異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
テルスの街の朝は、相変わらず活気に満ちていた。
だが、金級冒険者へと昇格を果たした俺たちに向かってくる街の空気は、昨日までとは明らかに異なっていた。
宿屋から一歩外に出ただけで、すれ違う冒険者たちや商人から尊敬と畏怖の入り混じった視線を向けられる。中にはわざわざ立ち止まって一礼してくる者までいた。
現代日本のダンジョンで、B-ランクのしがないシーカーとして誰にも期待されず、ただ日銭を稼ぐためだけに泥臭く生きていた頃には、想像もつかないような待遇だ。
金級という肩書きは、この大迷宮を拠点とする者たちにとって、それほどまでに絶対的な意味を持っているらしい。
だが、俺自身は特に偉くなったという実感はなかった。俺が生き残ってこれたのは、ただナノマシンの【
「ソースケ、おはよう! 今日もいいお天気だね!」
隣を歩くネアが、俺の腕に抱きつきながら満面の笑みを向けてきた。
彼女は新調した薄緑色のチュニックを身に纏い、フードの奥で紫色の瞳をキラキラと輝かせている。七十層で限界まで魔力を使って倒れていたのが嘘のように、今日の彼女は元気いっぱいだった。
「おはよう、ネア。あまりはしゃぐなよ、これから下層に潜るんだからな」
俺は苦笑しながら、ネアの頭を軽くポンと叩いた。
彼女の柔らかな髪の感触が、俺の心に不思議な安堵感をもたらしてくれる。
あんな過酷な戦いを経ても、彼女の無邪気さは失われていない。それが俺にとって何よりの救いだった。
「わかってるよぉ。でも、新しい冒険の始まりって思うと、なんだかワクワクしちゃって!」
「お前は本当にタフだな」
俺はため息をつきつつ、視線を少し後ろへと向けた。
俺たちから少し離れて後ろを歩いているのは、セレスティアだ。
彼女もまた、金級冒険者の証である意匠が施された新しいマントを白銀の甲冑の上に羽織っている。
だが、その表情は昨日の祝賀会の時から変わらず、ひどく強張っていた。
「セレス、調子はどうだ? 新しい装備の具合は?」
俺が声をかけると、セレスはビクッと肩を震わせ、顔を伏せがちに頷いた。
「あ、ああ……。問題ない。素晴らしい品だ。エッケハルト家の名に恥じぬ働きができるだろう」
口から出る言葉はいつも通りの騎士らしいセリフだが、声の張りが全くない。
昨日の夜、酒場を逃げるように出て行った彼女の背中を思い出す。
激戦の疲労がまだ完全に抜けきっていないのだろうか。それとも、金級という重圧が、真面目すぎる彼女の肩に重くのしかかっているのだろうか。
(まあ、無理もない。七十層までの戦いは、正真正銘の地獄だったからな)
俺は心の中でそう結論づけた。
今はまだ、緊張の糸を張り直している最中なのだろう。迷宮に入れば、嫌でもいつもの凛とした彼女に戻るはずだ。
俺たちは第七十層のポータルへとアクセスした。
ギルドからの報酬と、不死鳥のドロップ品の一部を換金したことで、俺たちの資金は莫大に潤っていた。
俺のサバイバルナイフは、名工と呼ばれる鍛冶師の手によって特殊な魔力伝導鉱石が組み込まれ、さらなる切れ味と耐久性を得ている。防具も、動きやすさを重視しつつ物理・魔法両面への耐性を高めた特注品に新調した。
万全の準備を整え、俺たちは青白く光るゲートへと足を踏み入れた。
光の奔流が視界を白く染め上げ、強烈な浮遊感が全身を包み込む。
やがて足の裏に硬い地面の感触が戻り、俺はゆっくりと目を開けた。
「…………なんだ、ここは」
ゲートを抜けた先、大迷宮第七十一層。
俺は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
中層の『法則の歪む画廊』や、その前の『黒焔火山』のような、理不尽な魔力や熱波が押し寄せてくるわけではない。
だが、そこはこれまでのどんな階層とも決定的に異なる、異質な空間だった。
「デカすぎる……」
俺の口から、無意識にそんな呟きが漏れた。
そこはすべてが規格外に巨大な世界だった。
見上げれば、果てしなく高い位置に天井の岩肌が霞んで見える。
地面から天井に向かってそびえ立つ鍾乳石は、現代日本の高層ビルよりも遥かに太く、そして高大な塔のように林立している。
通路の幅は、大型のダンプカーが何十台も並んで走れるほどに広く、壁面の岩の凹凸一つ一つが、俺たちの背丈を優に超える巨大な障害物となっている。
まるで、自分たちが突然小人にでもなってしまったかのような、強烈なスケール感の狂い。
空間が広すぎるせいで、距離感すらも正確に掴めない。
遠くに見える岩陰が、実際には何キロも先にある巨大な岩山なのかもしれない。
「こんな場所が、迷宮の地下に広がっているなんて……」
背後でセレスが息を呑む音が聞こえた。
彼女もまた、この途方もない巨大さに圧倒されているようだ。
「気をつけろ。これだけ空間がデカいってことは、そこに生息してる魔物も……」
俺は右目に青い光を宿し、体内のナノマシンにアクセスして【
網膜にレーダーのワイヤーフレームが投影されていく。
だが。
「……くそっ。広すぎて全体像がまるで掴めない」
俺は舌打ちをした。
半径五十メートルという【
レーダーの端に映るのは、巨大な通路のほんの一部と、虚無の空間だけ。
壁がどこまで続いているのか、この通路がどこへ繋がっているのか、マッピング機能が完全に追いついていない。
アリの巣の中に放り込まれた一匹の微生物になったような気分だ。
「これじゃあ、ルートを開拓するどころか、迷子になるのがオチだぞ」
俺が苛立ち混じりに周囲を見渡していると、目の前にひょいとネアが飛び出してきた。
「任せて! ソースケ!」
ネアは薄緑色のチュニックの袖をまくり上げ、えっへんと誇らしげに薄い胸を張った。
「私が道案内するよ!」
「道案内? お前、この階層の構造がわかるのか?」
俺が驚いて尋ねると、ネアは自信満々にコクコクと頷いた。
「うん! なんだかね、この洞窟を吹いてる風のにおいが、私が住んでた隠れ里の近くの山にすごく似てるの! 風の精霊たちが、あっちに道があるよーって教えてくれてる気がする!」
ネアは目を細め、かすかに流れる洞窟の冷たい風を鼻先で嗅ぎ取るような仕草をした。
魔人族特有の、自然や精霊と調和する感覚。
【
「そうか。お前のその感覚、本当に助かるよ」
俺はネアの顔を見て、自然と笑みがこぼれた。
この未知の恐怖に満ちた下層において、彼女の存在は俺の精神的な支えそのものだった。
「頼りにしてるぜ、ネア」
俺が小さく呟いて頭を撫でてやると、ネアは「えへへぇ」と照れくさそうに笑い、俺の手を引いて歩き出した。
彼女の足取りは、この重苦しい巨大な洞窟の中にあっても羽が生えたように軽い。
俺は彼女の背中を追い、腰のナイフの柄に手を添えながら、警戒を怠らずに足を進めた。
しばらく歩いていると、俺はある違和感に気がついた。
俺の少し後ろを歩いているはずのセレスの足音が、やけに重く、そして不規則なのだ。
ザッ……、ザッ……、と。
時折、何かに躓いたように立ち止まり、そしてまた歩き出す。
「どうした、セレス。足元が悪いか?」
俺が振り返らずに声をかけると、背後でカシャリと甲冑の鳴る音がした。
「い、いや……。問題ない。ただ、少し……」
セレスの言葉が途切れる。
俺は歩みを緩め、肩越しに彼女の様子を窺った。
セレスは数歩手前で立ち止まり、前を歩く俺を、穴が開くほど見つめていた。
その青い瞳は激しく揺れ動き、口元は何かを言いかけようとして、ワナワナと震えている。
だが、結局彼女はギリッと強く唇を噛み締め、俯いて黙り込んでしまった。
「……おい、本当にどうしたんだ。具合が悪いなら無理するなよ」
俺は完全に足を止め、セレスに向き直った。
彼女の態度の硬さは、昨日の夜からずっと続いている。
いくら真面目な騎士とはいえ、下層の空気に呑まれすぎではないか。
「まさか、この規格外の景色にビビってるのか?」
俺は少しだけ苛立ちを込めて言った。
前衛の盾役である彼女がそんな状態でオドオドしていては、いざ魔物が現れた時に連携が崩れる。
金級冒険者になったのだ。もっと自信を持って堂々としていてほしい。
「違う! 怖がってなどいない!」
セレスは弾かれたように顔を上げ、声を荒げた。
だが、その声はどこか悲痛な響きを帯びており、俺の目を見る彼女の視線は、すぐに逸らされてしまった。
「……ただ、その……。少し、目眩がしただけだ。本当に何でもない。先を急ごう」
セレスは無理やり早足になり、俺の横を通り過ぎていく。
俺は腑に落ちない思いを抱えながら、その背中を見送った。
(プレッシャーを感じてるなら、素直にそう言えばいいのに。面倒な奴だ)
俺は小さくため息をついた。
腰のペンダントに触れ、リリアに声をかけようかとも思ったが、やめた。
リリアも今日はずっと口数が少ない。下層特有の濃密な魔力が、魂だけの彼女に何か影響を与えているのかもしれない。
俺は気を引き締め直し、再びネアの案内で巨大な洞窟の奥へと歩き始めた。
見上げるような岩壁と、延々と続くビルよりも太い石柱の森。
静寂に包まれたこの『巨人の洞穴』には、微かな水滴の音と、俺たちの足音だけが響いている。
下層の最初の階層。
だが、その静けさがいつ破られるか、俺のナノマシンは常に最悪の事態を想定してアイドリングを続けていた。
セレスの不調が気がかりだが、今は進むしかない。
俺は前を歩くネアの小さな背中に視線を固定し、油断なく周囲の暗がりへと意識を尖らせた。