異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第147話 砕け散る幻想

 ――え?

 

 空中に身を躍らせていた俺の思考は、その瞬間、完全に停止した。

 無防備な俺の腹部を真っ二つに両断しようと、下から上へ凄まじい速度で振り上げられてくる巨大な大剣。

 骸の王の虚ろな眼窩に宿る青白い鬼火は、俺の姿を寸分の狂いもなく捉えていた。

 

 なぜだ。

 どうして、俺の位置がバレている。

 俺の突撃軌道は、ネアの放った強烈な認識阻害の暗示によって、完全に隠蔽されているはずではなかったのか。

 

 俺は視界の端で、岩陰の近くに立っているネアの姿を捉えていた。

 彼女は両手を骸の王に向かって突き出し、紫色の瞳を極限まで発光させていた。彼女は間違いなく、ありったけの魔力を振り絞って、俺を隠すための魔法を放ってくれたはずだ。

 

 だというのに、骸の王はネアのことなど微塵も気にかけていなかった。

 まるで、そこにネアという存在が初めから『いない』かのように。

 王の意識は、魔法を放ったはずの魔人族の少女には一切向かわず、ただ俺だけを明確な排除対象として狙い澄ましていたのだ。

 

(暗示が、かかっていなかった……?)

 

 弾かれたわけではない。魔法の抵抗を受けた兆候もなかった。

 ただ単純に、最初から魔法など存在しなかったかのように、骸の王は俺に向かって大剣を振り抜こうとしている。

 俺の認識していた絶対の前提が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

 

「ソースケ!」

 

 ネアの悲鳴が聞こえた。

 

「ソウスケェェッ!!」

 

 同時に、背後からセレスの血を吐くような絶叫が、広大な闘技場の空気を震わせた。

 

 俺は空中にいた。

 地面を爆発的に蹴り上げ、【迅速(ブースト)】による極限の加速を乗せて、一直線に王の懐へと飛び込んでいた。

 その軌道を変えるための足場は、空中には存在しない。

 ナノマシンは危険を知らせる赤いアラートで俺の視界を真っ赤に染め上げているが、回避するための物理的な手段はすでに失われていた。

 

 防ぐことも、避けることもできない。

 巨大な漆黒の刃。

 それが俺の胴体を薙ぎ払うまで、あとコンマ数秒。

 

(ああ、終わるのか)

 

 俺の脳裏に、冷たい死の予感がよぎった。

 時間が極端に引き伸ばされたスローモーションの世界の中で、俺は迫り来る死神の刃をただ見つめることしかできなかった。

 

 これまで数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた。その度に、泥臭く足掻いて生き残ってきた。

 だが、この空中で俺ができる悪足掻きは、もはや一つも残されていなかった。

 

 死を覚悟した、その刹那だった。

 

 俺の右側の視界から、凄まじい光の奔流が飛び込んできた。

 バチバチと空気を焦がす青白い雷光。

 それは、極限まで魔力が枯渇し、立っているのがやっとだったはずのセレスの姿だった。

 

 彼女は、俺が飛び出した直後に地面を蹴り、自らの限界を完全に超越した速度で跳躍してきたのだ。

 白銀の甲冑が、雷の魔力でスパークを上げている。

 彼女の顔は死人のように蒼白だったが、その青い瞳には、絶対に俺を死なせないという鬼気迫る執念が燃え盛っていた。

 

(セレス……!? なんで……!)

 

 俺が驚愕に目を見開くよりも早く、彼女は空中の俺の体に向かって、自らの体を弾丸のように激突させた。

 ドンッ!! という強い衝撃が、俺の右半身を打ち据える。

 

 金属の甲冑の硬い感触。

 彼女の全体重と、雷魔法による加速の推進力が、俺の体を左方向へと強引に弾き飛ばした。

 俺の軌道が、大きく逸れる。

 骸の王の大剣が通るはずだった、絶対の死の空間から、俺は無理やり押し出されたのだ。

 

「セレスッ!!」

 

 俺は空中でバランスを崩しながら、絶叫した。

 俺を突き飛ばした反動で、セレスの体は空中に取り残された。

 俺のいた位置。

 骸の王の、巨大な大剣が振り抜かれる、まさにその軌道のど真ん中に。

 

 時間が、さらに遅くなったように感じられた。

 セレスは、迫り来る巨大な漆黒の刃から目を逸らさなかった。

 彼女は空中で白銀の槍を盾のように構え、残された最後の一滴の魔力までをも絞り出し、防御の障壁を展開しようとした。

 

 だが。

 

 ガギィィィィィンッ!!!!

 

 鼓膜を破壊し尽くすような、凄惨な金属の破砕音が、円形闘技場に鳴り響いた。

 第八十層の主が放った、圧倒的な暴力。

 セレスの展開した薄い雷の障壁など、紙のように呆気なく引き裂かれた。

 巨大な大剣の刃が、セレスが構えた白銀の槍の柄をへし折り、そのまま彼女の胴体を薙ぎ払ったのだ。

 

「あ……」

 

 俺の口から、間の抜けたような音が漏れた。

 セレスの纏っていた誇り高き白銀の甲冑が、紙屑のようにひしゃげ、無惨に砕け散るのが見えた。

 装甲の破片が、スローモーションで宙を舞う。

 

 ブチャァッ!

 

 鈍く、重い、肉が潰れる音。

 セレスの口から、大量の鮮血が噴水のように吐き出された。

 砕けた甲冑の隙間から、赤い血しぶきが空中に弧を描いて飛び散る。

 

 大剣のすさまじい質量の直撃を受けた彼女の体は、まるで壊れた人形のように宙を舞った。

 手足が不自然な方向に投げ出され、血の尾を引いて後方へと吹き飛ばされていく。

 その軌道は、残酷なほどに美しく、そして絶望的だった。

 

 ドサッ……ガラガラッ。

 

 セレスの体は、闘技場の端に積み上げられていた白骨の山の上に、力なく叩きつけられた。

 砕けた骨が崩れ落ち、彼女の動かなくなった体を半分ほど埋め隠す。

 血まみれになった白銀の甲冑。微動だにしない四肢。

 

「…………え?」

 

 俺は、地面に落下しながら、その光景から目を離すことができなかった。

 思考が、完全に白く塗り潰されていた。

 

 俺は背中から骨の絨毯の上に落ちた。

 バキバキと無数の骨が砕け、全身に激しい衝撃が走る。

 だが、痛みなど全く感じなかった。

 俺の視界は、骨の山に転がったまま動かない、セレスの姿だけで埋め尽くされていた。

 

 なんだ、これは。

 何が起きたんだ。

 

 俺の脳裏に、強固な鍵をかけて海の底に沈めていたはずの記憶の断片が、突如として浊流となって溢れ出してきた。

 

 

 第七十層。黒焔火山。

 

 不死黒鳥を撃破し、すべてが終わったと気を抜いた、あの瞬間。

 

 黒い灰から蘇った、人型の影。

 

 俺の死角から迫った、黒炎の刃。

 

 俺をドンッと突き飛ばし、身代わりとなった小さな体。

 

 腹を貫かれ、どす黒い血の海に沈んでいった彼女。

 

 

 あの時と、まったく同じだ。

 俺が判断を誤り、俺が一人で突っ走ったせいで、俺を庇って仲間が傷ついた。

 俺のせいで。俺のせいで。俺のせいで。

 

『私は、お前がボロボロになっていくのを見ていられないのだッ!』

 

 俺の胸ぐらを掴んで泣き崩れたセレスの言葉が、脳内で何度もリフレインする。

 彼女は、俺が一人で死地に飛び込んでいくのを見ていられなかったのだ。

 だから、魔力が枯渇した体で、自分の命を投げ打ってでも、俺を守ろうとした。

 

「あ……」

 

 俺の喉の奥から、ヒューッという空気が漏れる音がした。

 息が吸えない。

 肺が凍りついたように動かず、心臓だけが痛いほどに激しく脈打っている。

 

 まただ。

 俺はまた、仲間を盾にしてしまった。

 現代日本のダンジョンで、自分の弱さのせいで仲間を死なせた。

 

 この異世界で、絶対に仲間を守り抜くと誓ったはずなのに。

 俺は、何も学んでいなかった。俺は、何も守れていなかった。

 

 骨の山の上に倒れているセレスの周囲に、真っ赤な血だまりが広がっていくのが見える。

 彼女はピクリとも動かない。

 あの恐ろしい質量の大剣をまともに受けたのだ。甲冑が砕け、肉体がどうなっているか、想像するだけで吐き気がした。

 

 セレス。

 誇り高き騎士。俺の無茶な戦い方に文句を言いながらも、常に前衛で盾となって俺たちを守り続けてくれた。

 金級冒険者になったばかりで、まだこれからだというのに。

 俺のくだらない過信と、見当違いの作戦のせいで。

 

「ああ……」

 

 俺の口から、獣の呻きのような音が漏れた。

 視界がぐにゃりと歪む。

 周囲のスケルトン兵士たちが、カシャカシャと骨の音を立てて俺に迫ってきているのがわかる。

 骸の王が、巨大な大剣を構え直し、俺を見下ろしているのがわかる。

 

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 俺の心の中は、自己嫌悪と、喪失の恐怖と、どうしようもない絶望感で完全に満たされていた。

 自分の無力さが、愚かさが、呪わしい。

 

「ああ、ああああ……!」

 

 俺は両手で自分の頭を掻きむしり、骨の床の上で絶叫した。

 

「あああああああああああああああァァァァァァァッ!!!」

 

 喉が裂けるほどの、悲痛な咆哮だった。

 広大な円形闘技場に、俺の絶望の叫びが反響していた。

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