異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第145話 第80層への扉

 頭蓋骨の内側を、鋭利なノミで削り取られているような激しい頭痛が続いていた。

 

 こめかみの奥でドクドクと脈打つ嫌な拍動に合わせ、胃の底から酸っぱい吐き気が何度も込み上げてくる。

 視界は不規則に明滅し、発光ゴケの青緑色の光がまるでチカチカと点滅する不良品の蛍光灯のように見えた。

 

 耳の奥では、キィィィンという金属が擦れ合うような甲高い耳鳴りが鳴り止まない。

 俺は重い足を引きずりながら、冷たく荒れ果てた岩盤の上を歩き続けていた。

 

 右腕は炭化し、左肩の肉は溶け、両足の筋繊維は悲鳴を上げている。だが今の俺を苛んでいる最大の苦痛は、肉体的なダメージによるものではなかった。

 原因は分かっている。

 リリアだ。

 怪鳥を倒した直後の安全地帯で、彼女は俺の脳髄に直接響くような絶叫を叩きつけてきた。

 

『ネアさんは……第70層で、貴方を庇って……逝きました。もう、いないのです!』

 

 その悲痛な声が、呪文のように何度も何度も頭の中でリフレインしていた。

 俺がこの迷宮で最も信頼し、大切に思っていた仲間の一人が、あんな残酷な言葉を吐いた。

 

 そんな馬鹿な話があるものか。

 俺の隣にはネアがいる。

 彼女の笑い声が聞こえる。彼女の歩く足音が聞こえる。

 俺は狂ってなどいない。

 だから俺は、必死に自分を納得させるための強引な理屈を組み立てていた。

 

(あれは……原初の探求者の残した呪いか何かの影響だ)

 

 そうだ、そうに違いない。

 五百年前にリリアの祖国を滅ぼしたあの結社。その幹部だった黒紫のローブの魔術師を、俺は直前に殺したばかりだ。

 

 奴は死に際に、この巨大な空洞に呪詛を撒き散らしていったのではないか。

 幻覚を見せ、精神を蝕み、仲間同士の絆を引き裂くような悪辣な呪い。

 

 魂だけの存在であるリリアは、その影響をまともに受けてしまったのだ。だからあんな錯乱したことを叫んだ。

 セレスの様子がおかしいのも、その魔術師の放った見えない毒気が彼女の精神を侵食しているからだ。

 

 そう思い込まなければ、俺の立っている世界が足元から完全に崩れ落ちてしまうような気がした。

 

 俺の認識が狂っているのではない。狂わされているのは彼女たちの方だ。

 だから俺は、決して折れるわけにはいかない。

 俺が正気を保ち、このパーティを導かなければならないのだと、自分に強く言い聞かせた。

 

 だが。  俺の視界の隅では、右目のナノマシンが容赦のない現実を突きつけてきていた。

 

【警告:重大な精神汚染・自己認識の不一致を検知】

【神経伝達物質の異常分泌が致死レベルに到達】

【強制的な自己修復プロトコルへの移行を推奨します】

 

 手動で何度ミュートしても、この赤いアラートだけはゾンビのように蘇り、もはや視界の端を真っ赤に染め上げるほどに激しく点滅し続けていた。

 機械は嘘を吐かない。

 ナノマシンのインターフェースは、俺の脳が決定的なエラーを起こしていることを冷静に分析し、警告を発している。

 俺の現実認識が破綻していると。俺が見ているものが幻覚であると。

 

 それでも俺は、その警告を歯を食いしばって無視し続けた。

 システムのエラーだ。高濃度の魔力溜まりがセンサーを狂わせているだけだ。

 

 俺は自分を騙し、深い自己欺瞞の沼の底へとさらに足を踏み入れていく。

 そうしなければ、俺は一歩も前へ進むことができなくなっていただろう。

 

 広大な空洞をどれだけ歩き続けただろうか。

 時間感覚もとうに麻痺し、ただ機械的に足を前に出すことしかできなくなっていた俺たちの前に、ついに『それ』が現れた。

 

 見上げるような巨大な岩壁の奥。

 そこに、周囲の荒々しい自然の造形とは明らかに異なる、人工的な建造物が鎮座していた。

 

 途方もなく巨大な、両開きの重々しい扉だった。

 黒光りする未知の金属で造られたその扉の表面には、人間のものを何十倍にも引き伸ばしたような、おぞましい巨大な骸骨の意匠が緻密な浮き彫りで施されている。

 骸骨の虚ろな眼窩には、ドス黒い紫色の魔力が粘り気のある炎のように揺らめき、周囲の空気を歪ませていた。

 扉の隙間からは、今まで感じたことのないような濃密で暴力的なプレッシャーが漏れ出している。

 

「着いたか……」

 

 俺は掠れた声で呟き、立ち止まった。

 大迷宮第八十層。巨人の洞穴最深部である『主』の部屋への扉だ。

 ここを突破すれば、公式記録として大迷宮の八十層を制覇したことになる。

 

 俺は炭化した右腕を庇うようにし、左手で腰のサバイバルナイフの柄を握りしめた。

 手のひらにべっとりと嫌な汗をかいている。  振り返れば、俺たちパーティのコンディションは悪い。いや、最悪と言ってよかった。

 

 俺自身が満身創痍であり、ナノマシンのオーバードライブによる負荷で肉体は悲鳴を上げている。

 背後で立ち尽くすセレスの状況も絶望的だった。

 怪鳥の一撃で岩壁に叩きつけられた彼女の白銀の甲冑は、もはや防具としての体を成していないほどにひしゃげ、ひび割れている。

 ポーションで一命は取り留めたものの、顔色は死人のように青白く、呼吸は浅い。極限の魔力枯渇は彼女の生命力そのものを削り取っているはずだ。

 

 彼女は痛む体を無理やり立たせ、震える両手で槍を杖のようにして体を支えている。

 兜の下の青い瞳は虚ろで、俺の背中をただ力なく見つめていた。

 

 精神的にも肉体的にも、限界をとっくに超えている。

 普通に考えれば、これ以上の進軍は自殺行為だ。

 すぐにでも帰還用ゲートを探し、冒険者都市テルスへと戻って休養を取るべき状況だった。

 

 だが、俺たちには引き返すという選択肢が残されていなかった。

 下層に入ってから、迷宮の構造は明らかに悪意を持って変質していた。

 

 中層くらいまでは、一つの階層を抜けるごとに、まるでゲームのセーブポイントのように安全地帯と帰還用ゲートが用意されていた。

 しかし、この第七十一層から続く【巨人の洞穴】という広大すぎる空間には、それがないのだ。

 

 帰還用の転移門は、この果てしない暗闇のどこかにランダムに点在しているらしいが、探そうにも広すぎてマッピングすら不可能だった。

 ナノマシンの【探知(サーチ)】を駆使しても、見つかるのは巨大な魔物の反応ばかり。

 

 来た道を戻ろうにも、巨大な石柱とクレーターが続く風景はどこも同じに見え、正確なルートを辿ることなどできなかった。

 どこにあるかも分からない転移門を探して、この死の荒野を彷徨い歩く。

 それは、傷ついたセレスを連れて徐々に体力を削られ、最終的に力尽きて魔物の餌食になるという緩やかな全滅を意味していた。

 

 だからこそ、俺はこの扉の前に立つことを選んだのだ。

 迷宮の絶対的な法則。

 各階層の縄張りを支配する『主』の部屋を突破すれば、次の階層へ進むための道が開け、そこには確実に転移門が存在する。

 目の前の扉の奥に潜む怪物を殺す。

 それが、今の俺たちが生きて地上へ帰るための、最も確率が高く、そして最も分の良い賭けだったのだ。

 

(やるしかない。俺がやらなきゃ、全員死ぬんだ)

 

 俺は乱れた呼吸を整え、扉に刻まれた巨大な骸骨を睨みつけた。

 隣には、ネアがいる。

 俺の視界の端で、彼女は薄緑色のチュニックの袖をぎゅっと握りしめて立っている。

 

 セレスがすぐ後ろにいるため、俺はネアに向かって声を出して話しかけることはしなかった。

 今のセレスは精神的に不安定だ。俺が虚空に向かって話しかけているように見えれば、また彼女の心を無駄に擦り減らしてしまうかもしれない。

 

 だから俺は、視線すら向けずに、ただ心の中で彼女の存在を感じ取ろうとした。

 すると、ふいに俺の左手に、柔らかな感触が触れた。

 ネアが、俺の左手を両手で包み込むようにして、ぎゅっと握ってきたのだ。

 その微かな温もりだけは、俺の手のひらを通じて確かに伝わってくる。

 

「大丈夫だよソースケ」

 

 ネアの小さな声が、俺の耳元で囁くように聞こえた。

 俺はハッとして、僅かに視線を横に向けた。

 そこには、俺の顔を見上げて微笑む彼女の姿があった。

 発光ゴケの光を受けて、紫色の瞳が優しく輝いている。

 

「私がずっと一緒にいるから」

 

 彼女はそう言って、俺を安心させるように、もう一度ふわりと微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間だった。

 俺の心臓が、まるで冷たい氷柱を突き立てられたかのように、完全に凍りついた。

 

 ドクン。

 

 頭の奥で、弾けたような音がした。

 俺の視界がぐにゃりと歪み、目の前の骸骨の扉が、真っ赤に燃え盛る黒炎の海へと塗り替えられていく錯覚に陥る。

 息が詰まる。

 喉が干からび、言葉が全く出てこない。

 

(……あの日)

 

 俺の脳裏に、強固な鍵をかけて封印していたはずの記憶が、濁流となって溢れ出してきた。

 第七十層。黒焔火山。不死黒鳥との死闘。

 俺の死角から迫った黒炎の刃。

 俺を突き飛ばし、身代わりとなった小さな体。

 肉を焼き、骨を貫く、ひどく生々しい音。

 俺の腕の中で、腹部を完全に貫通され、どす黒い血の海に沈んでいた彼女。

 急速に失われていく生命力。雪のように白くなった顔。

 焦点の合わない紫色の瞳。

 そして。

 

 口の端から大量の血の泡を吐き出しながら、彼女が最期の力を振り絞って俺に向けた、あの表情。

『私を、忘れないで』 そう言って、彼女は笑ったのだ。

 自分の命が消えようとしているその瞬間に、俺の心が壊れないように、悲しそうな、だが愛おしいものをを見るような、ひどく優しい笑顔を向けて。

 

 今、俺の左手を握り、俺を見上げて微笑んでいるネアの笑顔。

 それは、あの日。

 黒炎に腹を貫かれて、血を吐きながら俺を見た時の、あの悲しそうな笑顔と――全く、同じだった。

 

「あ……」

 

 俺の喉から、声にならない乾いた音が漏れた。

 全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、震えが止まらなくなる。

 

 違う。

 違うはずだ。

 

 俺の隣にいる彼女は生きている。元気で、無邪気で、あの日と同じように笑っているはずだ。

 

 だが、俺の目の前に映る幻影は、あまりにも残酷な真実を俺に突きつけていた。

 彼女の笑顔は、死の間際に俺の脳髄に焼き付いた『最後の表情』のままで、完全に固定されてしまっているのだ。

 

 その最期の瞬間の姿を切り取って、俺の隣に都合の良い幻覚として投影し続けていただけだった。

 俺が彼女の温もりだと思っていたものは、俺自身が作り出した、ただの記憶の残滓。

 水筒が減らなかったのも、火の粉に反応しなかったのも、彼女が実体のない亡霊だったからだ。

 リリアの絶叫は、呪いでも何でもなかった。ただの真実だった。

 セレスが俺を見て絶望していたのは、俺が何もない虚空に向かって話しかけ、死者の幻影に縋り付く狂人になり果てていたからだ。

 

 俺の精神防衛機構が音を立てて崩壊し、狂気の底へと完全に引きずり込まれようとしているのを感じていた。

 だが。

 

 俺は、気づいてはいけなかった。

 もしここで俺がその真実を完全に受け入れてしまえば、俺は発狂し、戦う意志を完全に失っていただろう。

 セレスを守ることも、この扉の奥の化け物を殺すこともできなくなる。

 俺たちはここで全滅する。

 だから俺は、必死に蓋をした。

 ひび割れた心の奥底から溢れ出そうになる絶望を、力ずくで押し留め、見なかったことにした。

 ナノマシンの激しく点滅する赤いアラートを睨みつけ、俺は唇から血が滲むほど強く噛み締めた。

 

(幻覚でもいい。狂気でもいい)

 

 俺は心の中で、自分自身に向かって血を吐くように叫んだ。

 

(お前がここにいると信じさせてくれ。俺に戦う力をくれ)

 

 俺はネアの幻影から視線を無理やり引き剥がし、目の前の巨大な骸骨の扉へと向き直った。

 左手に残る曖昧な温もりを握りしめたまま。

 俺は動かない右腕をかばい、左手と、自分の肩を使って、その重々しい扉の隙間に体を押し込んだ。

 

「開けェェッ!!」

 

 俺は獣のような咆哮を上げ、渾身の力を込めて扉を押し込んだ。

 

 ゴゴゴゴゴォォォッ!!

 

 何百年も開かれたことのないような、重く鈍い摩擦音が洞窟に響き渡る。

 

 扉の隙間から、ドス黒い瘴気が突風となって俺の顔面を打ち据えた。

 俺は狂気の世界に片足を突っ込んだまま、退路のない死地である第八十層の『主』の部屋へと、強引に足を踏み入れていった。

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