異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
大迷宮【巨人の洞穴】の探索は、俺の精神をじわじわと削り取るような重圧に満ちていた。
すべてが規格外に巨大なこの空間では、自分の存在がちっぽけな塵芥にでもなってしまったかのような錯覚に陥る。見上げる天井は暗闇に飲まれ、足元の岩肌には底知れない亀裂が走っている。
どこからともなく吹き込んでくる冷たい風が、巨大な鍾乳石の間を通り抜けるたびに、まるで巨人のくぐもった呼吸音のような不気味な音を立てていた。
アーマー・ビートル、そして神話級の魔物サイクロプスとの連戦を終えた俺たちは、この広大な空洞の片隅で、ようやく安全に野営できそうな場所を見つけ出していた。
巨大な岩の壁面がドーム状に崩落してできた、天然のシェルターのような空間だ。
入り口は狭いが内部はそれなりに広く、何より【
俺は背負っていた重いリュックをドサリと下ろし、深く長い息を吐き出した。
体内のナノマシンが、激戦による筋肉の断裂や微細な骨のヒビを修復しようとフル稼働している。右腕と左腕に残る火傷と凍傷のダメージも、少しずつだが確実に癒えつつあった。
だが、肉体の疲労は抜けても、精神の芯にへばりついたような重い疲労感は簡単には消えてくれない。
「今日はここをキャンプ地にする。これ以上進んでも、まともな足場があるか分からないからな」
俺がそう告げると、セレスは無言のまま静かに頷き、壁際に腰を下ろした。
白銀の甲冑を纏った彼女の動きは、どこか機械的で、ひどく重々しい。彼女は槍を傍らに置き、膝を抱えるようにして俯いてしまった。
サイクロプス戦の後から、彼女の様子はずっとこんな調子だ。俺が何度か声をかけても、上の空のような生返事が返ってくるだけだった。
金級冒険者になったプレッシャーなのか、それとも俺の無謀に見えた戦い方に腹を立てているのか。
真面目な彼女のことだ。俺が一人で特攻を仕掛けたように見えたのが、よほど気に入らなかったのだろう。
(悪いことをしたとは思っていない。あの時はあれが最善だったんだ)
俺は心の中で言い訳をしながら、携帯用の魔導コンロを取り出し、火を灯した。
青白い炎が静かな岩穴の中を照らし出す。
コンロの周りに石を積み上げ、簡単な焚き火の形を整える。炎の揺らぎが、冷え切った洞窟の空気を少しだけ和らげてくれた。
「わあ、あったかいね!」
俺の向かい側で、ネアが焚き火の炎に手をかざして嬉しそうに笑った。
彼女の薄緑色のチュニックは少し埃で汚れていたが、その顔には疲労よりも冒険を楽しんでいるような無邪気な明るさが満ちている。
彼女の道案内のおかげで、俺たちはこの迷路のような巨大洞窟で迷うことなく進むことができたのだ。さらに、戦闘でも彼女の暗示が完璧に機能し、巨人の足を止めるという大金星を挙げてくれた。
本当に、彼女には助けられてばかりだ。
「お疲れ様、ネア。今日はお前が大活躍だったな」
俺はコンロに鍋をかけながら、心からの感謝を込めて微笑みかけた。
「えへへぇ、そんなことないよ! ソースケとセレちゃんがいっぱい倒してくれたからだよ」
ネアは照れくさそうに頭を掻き、にかっと笑う。
その屈託のない笑顔を見ていると、俺の胸の中にあった強張りや焦りが、嘘のようにスーッと溶けていくのを感じた。
現代日本のダンジョンで全てを失い、一人で泥水をすすっていた俺が、今こうして仲間の笑顔に救われている。
俺は、今日一日本当に頑張ってくれた彼女を労おうと、ふっと右手を伸ばした。
彼女の青紫色の、柔らかな髪を撫でてやろうと思ったのだ。
だが。
「あっ、向こうに綺麗な光る石がある!」
俺の指先がネアの髪に触れる、ほんの数ミリ手前のことだった。
ネアは弾かれたように立ち上がり、俺の手をすり抜けるようにして、岩穴の奥の方へと小走りで向かっていってしまったのだ。
「お、おい、あんまり遠くへ行くなよ」
「うんっ! すぐ戻るから!」
ネアの背中が、薄暗い岩陰へと消えていく。
俺は宙に浮いたままの右手を見つめ、ゆっくりとそれを下ろした。
その時、俺の胸の奥を、微かな、本当に微かな違和感が通り過ぎた。
(……なんだ、今の)
俺の手を避けたわけではない。彼女はただ、光る石を見つけて立ち上がっただけだ。
だが、そのタイミングがあまりにも絶妙すぎた。
まるで、俺の指先が彼女に触れることを、空間そのものが拒絶したかのような、奇妙な感覚。
手のひらに残るはずの温もりや髪の感触が、完全にすっぽりと抜け落ちているような、不気味な空白。
俺は自分の右手を握ったり開いたりして、その違和感の正体を探ろうとした。
しかし、いくら考えても答えは出ない。
俺は小さく頭を振り、その考えをすぐに頭から追い出した。
(疲れてるんだな、俺も。気まぐれな奴だ、相変わらず)
そう自己完結して、俺は鍋の中で温まり始めたスープの匂いに意識を向けた。
この大迷宮にいると、些細なことでも神経過敏になってしまう。いちいち気にしていては身が持たない。
俺はセレスの方を振り返った。
「セレス、飯ができたぞ。少しでも胃に入れとけ」
俺が声をかけると、セレスはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
彼女の目は、泣き腫らしたように真っ赤に充血していたのだ。
「……すまない。私は、食欲がない。少し、横になる」
セレスは掠れた声でそう言うと、俺の顔を見ようともせず、毛布を引っ張り出して岩壁の隅へと丸くなってしまった。
俺は差し出そうとしていたスープの器を持ったまま、呆然と立ち尽くした。
「おい、セレス……」
俺の言葉は、冷たい岩壁に吸い込まれて消えた。
食事を摂らないなんて、彼女にしては異常だ。どんなに疲れていても、騎士としての自己管理を徹底していた彼女が。
よほど、俺の無謀な戦い方にショックを受けたのだろうか。それとも、まだ何か俺が気づいていない別の理由があるのか。
「リリア。お前からも何か言ってやってくれよ。あいつ、絶対におかしいぞ」
俺は腰のペンダントに触れ、相棒の魂に助けを求めた。
だが、銀の装飾からは何の反応も返ってこない。
魔力の脈動は感じられる。彼女は確かにそこにいる。
しかし、まるで見えない殻に閉じこもってしまったかのように、深い沈黙を保ち続けているのだ。
セレスも、リリアも。
俺の大切な仲間たちが、まるで俺を拒絶しているかのような、この重苦しい空気。
俺は一人、焚き火の揺れる炎を見つめながら、ひどく冷たい孤独感に襲われていた。
* * *
洞窟の夜は、文字通りの漆黒だ。
発光ゴケの微かな光も届かないこの岩穴の中では、コンロの小さな炎だけが唯一の光源だった。
セレスは毛布に包まったまま、寝息一つ立てずに微動だにしない。
ネアもどこかで眠っているのだろう。俺の【
俺は一人、火の番をしながら、これまでの戦いを頭の中で反芻していた。
五十層の怪鳥。六十層の狂気の画家。七十層の不死黒鳥。
そして今日戦った、巨大な甲虫と単眼の巨人。
どれも一つ間違えば全滅していた、紙一重の死闘だった。
だが、俺たちは生き残った。俺のナノマシンと機動力、セレスの防御と雷魔法、ネアの認識阻害と直感、そしてリリアの知識と魔力。
誰一人欠けても、ここまで来ることはできなかった。
俺たちは完璧なパーティだ。
そう信じているのに、なぜ今、こんなにも歯車が噛み合わないような違和感を感じているのだろうか。
俺が炎を見つめながら物思いに耽っていると、背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、毛布から這い出してきたセレスが、ふらつく足取りでこちらへ歩いてくるところだった。
「セレス。起きたのか。見張りなら俺がやってるから、もっと寝てていいぞ」
俺が気遣うように声をかけると、彼女は無言のまま、俺の隣に静かに腰を下ろした。
炎の光に照らされた彼女の顔は、ひどく青白かった。
そして、その目はやはり、痛々しいほどに赤く腫れ上がっている。
彼女は両手を膝の上で固く握り締め、小刻みに震えていた。
「……ソウスケ」
絞り出すような、か細い声だった。
「本当に、大丈夫か?」
俺は彼女の問いかけの意図がわからず、首を傾げた。
「大丈夫って、何がだ? 傷のことならナノマシンが治してる。明日の探索には全く問題ないぞ」
俺がそう答えると、セレスはギリッと強く唇を噛み締めた。
彼女の青い瞳が、炎の光を反射して濡れている。
「そうではない……! 私は、お前の体のことだけを言っているのではないのだ!」
セレスの声が、感情を抑えきれないように少しだけ大きくなった。
「もっと、自分を顧みてくれないか? お前はいつも、自分一人で何もかもを背負い込もうとする……!」
俺はますます混乱した。
自分を顧みろ? 一人で背負い込む?
「何言ってんだ、セレス。俺は一人で戦ってるわけじゃない。お前らもいるだろうが」
俺は事実をそのまま口にした。
実際、今日のサイクロプス戦だって、ネアの暗示で足止めし、俺が体勢を崩し、セレスが決めた。完璧な連携だったはずだ。
それを「一人で背負い込む」などと言われる筋合いはない。
「次の階層へのルートと、明日の作戦のことか? それなら俺が【
俺が平然とそう答えた瞬間だった。
「いい加減にしろッ!!」
セレスが弾かれたように立ち上がり、俺の胸ぐらを両手で強く掴み上げた。
ガシャッ、と彼女の籠手が俺の装備に食い込む。
俺は驚いて目を見開いた。
彼女の顔は俺のすぐ目の前にあり、その目からは大粒の涙がポロポロととめどなく溢れ落ちていた。
「なんで……なんでお前は、そんな平気な顔をしていられるのだ……!」
セレスの声は、号泣する一歩手前のように震え、そして掠れていた。
「このパーティの盾役は私だろう!? 前衛で敵の攻撃を受け止め、お前たちを守るのが私の役目のはずだ!」
彼女は俺の胸ぐらを掴んだまま、ボロボロと涙を流し続ける。
「それなのに、お前は、一人で死地へと飛び込んでいく……! 誰の助けも借りず、一人で戦おうとする!」
俺は彼女の言葉の意味が全く理解できず、ただ呆然と彼女の涙に濡れた顔を見つめていた。一人で戦う?
何を言っているんだ。俺はセレスやネアと連携して戦ったじゃないか。
なぜ彼女は、俺が一人で戦っているなどという、ありもしない事実を前提にして泣いているのだ。
「セレス、落ち着け。俺はお前を置いていったりしない。今日だって……」
「私は、お前がボロボロになっていくのを見ていられないのだッ!」
俺の言葉を遮るように、セレスが悲痛な叫びを上げた。
「お前の心が壊れていくのを……ただ隣で見ていることしかできない自分が、情けなくて、悔しくて……っ!」
彼女はついに俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣き崩れてしまった。
俺は胸ぐらを掴まれたまま、宙に浮いた両手をどうすることもできず、ただ困惑の極みにあった。
彼女の温かい涙が、俺の服に染み込んでいくのがわかる。
彼女の肩が、嗚咽と共に激しく震えている。
どうして、彼女はここまで思い詰めているんだ。
俺の心が壊れる? 俺がボロボロになる?
俺は至って正気だし、体だってナノマシンが治してくれている。
俺たちの戦いは順調だ。何も悲しむようなことなんてないじゃないか。
俺は理由が全くわからないまま、ただ泣きじゃくる彼女の震える背中に、そっと手を回した。
そして、子供をあやすように、ゆっくりとその背中を撫でることしかできなかった。
「泣くなよ、セレス。俺はどこにも行かないさ」
俺がそう慰めても、彼女の涙は止まるどころか、ますます激しくなるばかりだった。
まるで、俺のその言葉自体が、彼女をさらに深く傷つけているかのように。
その時。
俺の腰のペンダントから、微かな、本当に微かな音が聞こえた。
それは言葉ではなかった。
ただ、声にならない、すすり泣くような悲しみの気配だけが、ペンダントの奥底から俺の心に直接伝わってきたのだ。
リリア。
お前まで、どうして泣いているんだ。
俺が何をしたっていうんだ。
俺はただ、仲間と一緒にこの迷宮を生き抜こうと必死にもがいているだけじゃないか。
俺は冷たい岩壁に背中を預け、胸で泣き続けるセレスと、沈黙して泣くリリアの存在を感じながら、果てしない困惑の闇の中に落とされていた。
ただ、噛み合わない歯車の軋み音だけが、俺の心の中に不気味な残響として響き続けていた。
コンロの炎が小さく揺れ、俺たちの影を岩壁に歪んだ形で映し出していた。