異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第143話 血の代償

 圧倒的な質量が、頭上から俺たちを押し潰そうと降ってきた。

 大迷宮第七十九層。天井の存在しない真っ暗な夜空のような空間から急降下してきた怪鳥は、まさに神話に名を連ねる『ロック鳥』そのものだった。

 巨大な翼が空気を切り裂き、局地的な嵐のような突風が吹き荒れる。

 

 怪鳥の黄色く濁った巨大な眼球は、ただ一人、セレスだけを明確な標的として捉えていた。

 ネアの放ったはずの光と音の暗示魔法は、まるで最初から存在しなかったかのように完全に無視されている。

 

「セレス!」

 

 俺の叫び声は、轟音と暴風にかき消された。

 魔力枯渇の疲労が色濃く残るセレスは、それでも騎士としての意地で白銀の槍を横に構え、青白い雷の障壁を展開した。

 だが、ダンプカーが全速力で突っ込んでくるような怪鳥の突進を、その急造の防壁で受け止めきれるはずがなかった。

 

 ガギィィィンッという鼓膜を破るような金属音が響き渡る。

 怪鳥の巨大な鉤爪が障壁を容易く砕き、そのままセレスの白銀の甲冑を無慈悲に掠めた。

 火花が散り、鋼の装甲が紙屑のように拉げる。

 

「きゃああっ!」

 

 障壁ごと弾き飛ばされたセレスの体が、空中を人形のように舞った。

 そのまま数十メートル後方の巨大な岩壁に向かって、凄まじい勢いで激突する。

 

 ゴガンッ、という鈍く、ひどく重い音が洞窟に響いた。

 岩壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、パラパラと砕けた石の破片が降り注ぐ。

 

 セレスはそのまま地面に崩れ落ち、うつ伏せに倒れ込んだ。

 ガシャリと甲冑が鳴り、彼女の口からごぼりと赤黒い血が吐き出された。

 岩盤に広がるどす黒い血溜まりが、俺の視界を真っ赤に染め上げる。

 

「セレスッ!!」

 

 俺は心臓が凍りつくような焦燥に駆られた。

 彼女は動かない。ピクリともしない。

 怪鳥はなおも追撃の手を緩めず、空中で急旋回して再びセレスの頭上へと舞い戻ろうとしていた。

 このままでは確実に殺される。

 

「ごめん、ソースケ、効かなくて……!」

 

 俺のすぐ斜め後ろから、泣きそうな声が聞こえた。

 ネアだった。

 

 彼女は自分の暗示魔法が怪鳥の目を逸らせなかったことに、強い責任を感じて震えていた。

 紫色の瞳からポロポロと涙をこぼし、両手をギュッと握りしめている。

 

 その顔を見て、俺の心の中に渦巻いていた不安や違和感は、一瞬にして怒りの炎へと塗り替えられた。

 彼女のせいじゃない。彼女は俺の指示通りに全力で魔法を放ってくれたのだ。

 この理不尽な迷宮の生態系が、彼女の魔法を上回っただけの話だ。

 

「気にするな! 俺がやる!」

 

 俺はネアに向かって短く怒鳴り、すぐさま怪鳥へと向き直った。

 体内のナノマシンにアクセスし、システムが発している全ての警告を強制的にシャットダウンする。

 脳内物質の異常分泌も、現実認識のエラーも、今はどうでもいい。

 筋肉の断裂を防ぐリミッターを完全に解除し、【迅速(ブースト)】の出力を限界突破させる。

 心臓が破裂しそうなほどの勢いで血液を全身に送り出し、俺の視界が赤く明滅し始めた。

 

「おおおおおッ!!」

 

 俺は血を吐くような咆哮を上げ、地面を爆発的に蹴り上げた。

 岩盤がすり鉢状に砕け散り、俺は黒い弾丸となって空中へと跳躍した。

 

 怪鳥が再びセレスに向けて急降下しようとしている、その軌道の横合いにあった巨大な石柱。

 俺はその石柱の壁面を力強く蹴り、さらに加速して宙を舞った。

 

 狙うは、あのバカでかい猛禽の死角。

 俺は風圧に顔を歪めながら、怪鳥の巨大な背中の上へと飛び乗った。

 硬い金属のような羽毛が足の裏に突き刺さるが、構わずナイフを深々と突き立てて体を固定する。

 

 ギャァァァァァッ!!

 

 背中に異物が乗ったことに気づいた怪鳥が、不快な叫び声を上げて激しく身を捩った。

 暴風が荒れ狂い、俺の体を振り落とそうとする。

 ロデオなんて生ぬるいものではない。少しでも気を抜けば、数百メートル下まで真っ逆さまだ。

 

 俺は左手でナイフの柄を死に物狂いで握りしめ、空いた右手の拳を固く握り込んだ。

 腰に下げた銀のペンダントに意識を集中する。

 リリアの反応はない。だが、ペンダントの奥底に眠る五百年の呪いの魔力は、俺が強引に引き出せば応えてくれるはずだ。

 

「力を貸せ、リリア!」

 

 俺が念じると、ペンダントからドス黒い紫色の魔力が溢れ出し、俺の右腕に絡みついた。

 七十層の魔術師の魔法障壁を叩き割った時と同じ、理不尽な呪いの炎だ。

 

 右腕の皮膚が焼け焦げ、肉が爆ぜる不快な臭いが鼻を突く。

 痛覚は遮断しているはずなのに、魂そのものを焼かれるような激痛が脳髄を乱打した。

 だが俺は歯を食いしばり、その呪いの魔力を纏った右拳を高く振り上げた。

 

「落ちろォォォッ!!」

 

 怪鳥の巨大な背中の付け根。

 翼を動かすための要とも言える関節部分に向かって、俺は渾身の拳を叩き込んだ。

 

 ドゴォォォォンッ!!

 

 という凄まじい轟音と共に、呪いの黒炎が怪鳥の背中で爆発的に燃え上がった。

 強靭な羽毛を焼き尽くし、分厚い皮膚を突き破って、呪いが肉の深部へと侵食していく。

 

 ギギィィィィィィィッ!?

 

 怪鳥がかつてないほどの激痛に悲鳴を上げ、その巨体を空中で大きく仰け反らせた。

 右の翼が痙攣し、羽ばたきのバランスが完全に崩れる。

 

 だが、これだけではまだ足りない。

 この階層は広すぎる。少しでも飛翔能力が残っていれば、体勢を立て直されてしまう。

 俺は呪いで焼け焦げた右手を無理やり動かし、腰のホルダーからアンカーショットを引き抜いた。

 銃口を、怪鳥の左翼の巨大な関節部分へと向ける。

 

「これで飛べなくしてやる!」

 

 引き金を引く。

 火薬の爆発音と共に、特殊合金製のアンカーが怪鳥の左翼の関節に深々と突き刺さった。

 ワイヤーがピンと張り詰める。

 俺はアンカーショットの本体を両手で固く握りしめ、自分の全体重をかけてワイヤーを強引に反対側へと引っ張った。

 ナノマシンの限界出力を乗せた、強引な力業。

 

 バキィッ!

 

 という嫌な音がして、怪鳥の左翼が不自然な方向へと捻じ曲がった。

 右翼は呪いの炎で焼け焦げ、左翼はワイヤーで動きを封じられた。

 もはや空の王者の威厳はどこにもない。

 浮力を完全に失った怪鳥は、その巨大な質量を支えきれなくなり、俺を背に乗せたままキリモミ状になって墜落を始めた。

 

「うおおおおッ!」

 

 俺は墜落の衝撃に備え、怪鳥の背中からワイヤーを巻き取りながら空中に身を投げ出した。

 地面が猛スピードで迫ってくる。

 

 ズドォォォォォォンッ!!!

 

 大音響と共に、怪鳥の巨体が岩盤に激突した。

 凄まじい土煙が舞い上がり、クレーターができるほどの衝撃波が辺りを薙ぎ払う。

 俺は少し離れた地面に転がり落ち、全身の骨が砕けるような衝撃を受け流しながら、なんとか体勢を立て直した。

 

 怪鳥は地面に叩きつけられたものの、まだ生きていた。

 翼を折られ、背中から呪いの炎を吹き上げながらも、その黄色い眼球に憎悪の光を宿し、巨大な嘴を俺の方へと向けようとしている。

 だが、その致命的な隙を、誇り高き騎士が見逃すはずがなかった。

 

「……雷霆よ」

 

 掠れた、だが確かな殺意を込めた声が、土煙の向こう側から響いた。

 岩壁に叩きつけられ、血まみれになって倒れていたはずのセレスだった。

 彼女は立ち上がることすらできず、地面を這いずりながら、それでも両手で白銀の槍を怪鳥の脳天へと真っ直ぐに向けていた。

 彼女の全身から、残された命の火を燃やすような青白い魔力が立ち上る。

 

「穿てェッ!!」

 

 セレスの絶叫と共に、槍の穂先から極太の雷の槍が放たれた。

 それは一直線に空気を焼き焦がし、もがき苦しむ怪鳥の巨大な眼球のど真ん中へと寸分の狂いもなく突き刺さった。

 眼球を貫き、脳髄へと直接流し込まれる莫大な雷のエネルギー。

 

 バチバチバチッ! という轟音と共に、怪鳥の頭部が内側から激しく弾け飛んだ。

 巨体が大きく一度だけ痙攣し、そして完全に力を失って地面に崩れ落ちる。

 

 神話の残滓は、今度こそ完全に絶命したのだ。

 広大な空洞に、土煙が濛々と舞い上がった。

 そして、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってくる。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 俺は全身の痛みに耐えきれず、その場に膝をついた。

 限界突破したナノマシンの反動が、ここに来て一気に俺の肉体を襲う。

 

 視界がぐらぐらと揺れ、血の味が口の中に広がった。

 右腕は完全に炭化し、感覚すらない。

 だが、勝った。俺たちはまたしても、絶望的な死線を越えることができたのだ。

 

「セレス……!」

 

 俺は息を切らしながら、地面を這いずっているセレスの元へと駆け寄った。

 

 彼女の容態は最悪だった。

 白銀の甲冑は無惨に拉げ、頭部から流れた血が美しい金糸の髪をどす黒く染めている。

 呼吸は浅く、今にも命の灯火が消えてしまいそうだった。

 

「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」

 

 俺は彼女の側に膝をつき、震える手で腰のポーチを探った。

 最高級の回復ポーションが入っているはずだ。

 早くこれを飲ませなければ。ナノマシンを持たない彼女の肉体は、この傷に長くは耐えられない。

 

 ポーションの小瓶を取り出しながら、俺はふと背後を振り返った。

 この階層は広すぎる。巨大な魔物を倒した血の匂いに惹かれて、別の捕食者が現れないとも限らない。

 

 俺がセレスの治療に専念している間、誰かに警戒を任せる必要があった。

 俺は暗闇に向かって、明確な指示を飛ばした。

 

「ネア、周囲の警戒を頼む。何かが近づいてきたらすぐに教えろ」

 

 俺の視線の先で、薄緑色のチュニックを着たネアが、こくこくと真剣な顔で頷くのが見えた。

 彼女は自分の魔法が効かなかったことをまだ悔やんでいるようだったが、俺の指示には素直に従って、周囲の暗闇へと視線を巡らせてくれた。

 よし、これで治療に集中できる。

 俺は安堵し、セレスの口元にポーションの瓶を運ぼうとした。

 

 だが。

 

「……」

 

 血まみれになって息も絶え絶えのセレスが、突然、俺の右腕を掴んだのだ。

 炭化して感覚のない俺の腕を、彼女の震える指先が弱々しく、だが縋り付くような力強さで握りしめた。

 

 俺は驚いて彼女の顔を見下ろした。

 セレスの青い瞳は、半ばうつろになりながらも、俺の顔を真っ直ぐに見つめていた。

 その瞳に浮かんでいたのは、怪鳥を倒した安堵でも、傷の痛みによる苦痛でもなかった。

 

「……ソウスケ……」

 

 血を吐くような、掠れた声が彼女の唇から漏れた。

 俺はポーションを持った手を止め、彼女の次の言葉を待った。

 

「お願いだ。もう、やめてくれ……」

 

 その声は、ひどく悲痛な哀願だった。

 俺は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

 

 やめてくれ? 何をだ。俺は今、お前を助けようとしているんだぞ。

 怪鳥は倒した。お前を回復させれば、また前へ進める。

 それなのに、なぜ彼女はそんな絶望的な顔をして俺を見るのだ。

 

 彼女の視線が、俺の顔から、俺が先ほど振り返って指示を出したネアへと向けられた。

 

「セレス……お前、何を……」

 

 俺の喉がカラカラに乾き、言葉が上手く出てこなかった。

 俺の心の中に広がっていた黒いインクの染みが、ついに俺の理性の防壁を完全に決壊させようとしていた。

 

 俺の隣にはネアがいる。俺には彼女が見えている。

 俺は震える手でポーションの瓶を握りしめ、セレスの哀れむような瞳から逃れるように顔を背けた。

 暗闇の中で、ネアが俺を心配そうに見つめている。

 

 そのネアの姿が、またしてもノイズが走ったように微かにブレて見えた。

 俺の世界が、音を立てて崩壊していく。

 広大な空洞の静寂が、俺の狂気を静かに嘲笑っているかのように感じられた。

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