異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
巨大な石扉が、けたたましい摩擦音を洞窟に響かせながら内側へと開いていく。
隙間から噴き出してきたドス黒い瘴気が、突風となって俺の顔面を容赦なく打ち据えた。
肺の奥まで凍りつくような、濃厚な死の臭いだった。
血と腐肉、そして古い土が混ざり合ったような悪臭に、俺は思わずむせ返りそうになるのを必死に堪えた。
狂気の世界に片足を突っ込んだまま、退路のない死地である大迷宮第八十層の『主』の部屋へと、俺は強引に足を踏み入れた。
「…………これは」
視界が開けた瞬間、俺の口から乾いた声が漏れた。
扉の先は、巨大な
第七十層の火口底にも匹敵する広大さだが、ここは煮えたぎる溶岩ではなく、一切の色彩が欠落した冷たい白と黒の世界だった。
闘技場の床には、見渡す限りの無数の白骨が敷き詰められていた。
人間の骨だけではない。巨大な魔物の骨、異形の頭蓋、数え切れないほどの屍骸が、足の踏み場もないほどに折り重なり、一つの巨大な絨毯のようになっている。
踏み出すたびに、バキッ、メキッという骨が砕ける不快な音が響く。
そして、その白骨の海の中央。
周囲の岩盤よりも一段高くなった場所に、おぞましい骨と漆黒の鉱石で組み上げられた巨大な玉座が鎮座していた。
そこに、奴は座っていた。
第八十層の主。
身の丈五メートルを優に超える、巨大なアンデッドだった。
人間の骨格をベースにしながらも、各部の骨が異常に肥大化し、歪に結合している。
全身を覆うのは、闇そのものを織り上げたような漆黒のボロ布と、朽ち果てた王の証とも言える王冠。
右の骨の手には、禍々しい赤い光を放つ魔石が埋め込まれた巨大な大剣が握られていた。
『骸の王《スケルトン・キング》』と呼ぶべきか。ギルドの公式記録には存在しない。フェイルのような一部の例外を除き、人類が到達したことのない深淵の主。
虚ろな眼窩の奥で、青白い鬼火がユラリと揺れた。
それは間違いなく、俺たち侵入者を明確な標的として捉えた光だった。
ギリリ、と。
骸の王が、骨の軋むような不快な音を立てて玉座からゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、空間を支配していた死の魔力が、爆発的に膨れ上がった。
『来ますわ……! ソウスケさん、気をつけて!』
俺の腰のペンダントから、リリアの切羽詰まった声が響いた。
俺が狂人扱いされようと、彼女が幻覚だと言おうと、今はそんなことを言い争っている場合ではない。この圧倒的な死の圧力を前にしては、協力しなければ一瞬で塵にされる。
骸の王が、手に持った大剣の石突を、ドガンッと骨の床に力強く叩きつけた。
それが、死者の軍勢を呼び起こす号令だった。
ガシャッ、ガラガラッ!
闘技場全体に敷き詰められていた無数の白骨が、突如として意志を持ったかのように激しく震動し始めたのだ。
砕けた骨片が宙に浮かび、別の骨と組み合わさっていく。
人間の形をしたスケルトン、四足歩行の獣型スケルトン、複数の魔物の骨が融合した異形のキメラ・スケルトン。
数体や十体ではない。
五十、百、二百――。
視界を埋め尽くすほどの圧倒的な物量が、次々と俺たちを取り囲むように立ち上がり、武器となる錆びた剣や骨の槍を構えた。
「冗談だろ……軍隊じゃねえか」
俺は血の気が引くのを感じながら、サバイバルナイフを構え直した。
骸の王自身から放たれる濃密な死の魔力に加え、数百体のスケルトン兵士が放つプレッシャーが、物理的な重圧となって全身にのしかかってくる。
酸素が薄くなったかのように息苦しい。
俺は即座に体内のナノマシンにアクセスし、【
同時に、全身の筋肉を戦闘状態に引き上げるため、【
いつも通り、戦況を俯瞰し、最善のルートと敵の弱点を弾き出すためのルーティンだ。
だが。
「……ぐっ、がぁっ……!」
頭蓋骨の内側を直接ドリルで抉られるような、眼の眩むような激痛が走った。
視界が真っ赤に明滅し、ノイズが走って景色がブレる。
【警告:精神防衛機構の破綻を検知】
【神経伝達に重大な遅延が発生】
【これ以上の戦闘行動は生命の危機に――】
ナノマシンのインターフェースが、無機質な赤いエラーログを滝のように吐き出し、俺の視界を塞ぐ。
ミュートしたはずのアラートが、システムの中枢から直接鳴り響いているかのように、頭の中でガンガンと反響していた。
思考が加速しない。
敵の骨の数も、魔力の波長も、情報が多すぎて脳が処理を拒否している。
先ほどリリアから突きつけられた残酷な現実。それに必死に蓋をして「見なかったこと」にしている精神の矛盾が、致命的なノイズとなって俺の戦闘能力を著しく低下させていたのだ。
(くそっ……動け、考えろ! ここで止まったら死ぬぞ!)
俺は歯を食いしばり、必死に思考のピントを合わせようと首を振った。
だが、そのわずかな隙を、死者の軍勢が見逃すはずがなかった。
カシャカシャという骨の鳴る音を響かせ、最前列のスケルトン兵士たちが一斉に俺たちに向かって殺到してきた。
「退がれ、ソウスケ!」
俺の背後から、空気を切り裂くような鋭い声が響いた。
ボロボロの白銀の甲冑を纏ったセレスが、俺の前に躍り出たのだ。
彼女は両手で槍を構え、深く腰を落として床の骨を踏み砕く。
極限の魔力枯渇で顔色は死人のように蒼白だが、その青い瞳には決死の覚悟が宿っていた。
「我が雷霆よ、死者の群れを薙ぎ払え!」
セレスの全身から、眩い青白いプラズマが迸った。
彼女は槍を大きく横に振るい、広範囲に広がる雷の網を前方に展開した。
バリバリバリッ!! という轟音と共に、雷光が押し寄せるスケルトン兵士たちの先頭集団を包み込む。
雷の魔力はアンデッドの核となる魔力を直接焼き切り、数十体のスケルトンが黒焦げの粉となって吹き飛んだ。
だが、倒れた者の背後から、さらに倍の数のスケルトンが押し寄せてくる。
圧倒的な物量。セレスの雷魔法の範囲外から、錆びた剣が彼女の側面に迫っていた。
「ソウスケ、下がれと言っている! 今のお前では無理だ!」
セレスは槍の石突で迫るスケルトンを弾き飛ばしながら、俺に向かって血を吐くような声で叫んだ。
「お前は……もう限界なのだ! 私が盾になる、だからお前は下がっていろ!」
彼女の叫びは、俺を気遣うというよりも、悲痛な懇願に近かった。
俺が使い物にならないことを、俺の精神が壊れかけていることを、彼女は痛いほど理解している。だからこそ、自分の命を投げ打ってでも俺を守ろうとしているのだ。
だが、そんな言葉を俺が聞き入れるはずがなかった。
俺が下がれば、セレスは数分と持たずにこの骨の波に飲み込まれて死ぬ。
俺がやらなければならない。俺が前衛として敵陣を掻き乱し、主の首を取らなければ、全員ここで終わりなのだ。
(エラーだの限界だの、知ったことか。俺はまだ戦える)
俺は視界を埋め尽くす赤いログを意志の力で強引に無視し、ナイフを強く握り直した。
俺の目は、群がるスケルトン兵士たちの奥、悠然と構える骸の王を一直線に捉えていた。
雑兵をいくら倒してもキリがない。あの王の持つ魔力が、この骨たちを無限に再生させている。
ならば、奴の核を一撃で潰すしかない。
だが、そのためにはあの圧倒的な死の魔力と大剣の射程を潜り抜ける必要がある。
俺一人の機動力では、確実に迎撃される。
隙を作らなければならない。絶対的な、致命的な隙を。
俺はセレスの制止を完全に無視し、前を向いたまま叫んだ。
「ネア!」
俺の視界の端、少し離れた岩の影に隠れていた薄緑色のチュニックの少女が、俺の声に反応してビクッと肩を震わせた。
「お前の魔力を全部使って、一極集中の暗示で骸の王の動きを止めろ! その隙に俺が核を潰す!」
俺は一息に作戦を伝えた。
スケルトンの群れではなく、大元である骸の王ただ一体にのみ焦点を絞った、強烈な認識阻害。
奴の視覚、聴覚、魔力感知、そのすべてに強烈なバグを引き起こし、俺の突撃軌道を完全に隠蔽する。
彼女の暗示魔法なら、神話級の魔物の動きすら一瞬止めることができる。それさえあれば、俺の【
「わかった!」
俺の網膜に映るネアの姿が、力強く頷いた。
彼女は岩陰から飛び出し、スケルトンの群れを掻き分けるようにして前へと進み出た。
鼻から血を流し、精神の限界を超えているはずの彼女が、俺のために最後の力を振り絞ってくれている。
両手を骸の王に向かって突き出し、紫色の瞳を極限まで発光させる。
「えいっ!」
彼女の放った魔法の波長が、空気の震えとなって俺の肌にも伝わってきた。
よし。これで骸の王の認識は狂う。奴には俺の姿は見えない。
「やめろ! 何度同じことをする気だ!」
セレスがなにやら喚いているが、聞こえない。
俺はネアの暗示が確実に効くという、微塵の疑いもない絶対の前提のもとに動いた。
防御を完全に捨てる。
ナノマシンの出力を、回避ではなく突撃の速度のみに全振りする。
セレスが雷で切り開いたスケルトンの群れの隙間を縫うように、俺は地面を爆発的に蹴り上げた。
「おおおおおッ!!」
俺は黒い疾風となって、骸の王の懐へと向かって跳躍した。
眼前の巨大なアンデッドの王が、俺の接近に気づいている様子はない。
ネアの暗示が完璧に機能している証拠だ。
奴が手にしている巨大な大剣は、だらりと下げられたままだ。
俺は空中で体を捻り、ナイフの切っ先を骸の王の胸の奥、肋骨に守られた奥深くで赤黒く脈打つ魔石――核へと定めた。
(もらった!)
勝利を確信した、まさにその瞬間だった。
俺の視界の端で、骸の王の虚ろな眼窩に宿る青白い鬼火が、ギラリと凶悪な光を放った。
――え?
俺の思考が一瞬、凍りついた。
だらりと下げられていたはずの巨大な大剣が、下から上へと、凄まじい速度で振り上げられていたのだ。
その軌道は、空中にいる俺の体を寸分の狂いもなく真っ二つに両断しようとする、完璧な迎撃の軌道だった。
(なぜだ……ネアの暗示が効いているはずだろ!)
俺は空中で目を見開いた。
骸の王は、俺の姿をはっきりと認識している。
俺の突撃を待っていたかのように、その大剣を振り抜こうとしているのだ。
回避する空中の足場はない。
防御の姿勢もとっていない。
赤い魔石の埋め込まれた巨大な刃が、俺の胴体を薙ぎ払うべく、眼前にまで迫っていた。
ナノマシンの警告音が、俺の脳内で絶望的なまでに鳴り響いている。
なぜ、彼女の魔法が効かなかったのか。
なぜ、俺はこんなにも無防備に、死の懐へと飛び込んでしまったのか。
俺の狂った認識が作り出した絶対の前提が、致命的な破綻をきたした瞬間だった。
死の刃が、俺の腹部に触れる寸前。
俺の耳に、セレスの悲鳴にも似た絶叫が届いたような気がした。