異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第140話 歪む世界

 フェイルの残した言葉。

 暗闇に溶ける直前に彼が向けた、ひどく悲しげで憐れむようなあの視線。

 そして骨の杖を振るっていた魔術師の、俺を狂人呼ばわりした嘲笑。

 

 それらが喉の奥に深く刺さった小骨のように、俺の神経を執拗に苛立たせていた。

 

 大迷宮第七十六層。

 巨人の洞穴と呼ばれるこの下層エリアは、進めば進むほどその狂ったスケール感を増していくようだった。

 

 見上げる天井の高さはもはや暗黒に飲まれて計測すらできず、俺たちが歩いている岩の通路は、それ自体が巨大な山脈の尾根であるかのように広大だった。

 どこからか吹き込んでくる冷たい風が、岩壁の無数の亀裂を通り抜けるたびに、獣の唸り声のような不気味な反響音を立てている。

 

 俺は足元の巨大な石の破片を無造作に蹴り飛ばした。

 乾いた音が広大な空間に虚しく響き渡る。

 

 魔術師の腐食魔法を受けた左肩はナノマシンの修復で塞がったものの、まだ引き攣るような痛みが残っている。

 呪いの炎を無理やり纏わせた右腕も、皮膚の下で神経が焼け焦げたような鈍い熱を帯びたままだった。

 だが俺の意志はちっとも摩耗してなどいない。

 

 仲間を守るという目的のために、俺はどんな無茶だってやってのける。

 それが俺の戦い方だ。誰にも文句を言われる筋合いはない。

 

 俺は少し荒くなった呼吸を整えながら、隣を歩く小さな影に視線を向けた。

 薄緑色のチュニックを着たネアが、俺の歩幅に合わせるようにして小走りでついてきている。

 

 発光ゴケの淡い青緑色の光が、彼女の紫色の瞳をキラキラと輝かせていた。

 セレスは俺たちから十メートルほど後方を、重い足取りで無言のまま歩いている。

 

 彼女が極度の魔力枯渇から回復しきっていないことは分かっていた。

 だからこそ俺は前衛として索敵に集中し、少しでも安全なルートを選ばなければならないのだ。

 

 俺は歩きながら、ネアの小さな右手を自分の左手でそっと握った。

 柔らかな感触があった。

 彼女の指先から伝わってくる微かな体温が、俺の冷え切った手のひらをじんわりと温めてくれる。

 

 俺はその温もりを確かめるように、少しだけ強く彼女の手を握りしめた。

 するとネアは立ち止まり、小首を傾げて俺の顔を見上げた。

 

「ソースケ、手、ギュってしすぎ。痛いよ」

 

 彼女は困ったように眉を下げて、ふふっと小さく笑った。

 その声はいつも通りの無邪気な響きを持っていた。

 俺はハッとして手の力を緩め、バツが悪そうに視線を逸らした。

 

「悪い。少し力が入っちまった」

 

 俺が謝ると、ネアは気にしないように俺の手を優しく握り返してくれた。

 その確かな感触に、俺の胸の奥で渦巻いていた黒い不安がスッと溶けていくのを感じた。

 

(やっぱりあいつらの言うことは戯言だ。俺はどこもおかしくない)

 

 俺は自分に強く言い聞かせた。

 極限の疲労と緊張が続いているせいで、少し感覚がバグっているだけなのだ。

 

 フェイルの言葉も魔術師の言葉も、俺の精神を揺さぶるためのただの盤外戦術に過ぎない。

 この温もりが幻であるはずがない。

 彼女の笑顔が嘘であるはずがない。

 

 俺はネアと手を繋いだまま、再び前を向いて歩き出した。

 だがその時だった。

 

 ピィィィンッ。

 

 俺の右目の網膜に投影されているナノマシンのインターフェースに、細い警告音が鳴り響いた。

 視界の隅に、見慣れない赤い文字のログがチカチカと点滅を始めたのだ。

 

【警告:脳内物質の異常分泌を検知】

【推奨:直ちに休息を取り、精神の安定を図ってください】

 

 俺は歩みを止めず、その赤い警告文を冷めた目で見つめた。

 脳内物質の異常分泌。機械的で無機質なシステムからの宣告。

 

(馬鹿な。ナノマシンまでイカれちまったのか)

 

 俺は舌打ちをした。

 大迷宮の下層は、地上とは比較にならないほどの高濃度の魔力で満たされているという。

 おそらくその強烈な環境魔力が、俺の体内のナノマシンに何らかの電磁的な干渉を引き起こしているのだろう。

 センサーの誤作動だ。それ以外に考えられない。

 俺は意図的にコマンドを叩き込み、その忌々しい赤いアラートをミュートして視界の端へと追いやった。

 

 警告音は鳴り止み、視界は再びクリアな暗闇へと戻る。

 俺の精神は正常だ。俺が見ているこの世界こそが絶対の現実だ。

 機械の吐き出すエラーログなどに、俺の意志が揺るがされることなどあってはならない。

 

 俺はネアの手を離し、腰のサバイバルナイフの柄に手を添えて警戒を強めた。

 しばらく巨大な回廊を進んでいくと、急に空気の流れが変わったのを感じた。

 

 カビと土の匂いが強くなり、地面の岩盤がひどく荒れ果てている。

 無数の巨大なすり鉢状のクレーターが、通路のあちこちに口を開けていた。

 

 俺はナノマシンの【探知(サーチ)】の出力を上げ、周囲の空間を精密にスキャンした。

 直後、五十メートル先の巨大なクレーターの底から、強烈な生命反応がレーダーに飛び込んできた。

 

「止まれ。前方から何か来るぞ」

 

 俺が低く鋭い声で警告を発する。

 背後でセレスが弾かれたように立ち止まり、白銀の槍を構える衣擦れの音が響いた。

 ネアも俺のすぐ隣で身を屈め、岩陰に隠れるようにして息を潜める。

 

 ゴゴゴゴゴ……という重い地鳴りが、足の裏から伝わってきた。

 クレーターの縁の岩盤が内側から突き破られ、凄まじい土煙と共に『それ』が姿を現した。

 

 全長二十メートルは下らないであろう、巨大な百足だった。

 だがただの虫ではない。その無数の節からなる外殻は、すべてが迷宮の硬い岩石で構成されていた。

 

『ロック・センチピード』。

 岩に擬態し、獲物が近づいた瞬間に地中から奇襲をかける下層の凶悪な魔物だ。

 

 まるでかつて倒した十層の主・大鎧百足のようなそいつは、鎌のように鋭い無数の足で地面を抉りながら、その醜悪な頭部を鎌首のように高く持ち上げた。

 巨大な顎がギチギチと不快な音を立ててすり合わされている。

 そして触覚を激しく揺らし、俺たちの存在を正確に捉えてこちらに向き直った。

 

(デカい。だが動きは直線的だ)

 

 俺は瞬時に敵の戦力を分析し、頭の中で作戦を組み立てた。

 

 あの分厚い岩の装甲を正面からぶち抜くのは、俺のナイフでは骨が折れる。

 魔力枯渇気味のセレスに、いきなり高火力の魔法を撃たせるわけにもいかない。

 ならば俺が囮になり、ネアの魔法を起点にして隙を作るのが最善だ。

 

 俺は隣に潜むネアに向かって、声を張り上げることなく視線だけで合図を送るつもりで顔を向けた。

 彼女は俺の意図を察したように、力強く頷いて見せた。

 

 作戦は完璧だ。

 俺が正面から飛び出して敵の注意を引く。

 その直後、ネアが俺の認識を阻害し、敵の右側に俺の幻影を作り出す。

 百足が幻影に気を取られて右に首を振った瞬間、俺が左側面に回り込み、装甲の継ぎ目である関節部分にナイフを叩き込む。

 動きが止まったところに、セレスが雷の魔法でトドメを刺す。

 

 流れるような完璧な連携。今まで何度もこの戦術で格上を屠ってきたのだ。

 今回も絶対に上手くいく。

 俺はナイフを逆手に構え、地面を爆発的に蹴り上げた。

 

「行くぞッ!」

 

 俺は黒い弾丸となって、巨大な百足の真正面へと飛び出した。

 俺の接近に気づいた百足が、怒り狂ったように巨大な顎を広げて突進してくる。

 岩石の巨体が迫り来る圧力は、ダンプカーがノーブレーキで突っ込んでくるような圧倒的な暴力だった。

 距離が急速に縮まる。

 三十メートル、二十メートル。

 ここだ。

 俺は走りながら、虚空に向かって鋭く叫んだ。

 

「ネア、今だ! 右に逸らせ!」

 

 俺は彼女の暗示魔法が発動したと完全に信じ込み、自分自身の体を大きく左へと跳ねさせた。

 俺の姿は百足の視界から消え、代わりに右側に幻影が現れるはずだ。

 百足は必ず右に首を振る。

 その隙に俺は左側面に張り付き、剥き出しになった装甲の隙間を切り裂く。

 

 だが。

 俺の予想は、恐ろしいほどに完全に裏切られた。

 巨大な百足は、右側など微塵も見向きもしなかったのだ。

 

 俺が左に飛んだその軌道を、百足の凶悪な複眼は寸分の狂いもなく正確に追尾していた。

 幻影など最初から存在しないかのように。

 俺の認識阻害など全く掛かっていないかのように。

 百足は巨体をうねらせながら急激に軌道を変え、空中にいる俺の体をその巨大な顎で真っ二つに噛み砕こうと襲いかかってきた。

 

(なっ……!?)

 

 俺の心臓が氷結したように止まった。

 なぜだ。なぜ釣られない。

 ネアの魔法が失敗したのか。それともこいつには精神干渉が効かないのか。

 

 思考している暇などコンマ一秒もなかった。

 迫り来る巨大な岩の顎が、俺の視界を完全に黒く覆い尽くそうとしている。

 空中で回避行動を取るための足場はない。

 このままでは確実に喰われる。

 俺は咄嗟に、体内のナノマシンにアクセスし、安全装置を強制的に解除した。

 

「おおおおおッ!」

 

迅速(ブースト)】のオーバードライブ。

 心臓が破裂しそうなほどの勢いで血液を全身に送り出す。

 

 俺は空中で無理やり体を捻り、迫り来る百足の顎の側面に両足を叩きつけた。

 その反動を利用して、弾き飛ばされるように後方へと跳躍する。

 

 ガキンッ! という凄まじい音が響き、百足の顎が俺の鼻先数ミリの空中で虚しく噛み合わされた。

 岩石同士が激突した火花が、俺の頬を熱く撫でる。

 間一髪だった。

 

 だが限界を超えた【迅速(ブースト)】の乱用は、俺の肉体に容赦のない負荷を強いた。

 両足の筋肉がブチブチと悲鳴を上げて断裂し、着地の衝撃を殺しきれずに岩盤の上を無様に転がった。

 

「ぐっ……かはっ……!」

 

 肺から空気が強制的に押し出され、口の中に血の味が広がる。

 俺が体勢を立て直すよりも早く、百足はすぐさま俺を標的に定め、巨体を持ち上げてのしかかろうとしてきた。

 圧倒的な死の影が俺を覆い尽くす。

 万事休すかと思った、その瞬間だった。

 

「穿てェッ!!」

 

 背後から、空気を切り裂くようなセレスの絶叫が響いた。

 眩い紫電の光が空洞を照らし出し、一本の光の槍が百足の横腹に深々と突き刺さった。

 

 魔力枯渇で苦しんでいたはずのセレスが、自らの命を削るようにして放った渾身の雷魔法だった。

 バリバリバリッ! という轟音と共に、雷のエネルギーが百足の岩の装甲を内側から破壊する。

 

「ギイイィィィィッ!」

 

 百足が鼓膜を破るような断末魔の悲鳴を上げ、巨体を激しくのたうち回らせた。

 装甲の隙間から青白い雷光が吹き出し、岩石の破片が四方八方に飛び散る。

 

 やがて百足はその動きを完全に止め、ドスーンと地響きを立てて岩盤に倒れ伏した。

 土煙が舞い上がり、周囲に焦げた岩の匂いが立ち込める。

 俺は地面に這いつくばったまま、荒い息を吐き出しながらその光景を見つめていた。

 

(助かった……)

 

 セレスのフォローがなければ、俺は間違いなくあの顎に噛み砕かれていた。

 綱渡りもいいところだ。俺の作戦は完全に崩壊していたのだ。

 

 俺は痛む足に鞭打ち、よろけながらもゆっくりと立ち上がった。

 

 何がいけなかったんだ。

 俺の指示のタイミングが悪かったのか。

 それともネアが恐怖で魔法の発動を躊躇ってしまったのか。

 

 俺は苛立ちを隠せないまま、乱れた息を整えて背後を振り返った。

 

「ネア! さっきのはタイミングが遅かったぞ!」

 

 俺は少し声を荒らげて叱責した。

 いくら彼女が守られるべき存在だとしても、戦闘中のミスは命取りになる。

 ここで甘やかしては彼女のためにもならない。俺はそう本気で思っていた。

 

「あんなに引きつけたら、俺が躱しきれない。もっと早く幻影を出してくれなきゃ困るぜ」

 

 俺の厳しい声が、静まり返った広大な洞窟にこだました。

 だが。

 俺のその言葉を聞いた直後。

 

 少し離れた場所で槍を構えたまま肩で息をしていたセレスが、ビクッと激しく体を震わせた。

 俺は不思議に思って彼女の方に視線を向けた。

 彼女は白銀の槍を取り落とし、ガシャリと音を立ててそれを地面に転がした。

 

 兜の下の顔面から、みるみるうちに血の気が引いていくのが遠目にも分かった。

 彼女の青い瞳が、信じられないものを見るように、あるいは取り返しのつかない絶望的な光景を目の当たりにしたように、激しく揺れ動いていた。

 

 そして彼女は、両手で自分の口元を覆い、今にも泣き出しそうな、ひどく歪んだ顔で俺を見つめたのだ。

 俺は完全に面食らってしまった。

 どうして彼女がそんな顔をするんだ。

 

 俺はネアのミスを注意しただけだ。作戦の修正をするのはパーティとして当たり前のことじゃないか。

 別にセレスを責めているわけではない。彼女のフォローには心から感謝している。

 

 それなのに、なぜ彼女は俺が恐ろしい化け物にでも成り果ててしまったかのように、怯えと悲しみの入り混じった瞳で俺を見ているのだ。

 

「なんだよ、セレス。そんな怖い顔をするな」

 

 俺は困惑を隠しきれず、努めて軽い調子で声をかけた。

 

「お前の援護は完璧だった。助かったよ、ありがとうな。でも次はもっと上手くやる。俺とネアの連携がもう少し……」

 

 俺が言葉を続けようとした瞬間、セレスが力なく横に首を振った。

 ポロリと、大粒の涙が彼女の頬を伝って落ちた。

 彼女は俺から視線を逸らし、うつむいてしまった。

 

 俺は自分が何か決定的な言葉選びのミスをしたのかと思い、頭を掻いた。

 

(魔力枯渇で情緒が不安定になっているんだな)

 

 俺はそう結論づけるしかなかった。

 セレスの視線の意味を、俺はまだ理解しようとしていなかった。

 

 ナノマシンのエラーログはミュートしたままだった。

 

 広大な洞窟の冷たい風が、俺たちの間に開いた致命的な断絶を撫でていく。

 俺は倒れた百足の死骸に歩み寄りながら、心の中に広がる薄気味悪い違和感を、ただの疲労のせいだと強引に切り捨てていた。

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