紫色の瞳を強く発光させ、上空の不死鳥へと強烈な暗示を放った。

 

「その翼は、すごく重いよ……! 飛べないよ!」

 

 魔人族の精神干渉魔法。

 これまで数々の窮地を救ってきた、物理法則を無視して相手の認識を書き換える禁忌の力。

 ネアの放った魔力の波長が、不死鳥の精神の根源へと向かって飛んでいく。

 しかし、次の瞬間だった。

 

「ああっ!?」

 

 ネアが短い悲鳴を上げ、両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちた。

 

「ネア!」

 

 蒼介が駆け寄ると、彼女の紫色の瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 魔法が失敗したのではない。

 弾かれたのだ。

 第七十層の主という、圧倒的に格上で強大な魔力を持つ存在の精神障壁。

 それにネアの未熟な暗示がぶつかり、まるで巨大な岩壁に小石を投げつけたかのように、強烈な反動となってネア自身の精神回路に跳ね返ってきたのである。

 

「だめ……ソースケ……。あいつの頭の中、真っ暗で……何にも届かないよぉ……」

 

 ネアは頭を抱え、小刻みに震えている。

 最大の切り札であった認識阻害すら通用しない。

 物理攻撃も魔法攻撃も届かない上空から、絶え間なく降り注ぐ必殺の黒焔の雨。

 安全な足場は徐々に溶岩と炎に飲まれ、逃げ場のない火口の底で、彼らは完全に袋小路に追い詰められていた。

 

『ソウスケさん! 左から大きな炎の塊が来ますわ!』

 

 リリアの悲痛な警告に、蒼介はネアを抱えて再び横へとダイブした。

 轟音と共に岩盤が溶け、熱風が蒼介の背中を焼く。

 

(このままじゃジリ貧だ。何か……何か手はないのか)

 

 蒼介は地面を転がりながら、血走った目で上空の不死鳥を睨みつけた。

 ナノマシンのエネルギーは底を突きかけており、【自己修復(リペア)】も機能不全に陥っている。

 セレスの魔力も枯渇し、ネアは精神的ダメージで立ち上がれない。

 

 圧倒的な力の差。

 冒険者ギルドで誰も突破できなかったという記録が、今、重い現実となって彼らの命を押し潰そうとしている。

 だが、蒼介は諦めなかった。

 かつて仲間を喪い、絶望の中で生きることを選んだ彼にとって、ここで再び仲間を失うことだけは絶対に受け入れられない。

 

(考えろ。思考を加速させろ)

 

 蒼介は【探知(サーチ)】のレーダーを、上空で旋回する不死黒鳥に完全にロックオンした。

 敵の動き、魔力の流れ、上昇気流のパターン、黒焔の雨が降る間隔。

 ナノマシンの演算能力を限界まで引き上げ、生き残るためのわずかな綻びを、狂気のような執念で探し求める。

 

 逃げ場のない火口の底。

 静謐な画廊を抜けた彼らを待っていたのは、純粋で絶対的な黒と赤の絶望だった。

 不死鳥の甲高い咆哮が響く中、蒼介は起死回生の策を練るべく、自らの脳髄を焼き切るほどの思考の海へと深く沈み込んでいった。

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