異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
大迷宮第七十九層。
この果てしない地下世界に潜ってから、俺たちの時間感覚はとうに狂い果てていた。
太陽の光など一切届かない暗黒の領域だ。発光ゴケの頼りない青緑色の光だけが、自分たちが辛うじて生きていることを教えてくれる。
歩を進めるたびに、ナノマシンが断裂した筋繊維を無理やり縫い合わせる嫌な感触が走る。
右腕と左肩の痛覚は、システム側で意図的に遮断していた。そうでもしなければ、まともに呼吸をすることすらできなかったからだ。
視界の端では、相変わらず赤いエラーログがチカチカと点滅を繰り返している。
脳内物質の異常。機械が勝手に弾き出すその不愉快な警告を、俺は何度も手動でミュートし、視界の隅へと追いやり続けていた。
(俺の頭は正常だ。イカれてるのはこの迷宮の方だ)
俺は奥歯を噛み締め、冷たい岩盤を踏みしめた。
俺の心の中に落ちた一滴の黒い染み。
水筒の質量が減っていなかったことや、セレスの恐れ戦くような視線。
それらの不可解な現象はすべて、下層の異常な魔力溜まりが引き起こす集団幻覚のようなものだと俺は強引に結論づけていた。
深く考えれば、足元が崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
目の前に広がる第七十九層の景色は、これまで歩んできた【巨人の洞穴】のスケールをさらに狂わせたような空間だった。
天井が見えない。
文字通り、上を見上げても完全な暗黒が広がっているだけで、岩肌の凹凸すら確認できないのだ。
まるで地下に裏返った夜空が存在しているかのような、途方もないスケールの空洞。
横幅も数百メートル、いや数キロに及んでいるかもしれない。
俺の右目に展開された【
広すぎるがゆえに、風もない。
足音すらも遠くへ吸い込まれて消えてしまうような、耳鳴りがするほどの静寂が支配していた。
「セレス、警戒を怠るな。上が全く見えないぞ」
俺は背後を歩く白銀の甲冑に向けて、低く声をかけた。
セレスは無言で頷き、両手で槍を強く握り直した。
彼女の顔色は相変わらず青白く、極限の疲労と何か別の重い感情に押し潰されそうに見えた。
俺の言葉に対して、彼女は必要最低限の反応しか返さなくなっている。
俺がネアに話しかけるたびに、彼女は怯えたように目を逸らし、耳を塞ぐような素振りを見せるのだ。
だから俺は、彼女が近くにいる時は意図的にネアと会話をするのを避けるようにしていた。
パーティ内の不和をこれ以上広げないための、俺なりの配慮だった。
だが俺のすぐ斜め前を歩くネアは、そんな張り詰めた空気などお構いなしに、軽い足取りで進んでいる。
彼女の紫色の瞳が、暗闇の中を好奇心に満ちて見回していた。
俺はその背中を見ているだけで、心の奥底が少しだけ温かくなるのを感じた。
(俺はまだ戦える)
そう自分に言い聞かせ、俺はサバイバルナイフの柄に指を掛けた。
その時だった。
ピィィィィンッ!
右目の網膜に投影された【
エラーの警告ではない。明確な巨大質量の接近を知らせる、純粋な敵対反応だ。
どこから来る。
俺は瞬時にレーダーの赤い光点を確認した。
前でも、横でもない。
それは、天井の果てしない暗闇の奥深くから、真っ直ぐに俺たちの頭上へと向かって落下してきていた。
「上だッ! 散開しろ!」
俺は喉が裂けるほどの声で叫び、ナイフを抜き放った。
反射的に体を右方向へと大きく跳躍させる。
俺の叫びに反応し、セレスも咄嗟に左方向へと身を翻した。
直後、俺たちがつい先ほどまで立っていた岩盤に、途方もない質量の塊が音もなく激突した。
ドッッッゴォォォォンッ!!!
落着の衝撃で、広大な洞窟全体が激しく揺れ動いた。
爆発でも起きたかのような凄まじい轟音と共に、強烈な暴風が全方位に向かって吹き荒れる。
俺は地面を転がりながらナイフを突き立て、強引に体を固定した。
舞い上がった土煙と石の破片が、俺の頬を容赦なく切り裂いていく。
風圧が収まり、もうもうと立ち込める粉塵の向こう側に、その巨大な影がゆっくりと立ち上がるのが見えた。
「嘘だろ……」
俺は息を呑み、目を見開いた。
暗がりの中から姿を現したのは、信じられないほど巨大な猛禽類だった。
翼を広げれば数十メートルは優にあるだろう。
全身を覆う羽毛は硬質な金属光沢を放つ漆黒。鋭く湾曲した巨大な嘴は、岩盤を豆腐のように容易く砕く威力を秘めている。
神話に語られる怪鳥『ロック鳥』。
そんなものが、この天井の見えない空洞を己の縄張りとして支配していたのだ。
「この迷宮作ったやつ鳥が好きすぎだろ!」
キィァァァァァァッ!!
怪鳥が耳をつんざくような甲高い鳴き声を上げた。
ただの鳴き声ではない。魔力を帯びた音波が鼓膜を直接揺らし、脳髄を痺れさせるような不快な衝撃だった。
怪鳥は巨大な黄色い眼球をギョロリと動かし、俺たちを明確な獲物としてロックオンした。
その視線の先にあるのは俺ではなかった。
先ほどの衝撃から立ち上がり、槍の穂先に雷の魔力を練り上げているセレスだった。
魔力に敏感な魔物特有の習性だ。最も強い魔力を放つ存在を、最大の脅威として真っ先に排除しようとしているのだ。
「セレスを狙ってる! クソッ!」
俺は舌打ちをし、ナノマシンの出力を一気に引き上げた。
怪鳥が巨大な翼を一度だけ羽ばたかせた。
それだけで局地的な台風のような突風が吹き荒れ、怪鳥の巨体が恐ろしいほどの速度でセレスへと向かって突進していく。
ダンプカー数台分にも及ぶ巨大な鉤爪が、彼女の華奢な体を一瞬で引き裂こうと迫る。
距離が離れすぎている。俺が今から走っても、彼女への直撃には間に合わない。
あの巨大な質量を正面から受ければ、いかにセレスの雷の障壁があろうと防ぎきれるものではない。
俺の思考は極限まで加速し、瞬時に最善の手を弾き出した。
俺の力では間に合わない。だが、魔法ならば届く。
「ネア! 音と光の暗示で怪鳥の気を引け!」
俺は戦闘の怒号に紛らせ、声の限りに叫んだ。
セレスの耳にも届いたはずだが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
怪鳥の認識を強制的に捻じ曲げ、矛先をセレスから逸らすしかない。
俺の指示に対し、少し離れた岩陰にいたネアが、薄緑色のチュニックを翻して飛び出してきた。
「わかった!」
彼女は元気な声で応え、セレスのいる方向とは全く逆の右側へと駆け出した。
そして両手を高く掲げ、派手な身振りで魔法を放つ動作をする。
彼女の紫色の瞳が強く光り、強力な精神干渉の波長が放たれるのを感じた。
強烈な閃光と、鼓膜を破るような爆発音が、怪鳥の右側から発生したかのように錯覚させる暗示魔法。
これでいい。
怪鳥の意識は強制的にネアの作り出した幻影へと向き、その隙に俺が側面からアンカーを撃ち込んで機動力を殺す。
完璧なフォローだ。俺はすでにアンカーショットの照準を合わせ、走る準備を整えていた。
だが。
俺の網膜に映る現実は、またしても無慈悲に俺の予想を粉砕した。
怪鳥は、ネアの方向など一切見向きもしなかった。
巨大な黄色い眼球はセレスだけを真っ直ぐに捉え続け、その恐るべき突進の軌道は一ミリたりともブレなかったのだ。
まるでネアの魔法が不発に終わったかのように。
(なっ……どうしてだ!)
俺の心臓が激しく跳ね上がった。
百足の時も、なぜか俺の動きだけを追尾してきた。
そして今度も、ネアの魔法は全く効果を発揮していない。
なぜだ。なぜ彼女の魔法が効かない。
俺の目には確かに彼女が両手を広げ、魔力を放出している姿が見えている。
光と音の暗示は、俺の頭の中にすら響いているというのに。
「ネア、もっと派手にやれ! 奴の視界を完全に奪え!」
俺は混乱の渦の中で、再び怒鳴り声を上げた。
ネアは焦ったように何度も両手を振りかざし、魔法を重ね掛けしようとしている。
だが、結果は同じだった。
怪鳥はネアなど存在しないかのように、一直線にセレスへと襲いかかったのだ。
「くっ……!」
セレスの悲痛な声が響いた。
彼女は槍を両手で水平に構え、全魔力を防御に回して青白い雷の障壁を展開した。
直後、怪鳥の巨大な鉤爪がその障壁に激突する。
ガギィィィィィンッ!!
金属が拉げるような凄まじい音が洞窟に反響した。
雷のスパークが四方八方に飛び散る。
セレスの障壁は持ち堪えたが、その圧倒的な運動エネルギーまでは殺しきれなかった。
彼女の体が浮き上がり、後方へと数十メートルも弾き飛ばされる。
「きゃああっ!」
セレスは岩盤の上を何度も転がり、甲冑を激しく打ち付けながら、ようやく巨大な岩に背中をぶつけて止まった。
彼女は苦痛に顔を歪めながらも、すぐさま槍を構え直そうとする。
だが怪鳥は追撃を緩めなかった。
巨大な翼を翻し、再び上空からセレスを押し潰そうと急降下に入る。
防戦一方だ。
魔力枯渇が癒えきっていない彼女が、あの質量による連続攻撃を何度凌げるというのだ。
俺の作戦は完全に崩壊していた。
ネアの魔法が敵の認識を狂わせてくれるはずだったのだ。
なぜ効かない。
俺の脳裏に、フェイルの顔がフラッシュバックする。
『心と魂の境界線が、もうボロボロだ』
水筒の質量。火の粉。セレスの恐怖に満ちた視線。
それらの点と線が、強引に結びつきそうになる。
(ふざけるなッ!!)
俺は頭を振って、その恐ろしい仮説を完全に拒絶した。
考えるな。今はそんなことを考えている場合じゃない。
セレスが死ぬ。このままでは彼女が殺される。
俺は混乱する思考と、視界の隅でチカチカと警告を発し続ける赤いエラーログを、【
エラーだろうが幻覚だろうが関係ない。
俺がやらなければならないことは一つだけだ。
仲間を守る。
それだけが、俺をこの狂った迷宮に繋ぎ止める唯一の鎖だった。
「おおおおおッ!!」
俺は獣のような咆哮を上げ、体内のナノマシンにオーバードライブのコマンドを叩き込んだ。
切れた筋繊維が無理やり稼働し、血を吐き出すような激痛が両足を駆け巡る。
だが俺は止まらなかった。
限界を超えた【
俺は地面を爆発的に蹴り上げ、急降下してくる怪鳥の巨大な横腹に向かって、自らを弾頭とするように突っ込んでいった。
俺の世界は歪んでいるのかもしれない。
だが、この手で握りしめたナイフの冷たさだけは、絶対に信じることができた。