異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
幻影の壁を通り抜けた先は、蒼介の予想を遥かに超えた異質な空間だった。
ひやりとした、それでいて清浄な空気が肌を撫でる。大迷宮の洞窟内に常に漂っていた湿気と土の匂いはなく、代わりに微かに甘い、芳香のようなものが鼻孔をくすぐった。周囲は完全な闇ではなく、壁や天井を構成する岩盤そのものが、星空のように淡い青白い光を放っている。まるで天然のプラネタリウムに迷い込んだかのようだ。
通路は一本道で、幅は三メートルほど。床も壁も天井も、まるで磨き上げられたかのように滑らかで、自然に形成されたものとは到底思えなかった。
(……なんだ、ここは)
【
ナイフを握る手に力を込め、一歩、また一歩と慎重に足を進める。コツ、コツ、と彼のブーツの音だけが、静寂の中に響き渡った。
五分ほど歩いただろうか。最初のそれは、何の前触れもなく現れた。
蒼介が足元の床に、僅かな色の違いがあることに気づいた、まさにその瞬間。その床板が、音もなく消失したのだ。
「うおっ!?」
咄嗟に後方へ飛び退く。眼下には、底の見えない暗闇が口を開けていた。落とし穴。あまりにも古典的だが、その作動音の無さと、寸分の狂いもない精密さは脅威だった。もし気づかずに踏み込んでいれば、今頃彼は奈落の底だっただろう。
(危ねえ……。【
冷や汗が背筋を伝う。彼は改めて【
(本気で殺しにきてやがる。一体、この先に何を隠しているんだ)
だが、絶望的な状況であると同時に、蒼介は奇妙な高揚感を覚えていた。
次の罠は、通路の左右の壁から無数の槍が飛び出してくるというものだった。床に仕掛けられた感圧式のスイッチを踏むことで作動する仕組みだ。
蒼介は【
彼は腰のポーチから小石を一つ取り出し、スイッチに向かって下手で放った。床に当たったカツン、と軽い音が響かせ転がった小石がスイッチを踏む。
瞬間、凄まじい轟音と共に、鉄の槍が嵐のように通路を薙ぎ払った。槍衾は数秒間続き、やがて動きを止める。
蒼介は無傷のまま、静かになった通路を悠々と歩き始めた。
(……誰が造ったか知らねーが、大したもんだ)
その後も、彼は次々と現れる罠を、冷静沈着に、そして時には大胆な発想で突破していく。
振り子式の大鎌は、支点となる部分にナイフを投げつけて動きを阻害し、その隙に駆け抜ける。天井から降り注ぐ毒液は、革袋の水を勢いよく撒くことで軌道を逸らし、安全な場所を確保する。
それは、まるで高度なパズルを解いていくかのような、緊張と興奮に満ちた作業だった。一つ一つの罠を解除するたびに、蒼介は己の知識とスキルへの自信を深めていった。
どれほどの時間が経過しただろうか。
長く続いた罠地帯を抜けた先で、蒼介は思わず息を呑んだ。
目の前に現れたのは、ドーム状の空間だった。大きさは、学校の教室ほどあるだろうか。壁や天井は通路と同じく淡い光を放つ鉱物で覆われ、空間全体を幻想的な光で満たしている。
そして、その中央。
数段の階段の上、黒曜石を思わせる漆黒の台座が一つだけぽつんと置かれ、その上に、ある物が安置されていた。
「……ペンダント?」
それは、一つのペンダントだった。
白銀の繊細な鎖に繋がれた、蒼い宝石。宝石はまるで、深海の水をそのまま固めたかのような、吸い込まれそうなほどの透明度と輝きを放っていた。周囲の光を反射し、きらきらと無数の光の粒を撒き散らしている。
それは、ただの装飾品ではなかった。
ひと目でわかる。このペンダントは、膨大な力を秘めたアイテムだ。これまで幾重にも仕掛けられていた殺意に満ちた罠は、すべてこれを守るために存在していたのだと、蒼介は直感した。
古びてはいるが、気品を失わないその佇まいは、まるで小さな霊廟のようだった。誰かが、何かを、永い時間、大切に守り続けてきた。そんな厳かな空気が、この場所には満ちていた。
蒼介はゆっくりと階段を上り、台座の前で足を止める。
ペンダントに手を伸ばす。
罠はない。彼の【
指先が、冷たい宝石に触れた。その瞬間だった。
『――わたくしの眠りを妨げる無礼者は、どこのどなたですの?』
凛とした、透き通るような女性の声が、頭の中に直接響き渡った。
それは耳で聞いた音ではない。脳に直接語りかけられたかのような、不思議な感覚だった。
「なっ……!?」
驚き、思わず後ずさる。誰だ、どこにいる。周囲を見渡すが、この空間にいるのは自分一人のはずだ。
次の瞬間、蒼介は目の前の光景に、完全に言葉を失った。
彼が触れたペンダントから、淡い光が溢れ出す。光は徐々に人の形をとり、やがて、一人の少女の姿となってその場に現れた。
腰まで届く、月光を溶かし込んだかのような美しい銀の髪。夜の湖面を思わせる、深く澄んだ碧い瞳。肌は陶器のように白く、その身体は半透明で、向こう側の景色が透けて見えている。幻影、あるいは幽霊の類か。
歳は、十六、七といったところだろうか。気品のある顔立ちは、彼女が高い身分の生まれであることを窺わせた。彼女はゆったりとした豪奢なドレスを身に纏い、その姿はまるで、物語に出てくるお姫様のようだった。
少女の幻影は、ゆっくりと宙に浮いたまま、驚愕に目を見開く蒼介を、値踏みするようにじっと見つめている。
「……あなた、ですの? わたくしを起こしたのは」
少女はこてり、と首を傾げた。その仕草は愛らしいが、その瞳には警戒と、そして永い孤独の色が滲んでいた。
蒼介は混乱する頭で、必死に状況を整理しようと試みる。ペンダントに触れたら、幽霊が出てきた。あまりにも非現実的な状況だ。
「……あんたは、誰だ」
なんとか、それだけを絞り出す。
すると、少女はふわりと優雅に一礼し、スカートの裾を軽くつまんでみせた。その立ち居振る舞いは、完璧に洗練されている。
「わたくしの名は、リリアーナ・エル・アルストロメリア。五百年前に滅びた魔法王国アルストロメリアの……最後の王女、ですわ」
リリアーナ。アルストロメリア。
その言葉の響きは、蒼介にとって何の意味も持たなかった。だが、五百年前、という途方もない時間の長さに、彼は眩暈すら覚えた。
異世界に迷い込んだ孤独な元シーカーと、五百年もの間、独り眠りについていた亡国の王女。
二つの孤独な魂が、この忘れ去られた霊廟で、今、静かに出会った。
彼らの、そして世界の運命を大きく揺るがすことになる、奇妙な物語の歯車が、ゆっくりと回り始めた瞬間だった。