異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
発光ゴケの青緑色の淡い光が、広大な空洞に幾重もの奇妙な影を落としていた。
先ほどまでこの空間を完全に支配していた死の喧騒が嘘のように、今は耳が痛くなるほどの静けさが広がっている。
白金級冒険者、フェイル。
俺たちの命を懸けた死闘をどこかで高みの見物と決め込み、すべてが終わったこの絶妙なタイミングで、涼しい顔をして姿を現した男だ。
俺は岩壁に半身を預けたまま、彼から鋭い視線を外すことができなかった。
先ほどまで俺の服の裾をギュッと握りしめていた小さな手が、ふっと離れる感覚があった。
視界の端で、薄緑色のチュニックがサッと岩陰の奥深くへと身を隠すのが見えた。
(ネア……)
「世界は君が思っているよりもずっと単純で、そして残酷だってことさ。神谷蒼介」
フェイルの言葉が、冷たい洞窟の風に乗って俺の鼓膜を容赦なく打った。
俺のフルネームを正確に呼んだその声には、単なるからかいや嫌味を超えた、何か決定的な真実を突きつけるような重い響きが含まれていた。
(こいつ……一体どこまで俺たちのことを知っているんだ)
俺は奥歯を強く噛み締めた。
体内のナノマシンは限界を超えたオーバードライブの反動により、赤い警告アラートを絶え間なく脳内に鳴らし続けている。
左肩の肉は魔術師の放った腐食魔法によってドロドロに溶け落ち、右腕はリリアの怨念めいた呪いの魔力を無理やり通した代償として、炭のように真っ黒に焼け焦げていた。
呼吸をするたびに肺がヒューヒューと千切れるような悲鳴を上げ、口の中にはひどく生臭い鉄錆のような血の味が広がっている。
すぐにでも腰のサバイバルナイフを構えて立ち上がりたかったが、全身の筋肉の繊維が完全に断裂しており、指先一つ動かすことすら困難な状態だった。
俺が放つ必死の殺気など全く意に介する様子もなく、フェイルは小さく肩をすくめて見せた。
そして困ったように眉を下げ、おどけるような手振りをした。
その態度は、街の酒場で酔っ払い同士の喧嘩を止めるような、ひどく軽いものだ。
「でも、君の狂気じみた動きは、見ていて本当にハラハラしたよ」
フェイルの黒い瞳が、細められて俺の全身を観察するように舐め回した。
狂気じみた動き。
その言葉に、俺は反論する気すら起きなかった。
確かに、先ほどの俺の戦い方は異常だったかもしれない。絶対に破れないはずの魔法障壁に対して、自らの腕が焼き切れるのも構わずに呪いの炎を叩き込んだのだ。
普通の冒険者なら、あんな自爆紛いの特攻は絶対に選ばない。
だが、そうでもしなければあの圧倒的な防壁を破り、セレスの決定打を叩き込む隙を作ることはできなかったのだ。
(俺の戦い方が無茶苦茶なのは、今に始まったことじゃない)
俺は心の中で冷たく吐き捨てた。
現代日本のダンジョンで、誰の助けも得られずに泥水をすすって生きてきた時から、俺の生存戦略は常に自分の身を削るギリギリの綱渡りだった。
ナノマシンというオーパーツの恩恵があるからこそ成立する、命の前借り。
それを今さら赤の他人に狂気と呼ばれても、痛くも痒くもない。
俺は荒い息を整えながら、目の前に立つこの黒髪の青年について、冷静に思考を巡らせた。
白金級冒険者、フェイル。
彼と初めて言葉を交わしたのは、大迷宮の第二十層『逆さ大樹』の主の間だ。
だが、本格的な戦闘を目にしたのは『法則の歪む画廊』でのことだった。
あの時垣間見た彼の戦闘力は、異常という言葉すら生ぬるいものだった。
絵画の中の狂った物理法則を完全に無視するかのように、彼は常人の目には映らないほどの超高速の剣技で、強大な魔物たちをいとも容易く細切れにしていた。
俺の【
俺、セレス、リリア、そしてネア。俺たちパーティ全員の力を足し合わせたとしても、このフェイルという男一人に勝てるビジョンが全く見えなかった。
それほどの絶望的な実力差。
白金級というのは、単なる迷宮攻略の実績だけでなく、国家やギルドにとって政治的な意味合いを持つ特例の階級だと聞いている。
彼は過去に、スタンピードと呼ばれる魔物の大群の暴走を、たった一人で食い止めたという伝説を持っているらしい。
それほどの傑物が、なぜ俺たちの周囲をコソコソとうろついているのか。
そして、俺の頭の中に、ある一つの決定的な矛盾が浮かび上がった。
(おかしい。絶対におかしいぞ)
俺は痛む頭をフル回転させた。
冒険者都市テルスのギルド公式記録。
この大迷宮の最深到達階層は、俺たちが第七十層の主である『不死黒鳥』を討ち果たすまで、六十九層で完全に止まっていたはずだ。
ギルドマスターも、俺たちが不死鳥の魔石を持ち帰った時、腰を抜かすほど驚愕していた。
それがテルスの街の歴史が始まって以来の偉業だったからだ。
だが、目の前にいるこのフェイルの実力はどうだ。
あの六十層での無双ぶり。そして今、この七十五層付近の『巨人の洞穴』という狂ったスケールの下層においても、彼は息一つ乱していない。
軽装の鎧には泥一つ跳ねておらず、迷宮特有の重圧を微塵も感じていないかのように、近所の公園でも散歩しているような足取りだ。
これほどの圧倒的な力を持つ男が、七十層のあの怪鳥を突破できないはずがない。
不死鳥の再生能力や呪いの炎は厄介だったが、フェイルの規格外の速度と手数の多さがあれば、核ごと完全に消し飛ばすことなど造作もないはずだ。
それなのに、なぜギルドの公式記録は六十九層で止まっていたのだ。
導き出される結論は一つしかない。
フェイルは、ギルドの公式記録には残さない「非公式」な形で、すでに七十層以降に足を踏み入れているのだ。
ギルドマスターがその事実を知っていて意図的に隠蔽しているのか。
それとも、フェイル自身がギルドにすら報告を行わず、誰にも知られることなく単独でこの深淵に潜り続けているのか。
おそらく後者だろう。この男の性格からして、ギルドのしがらみや名誉などには興味がなさそうだ。
だが、そうだとしたら、こいつの本当の到達階層は一体どこなんだ。
この七十層台の中盤においてすら、彼は俺たちの死闘を平然と観察する余裕を見せている。
魔術師が放った腐食の雨も、巨人の群れの暴力も、彼にとってはただの余興に過ぎなかったというのか。
(もしかすると、こいつは既に……)
俺の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。
この大迷宮の最下層。
なんでも願いが叶うという、神の力が眠る場所。
フェイルは既に、その深淵に王手をかけているのではないか。
あるいは、もう到達していて、何か別の目的のためにわざわざ上の階層に戻ってきているのではないか。
俺たちが見ている世界と、彼が見ている世界は、根本的に次元が違うのだ。
俺が声を出せずに睨みつけていると、フェイルはふっと興味を失ったように視線を逸らした。
彼はゆっくりとした足取りで、岩壁に寄りかかって動けない俺の横を通り過ぎようとする。
俺は反射的に右手に力を込め、落ちているナイフの柄を掴もうとした。
だが、指先はピクリとも動かなかった。ナノマシンの修復エネルギーが枯渇しかかっており、神経伝達が完全に遮断されている。
(くそっ……動け。動けよ)
俺は心の中で毒づいたが、肉体はただ重い鉛の塊のようにそこにあるだけだった。
フェイルは俺に手出しをする様子は全くなかった。
彼はそのまま俺を通り越し、少し離れた場所でへたり込んでいるセレスの前に、音もなく立った。
セレスの状況は、俺と同じか、それ以上に深刻だった。
エッケハルト家の秘奥義である『ライトニング・ピアス・フルバースト』。
あれは彼女の限界を遥かに超えた、命を削る一撃だったのだ。
彼女は白銀の槍を杖のようにして地面に突き立てているが、その膝は完全に折れ曲がり、立ち上がることすらできていない。
泥と埃に塗れた甲冑が、今の彼女には耐え難い重りになっているのだろう。
兜の下から覗く顔は、血の気が完全に引いて蝋人形のように青白く、荒い息を吐くたびに肩が弱々しく上下していた。
極限の魔力枯渇。
魔法使いにとって、魔力の完全な枯渇は肉体的な致命傷にも等しいダメージをもたらす。
フェイルは、青ざめた顔で伏せているセレスを静かに見下ろした。
その瞬間だった。
俺の肌をピリピリと刺すような、異常なまでの空気の変化を感じた。
それまでフェイルが纏っていた、飄々としたおちゃらけた空気が完全に消え失せたのだ。
代わりにその場を支配したのは、ひどく静かで、そして残酷なほどに冷徹な気配だった。
底なしの深淵を覗き込んでいるような、圧倒的なプレッシャー。
フェイルはゆっくりと口を開き、洞窟の暗闇に染み込むような低い声で、彼女に告げた。
「セレスティーナ嬢。彼、そろそろ限界だよ」
その言葉は、俺の耳にもはっきりと届いた。
彼。それは間違いなく俺のことだ。
「よく見てあげた方がいい。心と魂の境界線が、もうボロボロだ」
フェイルの言葉が、冷たい水滴のように静寂の中に落ちた。
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
限界? 心と魂の境界線がボロボロ?
何を言っているんだ、こいつは。
確かに俺の肉体は今、ナノマシンの酷使によってボロボロだ。右腕も左肩も使い物にならない。
だが、そんなものは少し時間をかければナノマシンが修復してくれる。
俺の心は折れてなどいない。魂だって擦り減ってなどいない。
俺はまだ戦える。仲間を守るために、何度だって立ち上がれる。
それなのに、フェイルはまるで、ひどく哀れむような言い方をしたのだ。
俺の異常なまでの生存への執着と、そのために手段を選ばない無謀な戦い方。
それを指して、限界だと言っているのだろうか。
だが、それを俺に直接言うならともかく、魔力枯渇で苦しんでいるセレスに向かって言うのは、あまりにも悪意に満ちていた。
「何を勝手なことを言ってる! セレスから離れろ!」
俺は喉の奥から血を吐き出すような声で怒鳴りつけた。
掠れて割れた声が、洞窟の壁に虚しく反響する。
俺は痛む体を無理やり捩り、フェイルの背中を睨みつけた。
俺の怒声を聞いて、フェイルはゆっくりとこちらを振り返った。
その顔を見て、俺は思わず息を呑んだ。
彼の顔には、嘲笑も、冷酷さも、同情すらも浮かんでいなかった。
ただ、ひどく悲しげで、どうしようもない絶望を抱えた者を看取るような、深い憐憫の目が俺を見つめていたのだ。
「……邪魔したね。それじゃ、また」
フェイルは短くそう呟いた。
「手遅れにならないことを祈ってるよ」
その言葉を最後に、彼はふっと足を踏み出した。
たった一歩。
それだけで、彼の姿はかき消えるように洞窟の深い暗闇の中へと溶け込んでしまった。
足音一つ残さない、完璧な隠密行動。
俺の網膜に投影されている【
広大な空洞には、再び完全な静寂が戻ってきた。
微かな風の音と、俺の荒い息遣いだけが残されている。
俺はしばらくの間、フェイルが消えた暗闇の空間を呆然と見つめていた。
心と魂の境界線。
その抽象的で意味不明な言葉が、呪いのように俺の頭の中でリフレインしている。
(馬鹿馬鹿しい。あんな得体の知れない奴の戯言を気にする必要はない)
俺は頭を強く振り、フェイルの言葉を無理やり意識の外へと追い出した。
今の俺は限界なんかじゃない。
俺が限界を迎える時は、俺の命が終わる時だけだ。
それまでは、俺は這いつくばってでも前へ進み続ける。
そう自分に言い聞かせ、俺は岩壁に手をついて、激痛に顔を歪めながら無理やり上体を起こした。
ナノマシンのインターフェースに、強制的な修復コマンドを打ち込む。
残された僅かなエネルギーが患部に集中し、焼け焦げた右腕の皮膚がジリジリと熱を持ち始めた。
俺は足元がおぼつかないまま、ゆっくりと立ち上がった。
岩陰の奥で息を潜めているはずのネアに声をかけてやろうかと思ったが、今はそれよりも先に確認しなければならないことがあった。
「セレス……」
俺は痛む足を引きずりながら、数歩先でうずくまっている彼女の元へと歩み寄った。
彼女は白銀の槍にすがりつくようにして、地面に膝をついたままだ。
フェイルの言葉を聞いてから、彼女は微動だにしていなかった。
「大丈夫か、セレス。魔力酔いなら、少し横になった方がいいぞ」
俺は彼女の肩にそっと手を伸ばそうとした。
だが、その手は空中でピタリと止まってしまった。
彼女の様子が、明らかにおかしかったからだ。
セレスは両腕で自分の膝を強く抱え込み、兜の下で顔を完全に伏せていた。
泥に汚れた白銀の甲冑が、小刻みに、そして激しく震えているのがわかる。
すすり泣くような声は聞こえない。だが、彼女が極度の感情の波に飲まれ、必死にそれに耐えようとしていることは、その強張った背中から痛いほど伝わってきた。
「あいつ、相変わらず意味不明だな」
俺は努めて明るい声を作り、彼女の緊張を解こうと笑いかけた。
「心と魂がどうのこうのって、吟遊詩人の真似事かよ。俺はこんなにピンピンしてるってのにな。ナノマシンがある限り、俺は簡単には死なないさ」
俺の言葉が、虚しく洞窟の空気に吸い込まれていく。
セレスは顔を上げなかった。
俺の軽口に反発することもなく、安堵の息を吐くこともない。
ただ、膝を抱えたまま、深く、重い沈黙に沈み込んでいる。
(なんで……あいつの言葉をそこまで真に受けてるんだ)
俺は困惑の極みにあった。
彼女は、俺が一人で無茶な戦い方をしたことに腹を立てているのだろうか。
それとも、フェイルの「彼が限界だ」という言葉を信じ込み、俺が今にも壊れてしまうと思い込んでいるのだろうか。
確かに俺はボロボロだ。でも、それはこれまでの戦いでも同じだったはずだ。
五十層の時も、七十層の時も、なんなら最初に出会った二十層のときだって、俺は傷だらけになりながら立ち上がってきた。
その度に彼女は俺を信じ、共に死線を越えてきたのではないか。
なぜ今になって、こんなにも思い詰めたような態度をとるのだ。
「セレス。顔を上げてくれ。もう敵はいない。俺たちの勝ちだ」
俺はもう一度、優しく語りかけた。
しかし、彼女からの返答はなかった。
微かな衣擦れの音と、彼女の浅い呼吸音だけが聞こえる。
まるで、俺という存在が彼女の認識から完全に弾き出されてしまったかのような、強烈な断絶感。
俺は空中に浮いたままの手のやり場に困り、ゆっくりとそれを下ろした。
「リリア。お前からも何か言ってやってくれよ」
俺は腰に下げた銀のペンダントに触れ、相棒の魂に助けを求めた。
いつもなら、ここでリリアが冷静な分析をしてくれたり、あるいは俺のデリカシーのなさをチクリと刺してくれたりするはずだ。
だが、ペンダントの表面はひどく冷たく、何の魔力の脈動も感じられなかった。
先ほど俺の腕に呪いの魔力を送り込んできた時の激しい怒りはどこへやら、今の彼女はまるで深い眠りについてしまったかのように、完全な沈黙を保っていた。
セレスも、リリアも。
俺の大切な仲間たちが、まるで俺との間に見えない壁を作ってしまったかのように、俺の手の届かない場所へと引きこもってしまった。
俺の言葉は誰にも届かず、ただ空回りするだけだ。
俺は広大な洞窟の中で、たった一人で取り残されたような、ひどく冷たくて重い孤独感に襲われていた。
フェイルの残した「手遅れにならないことを祈る」という不吉な言葉が、泥のような不快感となって俺の胸の奥底に沈殿していた。