異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
巨大な岩の顎を持つ百足の魔物、ロック・センチピードを辛くも退けた俺たちは、大迷宮第七十六層の広大な空間をさらに奥へと進んでいた。
どこまでも続く岩盤の荒野。
見上げるような天井の暗闇からは、時折、何かの魔物が岩を削るような鈍い音が降ってくる。だが、ナノマシンの【
ナノマシンの自己修復機能が全力で稼働し、オーバードライブで引き裂かれた両足の筋繊維を繋ぎ合わせている。
歩くたびに太ももとふくらはぎに焼け火箸を押し当てられたような激痛が走ったが、俺は顔に出さないようにして前へ進んだ。
セレスは魔力枯渇の反動に耐えながら、無言で俺の背中を追ってきている。彼女の足取りは鉛のように重く、白銀の甲冑が擦れる音だけが一定のリズムを刻んでいた。
俺のすぐ隣では、ネアが薄緑色のチュニックの裾を揺らし、時折俺の顔を覗き込んでは心配そうに紫色の瞳を揺らしていた。
彼女の存在だけが、この冷たく無機質な巨大洞窟の中で、唯一の救いだった。
「この辺りで野営にするか。これ以上進んでも、まともな足場があるか分からない」
巨大な石柱が幾重にも倒れ込み、ドーム状の天然のシェルターを形成している場所を見つけ、俺はそう提案した。
入り口は狭く、中に入れば大型の魔物は物理的に侵入できない。俺の【
セレスは無言のまま短く頷き、重いリュックを地面に下ろした。
彼女はそのまま入り口近くの岩に腰を下ろし、白銀の槍を膝に置いて外の暗闇を睨みつけた。
「私が見張りをする。お前は先に休め」
掠れた声だったが、その響きには有無を言わせぬ頑なさがあった。
今の彼女は疲労の極致にある。本来なら俺が見張りを代わるべきなのだが、下手に休めと言っても今の彼女は意固地になって聞かないだろう。フェイルの言葉や、俺の戦闘中の連携のズレなどで、彼女の精神はひどくささくれ立っている。
「……分かった。無理はするなよ」
俺は短く返し、シェルターの奥で野営の準備を始めた。
携帯用の魔導コンロを岩の上に置き、魔力石をセットして火を灯す。
ぼんやりとした青白い炎が立ち上がり、冷え切っていた岩穴の中の空気を少しだけ温めてくれた。
周囲に転がっている手頃な岩を集めてコンロを囲み、簡易的な焚き火の形を整える。
冷たい石の床に断熱用のシートを敷き、俺はどさりとその上に座り込んだ。
途端に、全身の筋肉が抗議の声を上げるように鈍く痛み出した。
俺は小さく息を吐き出し、痛む足をゆっくりと伸ばした。
「ソースケ、お疲れ様!」
焚き火の反対側から、ネアが明るい声をかけてくれた。
彼女はシートの上にちょこんと座り、両手をコンロの青白い炎にかざしている。
発光ゴケの光とは違う、炎の温かい光が彼女の顔を照らし出し、頬をほんのりと赤く染めていた。
俺は彼女の屈託のない笑顔を見て、ようやく肩の力を抜くことができた。
「お疲れ、ネア。お前も歩き詰めで疲れただろ。足、痛くないか?」
俺が尋ねると、彼女はぶんぶんと横に首を振った。
「ぜんぜん平気だよ! ソースケが守ってくれてるから、私、ちっとも怖くないもん」
えへへ、とはにかむように笑うその姿は、大迷宮の深層にいることを忘れさせるほど無邪気だった。
俺は腰のポーチから水筒を取り出し、自分の喉を潤した。
冷たい水が干からびた食道を通って胃に落ちていく。生き返るような感覚だった。
「ソースケ、私ね、人間の街のお洋服、すごく気に入っちゃった」
ネアが自分の着ている薄緑色のチュニックの袖を引っ張りながら、嬉しそうに口を開いた。
魔人族の隠れ里から出てきたばかりの彼女にとって、人間の街の文化は何もかもが新鮮で輝いて見えたのだろう。
服屋のショーウィンドウに張り付いて、目をキラキラさせていた彼女の姿を思い出す。
「そうか。よく似合ってるよ。お前の髪の色にも合ってるしな」
俺が素直に褒めると、ネアは「えへへぇ」と頬を押さえて照れた。
「また一緒に行こうね、人間の街。私、もっといろんな服を見てみたいし、あの時に食べたやつも、もう一回食べたいな」
「ああ、約束だ。今度はもっと美味いもん食わせてやるよ。服だって何着でも買ってやる」
俺は笑いながら答えた。
他愛ない会話。
俺とネアだけの、穏やかな時間。
洞窟の冷たい風の音も、セレスが発している重苦しい気配も、この焚き火の周りだけは立ち入ることができないように感じられた。
俺はコンロの火力を少し上げようと、魔力石のダイヤルを回した。
パチッ。
不意に、コンロの炎から小さな火の粉が弾け飛んだ。
魔力石に微小な不純物が混ざっていたのだろう。
赤く燃える小さな火の粉は、放物線を描いて焚き火の反対側へ飛び――ネアの華奢な右腕に、ポトリと落ちた。
俺はハッとして身を乗り出した。
「ネア、大丈夫か!」
普通の人間なら、間違いなく「熱っ」と声を上げて飛び退くような熱量だ。チュニックの生地を焦がし、肌を焼くほどの火の粉。
だが。
ネアは全く気づいていないように、ニコニコと笑い続けていた。
「え? どうしたの、ソースケ?」
彼女は首を傾げ、俺の慌てた様子を不思議そうに見つめている。
彼女の右腕に落ちたはずの火の粉は、すでにどこにもなかった。
チュニックの生地に焦げ跡一つ残っていない。
彼女の肌にも、火傷の痕すらない。
俺は空中で手を止めたまま、瞬きをした。
(……気のせいか?)
いや、確かに火の粉は飛んだ。そして彼女の腕に落ちたはずだ。
なぜ彼女は熱がらない? なぜ服が焦げていない?
俺の思考が一瞬フリーズし、そして、即座に都合の良い理屈を引っ張り出してきた。
(そうか。魔人族だからだ)
魔人族は人間とは違う。魔法の扱いに長け、属性に対する耐性も人間とは比較にならない。
五十層の怪鳥や七十層の不死鳥が放つ呪いの黒炎ならともかく、魔導コンロの些細な火の粉程度の熱量なら、彼女の魔力障壁が自動的に防いでくれたか、あるいは種族的な耐性で無効化したのだろう。
そうだ、そういうことに違いない。
俺は胸を撫で下ろし、無理に口角を上げた。
「いや、なんでもない。火の粉が飛んだから、火傷しなかったかと思ってな」
「ううん、全然熱くないよ! ソースケは心配性だね」
ネアは楽しそうにクスクスと笑った。
俺は大きく息を吐き出し、手に持っていた水筒を彼女に向けて差し出した。
「ほら、お前も水飲んでおけ。ずっと歩きっぱなしで喉が渇いただろ」
「うんっ! ありがとう、ソースケ!」
ネアは嬉しそうに両手を伸ばし、俺から金属製の水筒を受け取った。
俺の手から水筒が離れる。
彼女は水筒を両手でしっかりと持ち、キャップを開けて口元に運んだ。
ゴク、ゴク、と。
彼女が水を飲む仕草が、焚き火の光に照らし出されている。
彼女の細い喉が動いているのが見えた。
「ぷはーっ! 美味しい! 冷たくてすっごく気持ちいいよ!」
ネアは満足そうに口元を拭い、満面の笑みで俺に水筒を差し出してきた。
俺は「ゆっくり飲めばいいのに」と苦笑しながら、その水筒を受け取った。
俺の右手が、金属の冷たい表面に触れる。
その瞬間。
俺の全身の血液が、一気に凍りつくような感覚に襲われた。
受け取った水筒の『重さ』が。
俺が彼女に渡す前と、一ミリも、一グラムも、変わっていなかったのだ。
チャポッ、という水の揺れる音が、水筒の中から響いた。
俺は呆然としたまま、水筒のキャップを開けて中を覗き込んだ。
暗くてよく見えないが、微かに揺れる水面の位置は、俺が最後に飲んだ時から全く減っていない。
彼女はあんなに勢いよく「ゴク、ゴク」と飲んでいたのに。美味しそうに息を吐き出していたのに。
(……こぼしたのか? いや、そんなはずは……)
俺は激しく混乱した。
こぼしたなら、彼女の服やシートが濡れているはずだ。
だがどこにも水滴は落ちていない。
彼女が飲んだはずの水は、一体どこへ消えたというのだ。
いや、そもそも彼女は『飲んでいなかった』のではないか。
飲んだフリをしていただけ? なぜそんなことをする必要がある。
火の粉に反応しない肌。減らない水。
質量が消失している。
物理法則が、俺の目の前で完全に破綻している。
俺の心の中に落ちていた黒いインクの染みが、急速に広がり、俺の理性を塗り潰そうとしていた。
ナノマシンのインターフェースが、俺の脳波の異常を検知して、視界の隅で再び赤いアラートを激しく点滅させ始めた。
【警告:現実認識のエラーを検知】 【直ちに――】
俺は息を止めて、その水筒を握りしめたまま完全に固まってしまった。
思考が空回りし、どうやってこの異常を『論理的』に説明すればいいのか、必死に答えを探し求めた。
(魔法だ。これは何かの魔法なんだ。水を使わずに喉の渇きを潤す魔人族の秘術か何かに違いない)
強引な理屈が、頭の中を駆け巡る。
俺がそうやって無理やり自分を納得させようとしていた、まさにその時だった。
「……ソウスケ」
背後から、ひどく震える、絞り出すような声が聞こえた。
見張りをしていたはずのセレスだった。
俺がゆっくりと振り返ると、彼女は岩穴の入り口から数歩だけこちらへ歩み寄り、立ち尽くしていた。
青白い魔導コンロの炎に照らされた彼女の顔は、血の気が完全に失せ、まるで幽鬼のように蒼白だった。
彼女の青い瞳は、大きく見開かれたまま、俺を――正確には、俺が虚空に水筒を差し出し、そして再びそれを受け取った一連の動作を、恐怖に満ちた目で見つめていた。
「お前はさっきから、誰と話しているんだ?」
彼女の声は、かつてないほどに弱々しく、小刻みに震えていた。
何を馬鹿なことを聞くんだ。
俺は苛立った。
俺の隣にはネアがいる。
俺が彼女と話しているのを、ずっと後ろで聞いていただろうに。
俺は平然とした声で、彼女に向かって答えた。
「ネアとだよ。隣にいるだろ」
その瞬間。セレスの顔から、サッと血の気が引くのが分かった。
いや、血の気が引くという表現すら生ぬるい。彼女の魂そのものが、恐怖と絶望によって一瞬で凍結してしまったかのような、決定的な断絶の表情だった。
彼女の唇がワナワナと震え、信じられないものを見るように、俺を見つめた。
「…………なにを、言ってるのだ」
セレスの声は、微かな風の音にかき消されそうなくらいに細かった。
彼女は一歩、後ずさりをした。白銀の甲冑がカシャリと悲鳴のような音を立てる。
「冗談にしてはあまりにも質が悪いぞ……」
セレスは両腕で自分の体を抱きしめるようにして、力なく首を横に振った。
その目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「お前は……早く寝て、頭を冷やしたほうがいい」
絞り出すようにそう言うと、彼女は逃げるように背を向け、再び岩穴の入り口の暗闇へと戻っていってしまった。
その背中が、妙に小さく、そしてひどく脆く見えた。
彼女は岩に座り込み、両手で顔を覆って小さく肩を震わせ始めた。
押し殺したような嗚咽が、洞窟の壁に反響して俺の耳に届く。
俺は水筒を持ったまま、呆然とその背中を見つめていた。
なぜだ。
なぜ俺がネアと話しているだけで、あんなに絶望したような顔をするのだ。
なぜ俺が狂人でも見るような、恐ろしいものから逃げるような態度を取るのだ。
俺の隣には、確かにネアがいるじゃないか。
俺は苛立ちと不安に駆られながら、隣に座るネアの方へと顔を向けた。
「セレちゃん、どうしたんだろうね?」
ネアは心配そうに首を傾げ、俺の顔を見上げていた。
その無邪気な表情。
見慣れた紫色の瞳。
薄緑色のチュニック。
何も変わらない。俺の大切な仲間が、確かにそこにいる。
俺は「……疲れてるんだよ、あいつも」と答えようとした。
だが、その言葉は喉の奥でピタリと止まってしまった。
俺が彼女の姿をまじまじと見つめた、その一瞬。
ジジッ。
ネアの姿が、まるで古い映像にノイズが走ったように、微かにブレた気がしたのだ。
輪郭が曖昧になり、向こう側の岩壁の模様が透けて見えたような、致命的な視覚のバグ。
瞬きをした時には、彼女は再びはっきりとした姿で俺を見上げていた。
だが、俺の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、冷や汗が全身から噴き出していた。
今のはなんだ。
光の加減か? 俺の目の錯覚か?
それとも。
『心と魂の境界線が、もうボロボロだ』
フェイルの言葉が、再び頭の中で響き渡る。
俺は水筒を握る手に力を込めた。指の関節が白くなるほどに。
俺は狂っていない。俺は見間違えてなどいない。
これは現実だ。この温もりも、この声も、すべて俺がこの手で守り抜いてきた現実なのだ。
俺は視界の端で激しく明滅を続けるナノマシンの赤い警告アラートを、怒りに任せて手動で完全にシャットダウンした。
機械の言うことなど信じない。
セレスの態度がおかしいのは、ただの魔力枯渇による疲労だ。
俺はそうやって、崩れゆく境界線の縁に必死にしがみつきながら、深い深い自己欺瞞の闇の中へと、さらに一歩足を踏み入れていった。
青白いコンロの炎が、俺の影を、岩壁に大きく歪んだ形で映し出していた。