異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
神話の残滓たる怪鳥が完全に息絶えた後も、広大な空洞には死の匂いと濃密な血の臭いが立ち込めていた。
俺は血だまりの中で意識を失ったセレスを抱え上げ、よろめく足取りで安全な岩陰を探した。
限界を突破したナノマシンの反動は容赦なく俺の肉体を責め立てていた。両足の筋繊維は千切れかけ、右腕は呪いの黒炎の代償として完全に炭化して感覚を失っている。呼吸をするたびに、肺の中に細かなガラス片を吸い込んでいるような激痛が走った。
だが、俺の腕の中で力なく首を垂れるセレスの容態は、俺の比ではなかった。
彼女の白銀の甲冑は怪鳥の巨大な鉤爪によって無惨に拉げ、装甲の隙間からどす黒い血が絶え間なく滴り落ちている。美しい金糸の髪は血と泥で汚れ、彼女の浅い呼吸は今にも途絶えてしまいそうだった。
怪鳥を倒す直前、彼女は俺の腕を弱々しく掴み、ひどく哀れむような瞳で『お願いだ。もう、やめてくれ』と懇願した。
その絶望に満ちた視線の意味を、俺はあえて考えないようにしていた。
今はただ、彼女の命を繋ぎ止めることが最優先だ。俺の精神を蝕む薄気味悪い違和感も、視界の隅でチカチカと点滅を繰り返すナノマシンの赤いエラーログも、すべて強引に思考の外へと締め出した。
巨大な岩盤が崩落してできた、狭いが身を隠すには十分な天然のシェルターを見つけ、俺はそこにセレスを横たえた。
冷たい石の床に断熱用のシートを敷き、彼女の頭をそっと下ろす。
「しっかりしろ、セレス」
俺は震える左手で彼女の拉げた甲冑の留め具を外し、胸当てを強引に引き剥がした。
内側に着込んでいた防刃の鎖帷子ごと肉が深く抉られ、痛々しい傷口が露わになる。
俺は腰のポーチから最高級の回復ポーションを取り出し、躊躇うことなくその青い液体を彼女の傷口に直接振りかけた。
ジュウウッ、という微かな音と共に、ポーションの魔力が肉組織に浸透していく。
ナノマシンを持たないこの世界の住人の肉体は、人間が本来持つ治癒力とポーションの効能に頼るしかない。現代日本のシーカーであれば、俺の血液を輸血してナノマシンを一時的に定着させる荒療治もできただろうが、魔力で構成された異世界の肉体にそれが通じる保証はなかった。
俺は残ったポーションを彼女の口元に運び、少しずつ喉の奥へと流し込んだ。
ゴクリ、と彼女の細い喉が動き、青い液体が飲み込まれていく。
「……んっ……」
セレスの口から微かな呻き声が漏れた。
傷口の肉が盛り上がり、出血が徐々に収まっていく。顔色も先ほどの蝋人形のような蒼白さから、わずかにだが血の気が戻ってきていた。
ポーションの効果は絶大だ。一命は取り留めたらしい。
だが、魔力枯渇のダメージと物理的な重傷が重なっているため、彼女は昏睡状態に陥っていた。
静かな寝息を立てる彼女の顔を見て、俺はようやく胸を撫で下ろした。
張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩み、どっと重い疲労感が全身にのしかかってくる。
俺は冷たい岩壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
炭化した右腕は相変わらず動かない。ナノマシンが修復エネルギーを優先的に回しているが、皮膚の再生にはまだ時間がかかりそうだった。
俺は大きく息を吐き出し、頭を後ろの岩壁にぶつけた。
ガンッ、という鈍い痛みが、俺がまだ生きていることを教えてくれる。
怪鳥との戦闘。
俺の作戦は完全に崩壊していた。
セレスが死にかけて、俺が自爆紛いの特攻を仕掛けることでしか状況を打破できなかった。
その事実が、ひどく俺のプライドを傷つけ、言いようのない苛立ちとなって胸の奥で渦巻いていた。
俺は視線を横に向けた。
そこには、岩穴の入り口の暗がりをじっと見つめているネアの姿があった。
彼女は薄緑色のチュニックの裾を両手でギュッと握りしめ、背中を丸めて縮こまっている。
俺が警戒を頼んだ通り、周囲を見張ってくれているのだろう。
だが、その小さな背中を見ていると、俺の中に溜まっていた黒い感情が抑えきれずに溢れ出してしまった。
自分の不甲斐なさを棚に上げ、誰かのせいにしなければ、俺の精神が持たなかったのだ。
「ネア」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
ビクッと肩を震わせ、ネアが恐る恐るこちらを振り返る。
その紫色の瞳には、すでにいっぱいの涙が溜まっていた。
「どうして今日はあんなに暗示が効かないんだ」
俺は八つ当たり気味に、その言葉を吐き捨てた。
彼女が懸命に魔法を放っていたのは知っている。だが、結果として怪鳥は彼女を完全に無視した。
百足の時もそうだった。
「お前の魔法がないとキツいんだぞ。俺の作戦はお前の認識阻害や幻影があって初めて成立するんだ。それなのに……」
俺はそこまで言って、口をつぐんだ。
彼女を責めたところでどうにもならないと分かっているのに、心がギリギリの状態に追い詰められていて、言葉のブレーキが効かなかった。
俺の理不尽な叱責を受け、ネアはポロポロと涙をこぼしながら深く俯いた。
「ごめんなさい……」
消え入りそうな、か細い声だった。
「私、一生懸命やったのに……どうしてか、全然見てもらえなくて……ごめんなさい、ソースケ。私のせいで、セレちゃんが……」
ネアは顔を両手で覆い、ひっくひっくと肩を震わせて泣き始めた。
その姿を見て、俺は激しい自己嫌悪に襲われた。
何をしているんだ、俺は。
彼女は一生懸命やってくれた。悪いのは俺の作戦の甘さであり、この狂った迷宮の生態系だ。
それなのに、俺は自分の無力さを誤魔化すために、この小さな仲間に八つ当たりをしてしまった。
「……悪い。言い過ぎた。お前のせいじゃない。俺が焦ってただけだ」
俺は謝罪の言葉を口にしながら、彼女の頭を撫でてやろうと左手を伸ばした。
その時だった。
俺の腰に下げた銀のペンダントから、氷のような冷たい魔力の脈動が放たれた。
『…………もう、限界ですわ』
俺の脳髄に直接響いてきたその声は、ひどく重く、そして悲痛な響きを帯びていた。
リリアーナ。
怪鳥との戦闘中、俺に呪いの魔力を貸してくれた後、再び深い沈黙に沈んでいたはずの彼女の魂だった。
俺は伸ばしかけていた左手を止め、怪訝に眉をひそめた。
「限界って、何がだ。怪鳥は倒したし、セレスの命も取り留めた。俺の右腕もそのうち治る。魔力枯渇が酷いなら、お前も無理せずに休んでていいぞ」
俺がそう答えると、ペンダントからの力の脈動が、怒りにも似た激しい震えに変わった。
チカッ、チカッ、と。
右目の網膜に投影されているナノマシンのエラーログが、ペンダントの明滅に呼応するように激しく点滅のスピードを上げる。
『……これ以上、貴方が壊れていくのを見ていられません』
リリアの声は、震えていた。
五百年もの間、ただ一人で孤独な闇の中を耐え抜いてきた彼女の魂が、今にも張り裂けそうなほどの悲しみを湛えていた。
『このままでは……セレスさんも限界ですわ!』
リリアの悲鳴のような訴えに、俺は完全に苛立ちを爆発させた。
フェイルと同じだ。こいつもフェイルと同じようなことを言っている。
俺が壊れていく? セレスが限界?
何を根拠にそんなことを言うのだ。俺は正気だ。俺は仲間を守るために戦っているだけだ。
セレスが傷ついたのは俺の責任だが、だからと言って俺が狂っていると言われる筋合いはない。
「リリア、お前まで何言ってんだ……!?」
俺はペンダントを強く握りしめ、暗い岩穴の中で声を荒らげた。
意識を失っているセレスには聞こえないだろうが、ネアを怯えさせてしまうかもしれない。
だが俺の苛立ちは、そんな配慮すら吹き飛ばすほどに限界に達していた。
「セレスが限界なのは魔力枯渇のせいだろ! 俺が壊れてるってどういう意味だ! 俺は至って正常だ! ネアならここに……」
俺が隣で泣いているネアの存在を指し示そうとした、まさにその瞬間だった。
『
リリアの絶叫が、俺の脳髄を直接、巨大なハンマーで殴りつけたかのような衝撃をもたらした。
俺の言葉は喉の奥で完全に凍りついた。
頭の中にキィィィンという甲高い耳鳴りが響き渡る。
呼吸が止まった。
心臓が、早鐘を打つのを忘れて完全に沈黙した。
誰も、いない?
何を言っている。俺の目の前には、俺の言葉に傷ついて俯き、涙を流しているネアがいるじゃないか。
薄緑色のチュニック。紫色の瞳。
彼女の存在が、見えないとでも言うのか。
「お、おい……冗談はやめろよ、リリア。お前までフェイルと同じようなこと言って……」
俺の声は、自分でも信じられないくらいに震え、ひどく掠れていた。
笑い飛ばそうとした。だが、顔の筋肉が引き攣って全く動かなかった。
『冗談ではありませんわ……。セレスさんは……いえ、私も、狂っていく貴方を隣で見ていることに、もう耐えられないのです』
リリアの声が、静かに、だが無慈悲に俺の精神の防壁を抉っていく。
『貴方が何もない虚空に向かって話しかけ、存在しない誰かを庇って無茶な戦いをする……。その異常な姿を見るたびに、私たちの心は擦り切れ、悲鳴を上げているのです!』
「違う! 虚空なんかじゃない! ここにネアがいるんだよ!」
『いいえ!!』
リリアの強い否定が、俺の主張を完全に叩き潰した。
ペンダントが、かつてないほどの青白い光を放ち、冷たい魔力が俺の全身を縛り付けるように駆け巡る。
『現実を見てください、ソウスケさん! ネアさんは……』
リリアの声が、堰を切ったように嗚咽に混じった。
『ネアさんは……第七十層で、貴方を庇って……逝きました。もう、いないのです!』
――逝きました。
――もう、いないのです。
その言葉が、俺の鼓膜から脳の深奥へと、ゆっくりと、ひどく鮮明に染み込んでいった。
カチャン、と。
俺の中で、必死に保ち続けていた何かの歯車が、完全に砕け散る音がした。
「…………ちがう」
俺の口から、魂の抜け殻のような声が漏れた。
第七十層。
黒焔火山。
不死黒鳥との死闘。
俺の脳裏に、鍵をかけて海の底に沈めていたはずの記憶の断片が、突如として浮上してきた。
俺を庇って、腹部を黒い炎の刃で貫かれた小さな体。
雪のように白くなった顔。
俺の頬に触れた、ひどく冷たい手の感触。
『ここぞって時に……かっこいい言葉を使う主人公に……憧れてて……』
口の端から血を流しながら、微笑んで紡がれた最後の言葉。
『私を、忘れないで』
「あ……ああ……」
俺の喉から、ひゅっと空気が漏れる音がした。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
岩壁の模様が渦を巻き、青白いコンロの炎が異様なまでに長く引き伸ばされていく。
ナノマシンのインターフェースが、システム異常を知らせる赤い文字で視界のすべてを埋め尽くした。
【致命的な現実認識のエラーを検知】
【視覚野における幻覚の投影を確認】
【記憶の不整合を検出】
【精神防衛機構の崩壊を警告――】
俺はガクガクと震える手で、自分の頭を抱え込んだ。
そんなはずはない。
だって、俺が目を覚ました時、彼女は『私は不死身なのだ!』と笑って見せたじゃないか。
あれは夢だったはずだ。俺が不安から見た、ただの悪夢だったはずだ。
「やめてリリさん! ソースケが壊れちゃう!」
歪む視界の中で、ネアが俺の前に立ち塞がり、ペンダントに向かって悲痛な叫び声を上げた。
彼女の姿が、ノイズが走ったように激しくブレている。
薄緑色のチュニックが、一瞬だけ、腹部にぽっかりと大穴が開き、どす黒い血に染まった姿へと変貌し、そしてまた元の綺麗な姿へと戻る。
点滅する幻影。
俺の脳が、崩壊しゆく現実を前にして、必死に『彼女は生きている』という嘘を維持しようと暴走しているのだ。
「違う! ネアはここにいる!」
俺は立ち上がり、暗い岩穴の中で叫んだ。
誰に向かって叫んでいるのか、自分でも分からなかった。リリアか、セレスか、それとも自分自身か。
「さっきも手を繋いだ! 温かいんだよ!」
俺は両手を宙に振り回し、狂ったように否定の言葉を並べ立てた。
そうだ、水筒だって渡した。火の粉だって飛んだ。
質量がなかった? 熱を感じなかった?
そんなのは魔人族だからだ! そうに決まっている!
『ソウスケさん……お願いです、現実を受け入れてください……!』
「黙れッ!!」
俺はペンダントを握りしめ、引きちぎらんばかりに叫んだ。
リリアの悲痛な声が、俺の心を刃物のように切り裂いていく。
俺は暗闇に向かって、後ずさりをした。
「あいつは死んでない……俺が、俺が守ったんだ……。俺のせいで死んだなんて、そんなの嘘だ……!」
俺の足がもつれ、冷たい岩盤の上に無様に倒れ込んだ。
炭化した右腕が岩に打ち付けられ、激痛が走るが、俺はもう立ち上がることができなかった。
俺の視界の端で、ネアが泣きながら俺の服の裾を引っ張っている。
「ソースケ、私ここにいるよ。ソースケの隣にいるよ……!」
その声は、ひどく遠く、水の中にいるようにくぐもって聞こえた。
俺は両手で自分の頭を掻きむしった。
髪の毛が抜け落ちるほど強く。皮膚が破れて血が滲むほど強く。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だッ!!」
俺の絶叫が、広大な大迷宮の暗闇に吸い込まれていく。
セレスは意識を失ったまま動かない。
俺は岩盤に這いつくばり、暗い洞窟の中で、獣のような嗚咽を漏らしながら崩れ落ちていた。
視界を埋め尽くす赤いエラーログの光だけが、俺を冷ややかに照らし出していた。