異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第139話 黒い染み

 静寂が鼓膜をひどく圧迫していた。

 広大な空洞に満ちていた死の気配は消え去っている。戦闘の熱狂もすでにない。

 発光ゴケの青緑色の光だけが、無残に砕け散った巨人の骨を淡く照らし出していた。

 

 フェイルの姿はもうどこにもなかった。

 彼が闇に溶けるように消えた後も、俺はしばらくその場から動くことができなかった。

 

 冷たい洞窟の風が吹き抜ける。俺の頬にこびりついた血と泥を撫でていく。

 全身の筋肉が悲鳴を上げていた。ナノマシンが修復を急いでいるが、失った体力まではすぐには戻らない。

 

 だが肉体の痛みなど、今の俺にはどうでもよかった。

 それよりもフェイルの残した言葉が、喉の奥に刺さった小骨のようにどうしても抜けなかったのだ。

 

『心と魂の境界線が、もうボロボロだ』

 

 その言葉が、呪文のように俺の頭の中で何度もリフレインしていた。

 

(馬鹿なことを言うな)

 

 俺は心の中で力強く否定した。

 俺のどこが限界だというのだ。

 

 痛みはある。疲労もある。

 だが俺の心は決して折れてなどいない。

 

 強大な魔物を前にしても俺は逃げなかった。仲間を守るために最善の戦術を選び、自らの体を囮にして勝利を掴み取ったのだ。

 俺の精神は至って正常だ。

 何も狂ってなどいない。

 

 現代日本のダンジョンで泥水をすすっていた頃から、俺の戦い方はずっとこうだった。自分の命をチップにして、ギリギリの生存を勝ち取る。

 ナノマシンというオーパーツがあるからこそ可能な戦術だ。

 それを理解できない外野が、勝手な哀れみを向けてくるのがたまらなく不快だった。

 

 俺は深く息を吐き出した。

 吐く息は白く濁り、空洞の冷たい空気の中へ溶けて消えた。

 痛む足を引きずり、俺はゆっくりと歩みを進めた。

 

 数歩先で、セレスティアが地面にうずくまっている。

 彼女は白銀の槍を杖のようにして、両膝をついたまま微動だにしなかった。

 エッケハルト家の秘奥義。  あれほどの魔法を放ったのだ。極限の魔力枯渇が彼女の肉体を激しく苛んでいるはずだ。  俺は彼女のすぐ傍まで行き、静かに立ち止まった。

 兜の下に隠された顔は見えない。だが泥に汚れた甲冑の背中が、小刻みに震えているのだけははっきりと分かった。

 

(俺が無理をさせたからだ)

 

 俺の心に微かな罪悪感がよぎった。

 俺がもっと早くあの魔法障壁を破れていれば、彼女に命を削るような大魔法を撃たせずに済んだかもしれない。

 前衛の俺が頼りないから、彼女に過剰な負担を強いてしまったのだ。

 俺は痛む右腕を庇いながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 

「……セレス」

 

 俺は努めて穏やかな声を出した。

 彼女の肩にそっと手を伸ばす。

 だが俺の指先が白銀の甲冑に触れる寸前、彼女はビクッと体を強張らせた。

 

 まるで俺の手を拒絶するかのように、彼女はさらに体を丸め込んでしまった。

 空中に浮いたままの俺の手は、行き場を失ってピタリと止まる。

 

「……少し離れて警戒しておく。お前はゆっくり休め」

 

 俺はこれ以上無理に話しかけるのをやめた。

 今の彼女には何の手出しもできない。俺の言葉が彼女の耳に届いていない以上、距離を置くしかなかった。

 

 俺は重い体を持ち上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女に背を向け、数歩だけ離れた岩陰へと歩いていく。

 

 崩れ落ちた巨大な石柱の影に腰を下ろし、俺は深く長いため息をついた。

 ナノマシンの出力を索敵モードに切り替える。

 

探知(サーチ)】のレーダーが網膜に展開された。

 周囲に敵の反応はない。この広大な空洞は、今は完全に安全なシェルターとなっていた。

 

 俺は壁に後頭部を預け、目を閉じた。

 暗闇の中で、再びフェイルの顔が浮かび上がる。

 

 あのひどく悲しげな、憐れむような黒い瞳。

 

(ふざけるな)

 

 俺は心の中で毒づいた。

 俺は狂ってなどいない。俺の心は正常だ。

 魂がボロボロだなんて、そんな文学的な表現で俺の覚悟を否定されてたまるか。

 

 パタパタ。

 

 不意に、軽い足音が聞こえた。

 俺がゆっくりと目を開けると、すぐ目の前に薄緑色のチュニックが揺れていた。

 岩陰からひょっこりと顔を出したのはネアだった。

 

 彼女の紫色の瞳が、俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。

 フェイルが消えたことで、隠れ場所から出てきたのだろう。

 

「ソースケ、大丈夫?」

 

 ネアの小さな声が俺の耳に届く。

 その声には純粋な気遣いが溢れていた。

 俺の心の中に渦巻いていた黒い靄が、彼女の顔を見た瞬間に少しだけ晴れるような気がした。

 

「ああ、平気だ。大した怪我じゃない」

 

 俺は無理に口角を上げ、笑って見せた。

 本当は全身が痛くてたまらない。だが彼女に心配をかけたくなかった。

 

 ネアは俺の隣にちょこんと座り込み、俺の顔をじっと見つめた。

 その無邪気な表情を見ていると、俺の中にあった苛立ちが自然と口をついて出ていた。

 

「あいつ、変なこと言うよな」

 

 俺は先ほどのフェイルの言葉を思い出しながら、小さくこぼした。

 誰かに同意してほしかったのだ。

 俺が狂っていないということを、俺の心が壊れてなどいないということを、誰かに肯定してほしかった。

 

「俺が限界だとか、心がボロボロだとか。意味が分からないぜ」

 

 俺はため息混じりに愚痴をこぼした。

 ネアは小首を傾げ、紫色の瞳を瞬かせた。

 そして彼女はいつものように、屈託のない明るい笑顔を浮かべたのだ。

 

「うん、変なお兄さんだね! ソースケはどこもおかしくないよ!」

 

 ネアの言葉は、曇り空から差し込む一筋の光のようだった。

 俺の心にスッと染み込んでくる。

 

 そうだ。俺はどこもおかしくない。

 彼女だけは分かってくれている。俺が正気であり、仲間を守るために必死に戦っているということを。

 俺のやり方が少し不器用なだけで、俺の魂はちっとも摩耗してなどいないのだ。

 

「……そうだよな。お前がそう言ってくれると助かるよ」

 

 俺は心底安堵した。

 張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 

 フェイルの言葉なんて、ただの戯言だ。

 俺は自分の信じる道を、自分の戦い方で進んでいけばいいのだ。

 

「さあ、いつまでもこんな所に座ってられないな。セレスが落ち着いたら出発だ」

 

 俺は気を取り直し、立ち上がろうとした。

 だが筋肉の断裂が激しく、足に力が入らない。

 よろめきそうになった俺に向かって、ネアが小さな両手を差し出してくれた。

 

「ソースケ、私が引っ張ってあげる!」

 

 ネアが元気な声で言う。

 俺は苦笑しながら、彼女の差し出したその手を取った。

 

 俺のゴツゴツとした手が、彼女の小さな手を包み込む。

 柔らかな感触があった。

 

 彼女の指先の微かな温もりが、俺の手のひらを通じて確かに伝わってくる。

 俺は少しだけ力を込め、彼女に引かれるようにして立ち上がった。

 

 俺の体重を支えるには彼女は小さすぎるはずだが、俺の体は不思議とすんなりと持ち上がった。

 ナノマシンの修復がちょうど間に合ったのだろう。

 

(なにが限界だ)

 

 俺はネアの手を握ったまま、心の中で強く呟いた。

 セレスの態度がおかしいのは俺の無茶のせいだ。

 フェイルの言葉はただの嫌がらせだ。

 

 俺の隣にはこうしてネアがいる。

 この温もりが嘘のはずがない。

 俺は彼女の存在を確かめるように、もう一度その手を軽く握り直した。

 

 だが。

 俺の心の中に落ちた一滴の黒いインク。

 それが、もう誤魔化しがきかないほどに広がり始めていることに、俺は気づかないふりをすることができなかった。

 

 俺はネアの手を離し、視線を遠くへ向けた。

 そこには依然として、地面にうずくまったままのセレスの姿がある。

 

 遠く離れたこの場所からでも、彼女が泣いているのが分かった。

 兜の下から漏れ出る、押し殺したような嗚咽。

 それは魔力枯渇の苦しみによるものだけではない。もっと深く、もっと絶望的な悲しみに満ちた泣き声だった。

 

 俺の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように嫌な音を立てた。

 

 俺は腰に下げた銀のペンダントに触れた。

 リリアーナの魂が宿るその装飾は、まるで氷のように冷たかった。

 

 普段なら俺の頭の中に直接響いてくる彼女の上品な声は、一切聞こえてこない。

 魔力の脈動すらもひどく弱々しい。

 まるで彼女自身が、現実から目を背けるように深く塞ぎ込んでしまっているかのようだった。

 沈痛な気配。

 俺が声をかけても、彼女は決して答えようとはしないだろう。

 

 ネアの明るい笑顔。

 セレスの悲痛な嗚咽。

 リリアの重い沈黙。

 

 俺を取り巻く世界が、完全に割れてしまっているような感覚だった。

 俺が見ている世界と、彼女たちが感じている世界。

 

 その間に引かれた境界線が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。

 

 俺は必死に正気を保とうと、自分の太ももを強く抓った。

 ナノマシンの痛覚抑制を貫通して、確かな痛みが走る。

 

 俺は生きている。俺は狂っていない。

 

 だが俺の現実は、あの黒いインクの染みによって静かに、だが確実に侵食され始めていた。

 冷たい洞窟の暗闇が、俺の足元を這い上がってくるような気がした。

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