異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第129話 ここぞというときの言葉

 空を覆い尽くしていた漆黒の翼が灰と化し、カルデラの火口底に降り注いでいた黒焔の雨も嘘のように止んだ。

 第七十層の主であった神話級の魔物は、文字通り一片の塵となって空間に溶け、後に残されたのは本来の荒涼とした岩肌と、静かに煮えたぎる溶岩湖だけだった。

 

「はぁっ……、はぁっ……」

 

 蒼介は仰向けに倒れ込んだまま、大きく、そして荒い息を吐き出した。

 右腕は二つの強大な呪いを衝突させた反動で皮膚が焼け焦げ、左腕は極寒の沼による凍傷のダメージが尾を引いている。体内のナノマシンが全力で稼働し、損傷箇所に修復のためのエネルギーを送り込んでいるが、システム自体がオーバーヒート寸前であり、ひどい気怠さが全身を支配していた。

 それでも、生き残った。

 あの理不尽な死の権化を相手に、自分たちの機転と暴力のすべてを出し尽くし、勝利をもぎ取ったのだ。

 

「終わった……終わったのだな」

 

 少し離れた場所で、セレスティアが白銀の槍を杖にしてゆっくりと立ち上がった。

 彼女の全身は煤に汚れ、金糸のような髪は汗で額に張り付いている。極限の魔力放出を繰り返した彼女もまた、立っているのがやっとの状態だった。だが、その青い瞳には、誰も成し遂げたことのない大迷宮の最深部を突破したという、確かな誇りと安堵の光が宿っていた。

 

「ああ……。勝った」

 

 蒼介は痛む右腕を庇いながら、ゆっくりと上体を起こした。

 

「ソースケ、セレちゃん……よかったぁ……」

 

「お前が一番よくやったよ、ネア。お前の魔法がなきゃ、俺の一撃は当たらなかったし、セレスの槍も届かなかった」

 

 蒼介が優しく声をかけると、ネアは嬉しそうに目を細めた。

 

『皆様、本当にお疲れ様でした。あの絶望的な状況から生還できるとは……。五百年前の王国騎士団でも、あれほどの魔物には太刀打ちできなかったはずですわ』

 

 腰に下げた銀のペンダントから、リリアーナの震えるような、しかし歓喜に満ちた声が響く。彼女の魂もまた、共にこの死線を越えたのだ。

 

「これで、下層最初の壁は越えた。街に戻って、熱い風呂にでも入りたいところだ」

 

 蒼介は重い体を起こそうと、地面に手をついた。

 勝利の余韻。生還の喜び。

 その甘美な感情が、極限まで研ぎ澄まされていた彼の危機察知能力を、ほんの一瞬だけ、わずかに鈍らせた。

 

 気を抜いた、その刹那だった。

 

「ソウスケッッ!!」

 

 突然、セレスの悲鳴にも似た絶叫が火口の底に響き渡った。

 その声に込められた異常なまでの恐怖の響きに、蒼介の心臓が冷たく跳ね上がる。

 

 視界の端、ナノマシンの【探知(サーチ)】レーダーが、突如として真っ赤な警告色で埋め尽くされた。

 それは、カルデラの中央――つい先ほど不死鳥が消散し、黒い灰となって降り積もっていたはずの場所だった。

 

 蒼介が弾かれたように振り向く。

 彼の目に映ったのは、信じられない光景だった。

 

 空間に漂っていた黒い灰と、岩盤に染み込んでいたわずかな残存魔力が、一つの点に向かって異常な密度で凝縮されようとしていた。

 不死鳥の核は確かに砕いた。しかし、それは瞬く間に形を成し、身長二メートルほどの人型の影へと変貌する。

 漆黒の炎――『黒焔』だけで構成された、実体のない怨念の塊。

 

(なん、だと……!?)

 

 蒼介の思考が追いつくよりも早く、黒炎の人影は動いた。

 巨鳥の姿であった時とは比較にならない、異常なまでの超高速。質量を極限まで圧縮したことで、その動きは音速すら凌駕していた。

 

 ジッ!

 

 空気が焦げる音と共に、人影はすでに蒼介の完全な死角、背後へと回り込んでいた。

 ナノマシンの警告が脳内に鳴り響くが、疲労の極致にあった蒼介の肉体は、すぐには反応できなかった。

 振り返る暇すらない。

 黒炎に包まれた、鋭い刃のような腕が、蒼介の背中を両断すべく無慈悲に振り抜かれた。

 

(避けられない――)

 

 圧倒的な死の気配。

 蒼介の脳が、己の死を覚悟したその瞬間だった。

 

 ドンッ。

 

 蒼介の脇腹に、強い衝撃が走った。

 それは敵の攻撃ではない。

 小さな、しかしありったけの力を込めた体当たり。

 蒼介の体は横方向へと激しく突き飛ばされ、岩盤の上を無様に転がった。

 

「あっ――」

 

 短い、本当に短い声が聞こえた。

 岩盤を転がりながら、蒼介の視界はスローモーションのように引き伸ばされていた。

 彼が弾き飛ばされた位置。

 ついコンマ数秒前まで、自分が立っていたその場所。

 そこに立っていたのは、突き飛ばした反動で体勢を崩したネアの姿だった。

 

 ズプッ。

 

 肉を焼き、骨を貫く、ひどく生々しい音がカルデラに響いた。

 黒炎の人影が振り抜いた刃のような腕は、蒼介を庇って身代わりとなったネアの小さな腹部を、背中から深々と貫通していた。

 鋭い黒い炎の刃先が、彼女の薄緑色のチュニックを突き破り、腹の前へと飛び出している。

 

「…………は?」

 

 蒼介の思考が、完全に停止した。

 時間が凍りついたかのように、その光景が目に焼き付いて離れない。

 

 ネアの紫色の瞳が、驚きに見開かれている。彼女自身も、何が起きたのか理解できていないようだった。

 人影が、無造作に腕を引き抜く。

 

「あ……」

 

 ネアの口から、大量の鮮血が吐き出された。

 彼女の体が、糸の切れた操り人形のように力なく崩れ落ちる。

 

「ネアアアァァァァァッ!!」

 

 セレスの悲痛な絶叫が響いた。

 その声で、蒼介の凍りついていた時間が強引に動き出した。

 

 頭の中が、真っ白になった。

 恐怖も、絶望も、後悔も、すべてが一瞬にして吹き飛び、後に残されたのは純粋で暴虐的なまでの怒りだった。

 

「アアアアアアアアァァァァァァァッ!!!」

 

 蒼介の口から、人間のものとは思えない、獣のような咆哮が迸った。

 疲労も火傷の痛みも完全に忘れ去り、体内のナノマシンの限界を強制的に解除する。

迅速(ブースト)】のオーバードライブ。

 筋肉の繊維がブチブチと音を立ててちぎれるのも構わず、彼は地面を爆発的に蹴り上げた。

 鞘からサバイバルナイフを引き抜く動作すらも神速の領域に達している。

 

 ネアを貫いた黒炎の人影が、次なる標的を求めて顔を向けようとした瞬間。

 蒼介はすでに、その黒い影の鼻先に肉薄していた。

 

「死ねェッ!!」

 

 憎悪と殺意のすべてを込めた一撃。

 右手に握りしめたナイフが、黒炎の顔面に向かって凄まじい速度で振り抜かれた。

 

 それは単なる斬撃ではない。彼の全体重と、ナノマシンの全出力、そして爆発的な怒りが乗った破壊の暴風だった。

 ドゴォォォンッ!!

 ナイフが人影の頭部に直撃した瞬間、黒炎の塊が内側から弾け飛ぶようにして木端微塵に粉砕された。

 頭部を失った人影はビクンと痙攣し、そのまま形を保つことができず、ただの黒い煙となって虚空へと完全に霧散していく。

 主の最期の怨念は、今度こそ完全に消滅した。

 

 だが、蒼介にとってそんなことはどうでもよかった。

 彼は人影が消え去るのと同時に、血の海の中に倒れ伏しているネアの元へと滑り込むように膝をついた。

 

「ネア! ネア! おい、嘘だろ……しっかりしろ!」

 

 蒼介は震える両手で、血まみれになったネアの小さな体を抱き起こした。

 新しい薄緑色のチュニックは、彼女自身の赤い血でどす黒く染まっていた。

 腹部を完全に貫通した致命傷。

 傷口からは絶え間なく鮮血が湧き出し、彼女の生命力が急速に失われていくのが、抱きしめた腕越しに痛いほど伝わってくる。

 

「セレちゃん……ソースケ……」

 

 ネアの口から、ゴボッと血の泡が吐き出された。

 その顔は雪のように白く、紫色の瞳の焦点はすでに合っていなかった。

 

「喋るな! 今すぐ治してやる! そうだ、ナノマシンを使えば……!」

 

 蒼介はパニック状態に陥りながら、自分の腕の傷口に手を当て、そこから体内のナノマシンを直接ネアの傷口へと流し込もうと試みた。

 現代日本のテクノロジーの結晶。どんな傷でも瞬時に塞ぐ奇跡の力。

 これさえあれば、これほどの致命傷でもきっと回復させられるはずだ。

 

「頼む、動け! 傷を塞げ!」

 

 蒼介は必死にナノマシンに命令を送る。

 しかし、無情にもナノマシンのインターフェースは冷酷なエラー音を返し続けた。

 対象の生体構造の不一致。

 ネアは人間ではない。魔人族だ。骨格も臓器の構造も魔力回路の配置も、人間とは根本的に異なっている。

 蒼介の肉体に最適化されたナノマシンは、彼女の体を「修復すべき対象」として認識できず、機能しない。

 

「なんでだよ! なんで動かねえんだよクソッ!!」

 

 蒼介は絶望に顔を歪め、血だらけの手でネアの傷口を必死に押さえた。

 指の隙間から、温かい血が止まることなく溢れ出してくる。

 

「ソウスケ……! 私のポーションを!」

 

 駆け寄ってきたセレスが、震える手で腰のポーチから最高級の回復薬を取り出し、ネアの口元へと運んだ。

 しかし、ネアはそれを飲み込むことすらできなかった。液体は口の端から溢れ、血と混ざって地面へと落ちていく。

 

『ネアさん! ネアさん! ああ、神よ……!』

 

 ペンダントから、リリアの悲痛な泣き声が響き渡る。

 

「嫌だ……頼む、死なないでくれ……! 俺のせいだ、俺が油断したから……!」

 

 蒼介の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 かつて現代日本のダンジョンで仲間を喪った時の光景が、フラッシュバックして彼の脳髄を切り裂く。

 

 あの時も、自分の力が足りなかったせいで、目の前で命が散っていくのをただ見ていることしかできなかった。

 この異世界に来て、ようやく信じられる仲間ができた。

 一緒に笑い、共に死線を乗り越え、背中を預けられる存在ができたのだ。

 それなのに、また同じ過ちを繰り返すというのか。

 

「ごめん、ネア……ごめんな……!」

 

 蒼介はネアの体を強く抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。

 

 その時だった。

 ピクリ、と。

 腕の中に抱かれたネアの細い指先が、わずかに動いた。

 

「ソース……ケ……」

 

 かすれるような、消え入りそうな声。

 蒼介はハッとして顔を上げた。

 ネアの焦点の合っていなかった紫色の瞳が、ゆっくりと蒼介の顔を見つめ返していた。

 そして、その妖しい色の瞳の奥に、微かな、しかしひどく強烈な魔力の光が帯びるのを、蒼介は確かに見た。

 

 

 直後、蒼介の脳内にキィィンという鋭い耳鳴りが走った。

 

 

「ネア! 喋るな、血が出る!」

 

「……前に……言ったよね……」

 

 ネアは、口の端から血を流しながら、ふっと優しく微笑んだ。

 その声は、致命傷を負っているとは思えないほど、穏やかで静かだった。

 

「ここぞって時に……かっこいい言葉を使う主人公に……憧れてて……」

 

 その言葉を聞いて、蒼介はハッとした。

 第六十層のボスの間へと続く、真紅の絨毯の回廊。

 そこで彼女が目を輝かせて語っていた、絵物語の話だ。

 いつか一番大切な場面で、私だけのかっこいい言葉を使うのだと、彼女は無邪気に笑っていた。

 

「私も……いつか絶対言ってやるぞって……決めてたの……」

 

 ネアは苦しげに息を継ぎながら、涙混じりの、しかし満足そうな苦笑を浮かべた。

 

「でもね……いざってときに、なったら……」

 

 彼女の冷たくなっていく手が、ゆっくりと持ち上がり、蒼介の涙で濡れた頬にそっと触れた。

 その小さな手の冷たさに、蒼介の心臓が凍りつく。

 

「こんな……どこかで聞いたような言葉じゃ……嫌だなって、思うのに……」

 

 彼女の紫色の瞳が、妖しく、そして深く発光する。

 それは彼女の生命の最後の輝きなのか、それとも。

 

「これしか……思いつかないんだ……」

 

 ネアは蒼介の目を真っ直ぐに見つめ、最後の力を振り絞って、その言葉を紡いだ。

 

「私を、忘れないで」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間。

 蒼介の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 ネアの顔が、セレスの悲鳴が、血の匂いが、すべてが遠くへ遠くへと急速に遠ざかっていく。

 

 何が起きているのか理解できない。

 強烈な睡魔に似たブラックアウトが彼を襲い、蒼介の意識は、底なしの深い闇へと落ちていった。

 

 

 * * *

 

 

「――ハッ!」

 

 蒼介は、肺に大量の空気を吸い込むようにして、大きく目を見開いた。

 全身がびっしょりと冷や汗に塗れている。

 彼は弾かれたように上体を起こし、周囲を見渡した。

 

 そこは、荒涼とした黒い岩盤の上だった。

 少し離れた場所で、セレスティアが槍を手にして立ち、周囲を警戒している。

 そして。

 

「あ、起きた! ソースケ、大丈夫?」

 

 目の前に、小首を傾げて覗き込んでくる少女の姿があった。

 青紫色の髪、大きなアーモンド型の瞳。

 薄緑色のチュニックには、血の跡一つついていない。

 ネアだった。

 

「ネア!?」

 

 がばりと体を起こした蒼介に、ネアは「わっ!?」と声を上げ、思わず後ずさった。

 心臓が早鐘のように打ち鳴り、頭の中が激しく混乱している。

 さっきまで自分の腕の中で血まみれになっていたはずだ。腹を貫かれ、冷たくなっていく手で頬に触れたはずだ。

 

「ど、どういうことだ……? お前、さっき腹を貫かれて……!」

 

 蒼介が震える指でネアを指差すと、彼女は不思議そうに目をパチクリと瞬かせた。

 

「え? なに言ってるのソースケ。私はずっとここで休憩してたよ?」

 

 ネアは立ち上がり、くるりとその場で一回転して見せた。

 怪我をしている様子は微塵もない。普段通りの、無邪気で元気な姿だ。

 

「心配、したんだ。まるで、今際の際みたいで……」

 

 蒼介は自分の声が激しく震えているのを感じながら、そう絞り出した。

 悪い夢でも見ていたのだろうか。

 極限の疲労と、過去のトラウマが引き起こした悪夢。

 不死鳥との戦いの後、緊張の糸が切れて気絶し、その間にあんなおぞましい夢を見たというのか。

 

「だいじょうぶだいじょ~ぶ。私は不死身なのだ!」

 

 ネアは両手を腰に当て、えっへんと誇らしげに胸を張った。

 そのいつものように明るく笑う彼女の姿を見て、蒼介の胸の奥で暴れ回っていた恐怖と絶望が、急速に萎んでいくのを感じた。

 

「……そうか。そうだよな」

 

 蒼介は額の汗を手の甲で拭い、心の底から安堵の息を長く吐き出した。

 夢だったのだ。

 仲間を喪うという最低最悪の光景は、自分の弱い心が作り出した幻だったのだ。

 彼女は生きている。ちゃんと目の前で笑っている。

 それ以上の真実など、今の彼には必要なかった。

 

「ああ、よかった……本当によかった」

 

 蒼介は全身の力を抜き、胸を撫で下ろした。

 冷たい岩盤の感触が、現実の確かさを教えてくれている。

 過酷な戦いは終わったのだ。

 

 仲間は全員無事で、誰も失われてはいない。

 その絶対的な安心感に包まれながら、蒼介はゆっくりと立ち上がり、生きている彼女の笑顔に向かって微笑み返したのだった。

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