異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
――え?
空中に身を躍らせていた俺の思考は、その瞬間、完全に停止した。
無防備な俺の腹部を真っ二つに両断しようと、下から上へ凄まじい速度で振り上げられてくる巨大な大剣。
骸の王の虚ろな眼窩に宿る青白い鬼火は、俺の姿を寸分の狂いもなく捉えていた。
なぜだ。
どうして、俺の位置がバレている。
俺の突撃軌道は、ネアの放った強烈な認識阻害の暗示によって、完全に隠蔽されているはずではなかったのか。
俺は視界の端で、岩陰の近くに立っているネアの姿を捉えていた。
彼女は両手を骸の王に向かって突き出し、紫色の瞳を極限まで発光させていた。彼女は間違いなく、ありったけの魔力を振り絞って、俺を隠すための魔法を放ってくれたはずだ。
だというのに、骸の王はネアのことなど微塵も気にかけていなかった。
まるで、そこにネアという存在が初めから『いない』かのように。
王の意識は、魔法を放ったはずの魔人族の少女には一切向かわず、ただ俺だけを明確な排除対象として狙い澄ましていたのだ。
(暗示が、かかっていなかった……?)
弾かれたわけではない。魔法の抵抗を受けた兆候もなかった。
ただ単純に、最初から魔法など存在しなかったかのように、骸の王は俺に向かって大剣を振り抜こうとしている。
俺の認識していた絶対の前提が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「ソースケ!」
ネアの悲鳴が聞こえた。
「ソウスケェェッ!!」
同時に、背後からセレスの血を吐くような絶叫が、広大な闘技場の空気を震わせた。
俺は空中にいた。
地面を爆発的に蹴り上げ、【
その軌道を変えるための足場は、空中には存在しない。
ナノマシンは危険を知らせる赤いアラートで俺の視界を真っ赤に染め上げているが、回避するための物理的な手段はすでに失われていた。
防ぐことも、避けることもできない。
巨大な漆黒の刃。
それが俺の胴体を薙ぎ払うまで、あとコンマ数秒。
(ああ、終わるのか)
俺の脳裏に、冷たい死の予感がよぎった。
時間が極端に引き伸ばされたスローモーションの世界の中で、俺は迫り来る死神の刃をただ見つめることしかできなかった。
これまで数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた。その度に、泥臭く足掻いて生き残ってきた。
だが、この空中で俺ができる悪足掻きは、もはや一つも残されていなかった。
死を覚悟した、その刹那だった。
俺の右側の視界から、凄まじい光の奔流が飛び込んできた。
バチバチと空気を焦がす青白い雷光。
それは、極限まで魔力が枯渇し、立っているのがやっとだったはずのセレスの姿だった。
彼女は、俺が飛び出した直後に地面を蹴り、自らの限界を完全に超越した速度で跳躍してきたのだ。
白銀の甲冑が、雷の魔力でスパークを上げている。
彼女の顔は死人のように蒼白だったが、その青い瞳には、絶対に俺を死なせないという鬼気迫る執念が燃え盛っていた。
(セレス……!? なんで……!)
俺が驚愕に目を見開くよりも早く、彼女は空中の俺の体に向かって、自らの体を弾丸のように激突させた。
ドンッ!! という強い衝撃が、俺の右半身を打ち据える。
金属の甲冑の硬い感触。
彼女の全体重と、雷魔法による加速の推進力が、俺の体を左方向へと強引に弾き飛ばした。
俺の軌道が、大きく逸れる。
骸の王の大剣が通るはずだった、絶対の死の空間から、俺は無理やり押し出されたのだ。
「セレスッ!!」
俺は空中でバランスを崩しながら、絶叫した。
俺を突き飛ばした反動で、セレスの体は空中に取り残された。
俺のいた位置。
骸の王の、巨大な大剣が振り抜かれる、まさにその軌道のど真ん中に。
時間が、さらに遅くなったように感じられた。
セレスは、迫り来る巨大な漆黒の刃から目を逸らさなかった。
彼女は空中で白銀の槍を盾のように構え、残された最後の一滴の魔力までをも絞り出し、防御の障壁を展開しようとした。
だが。
ガギィィィィィンッ!!!!
鼓膜を破壊し尽くすような、凄惨な金属の破砕音が、円形闘技場に鳴り響いた。
第八十層の主が放った、圧倒的な暴力。
セレスの展開した薄い雷の障壁など、紙のように呆気なく引き裂かれた。
巨大な大剣の刃が、セレスが構えた白銀の槍の柄をへし折り、そのまま彼女の胴体を薙ぎ払ったのだ。
「あ……」
俺の口から、間の抜けたような音が漏れた。
セレスの纏っていた誇り高き白銀の甲冑が、紙屑のようにひしゃげ、無惨に砕け散るのが見えた。
装甲の破片が、スローモーションで宙を舞う。
ブチャァッ!
鈍く、重い、肉が潰れる音。
セレスの口から、大量の鮮血が噴水のように吐き出された。
砕けた甲冑の隙間から、赤い血しぶきが空中に弧を描いて飛び散る。
大剣のすさまじい質量の直撃を受けた彼女の体は、まるで壊れた人形のように宙を舞った。
手足が不自然な方向に投げ出され、血の尾を引いて後方へと吹き飛ばされていく。
その軌道は、残酷なほどに美しく、そして絶望的だった。
ドサッ……ガラガラッ。
セレスの体は、闘技場の端に積み上げられていた白骨の山の上に、力なく叩きつけられた。
砕けた骨が崩れ落ち、彼女の動かなくなった体を半分ほど埋め隠す。
血まみれになった白銀の甲冑。微動だにしない四肢。
「…………え?」
俺は、地面に落下しながら、その光景から目を離すことができなかった。
思考が、完全に白く塗り潰されていた。
俺は背中から骨の絨毯の上に落ちた。
バキバキと無数の骨が砕け、全身に激しい衝撃が走る。
だが、痛みなど全く感じなかった。
俺の視界は、骨の山に転がったまま動かない、セレスの姿だけで埋め尽くされていた。
なんだ、これは。
何が起きたんだ。
俺の脳裏に、強固な鍵をかけて海の底に沈めていたはずの記憶の断片が、突如として浊流となって溢れ出してきた。
第七十層。黒焔火山。
不死黒鳥を撃破し、すべてが終わったと気を抜いた、あの瞬間。
黒い灰から蘇った、人型の影。
俺の死角から迫った、黒炎の刃。
俺をドンッと突き飛ばし、身代わりとなった小さな体。
腹を貫かれ、どす黒い血の海に沈んでいった彼女。
あの時と、まったく同じだ。
俺が判断を誤り、俺が一人で突っ走ったせいで、俺を庇って仲間が傷ついた。
俺のせいで。俺のせいで。俺のせいで。
『私は、お前がボロボロになっていくのを見ていられないのだッ!』
俺の胸ぐらを掴んで泣き崩れたセレスの言葉が、脳内で何度もリフレインする。
彼女は、俺が一人で死地に飛び込んでいくのを見ていられなかったのだ。
だから、魔力が枯渇した体で、自分の命を投げ打ってでも、俺を守ろうとした。
「あ……」
俺の喉の奥から、ヒューッという空気が漏れる音がした。
息が吸えない。
肺が凍りついたように動かず、心臓だけが痛いほどに激しく脈打っている。
まただ。
俺はまた、仲間を盾にしてしまった。
現代日本のダンジョンで、自分の弱さのせいで仲間を死なせた。
この異世界で、絶対に仲間を守り抜くと誓ったはずなのに。
俺は、何も学んでいなかった。俺は、何も守れていなかった。
骨の山の上に倒れているセレスの周囲に、真っ赤な血だまりが広がっていくのが見える。
彼女はピクリとも動かない。
あの恐ろしい質量の大剣をまともに受けたのだ。甲冑が砕け、肉体がどうなっているか、想像するだけで吐き気がした。
セレス。
誇り高き騎士。俺の無茶な戦い方に文句を言いながらも、常に前衛で盾となって俺たちを守り続けてくれた。
金級冒険者になったばかりで、まだこれからだというのに。
俺のくだらない過信と、見当違いの作戦のせいで。
「ああ……」
俺の口から、獣の呻きのような音が漏れた。
視界がぐにゃりと歪む。
周囲のスケルトン兵士たちが、カシャカシャと骨の音を立てて俺に迫ってきているのがわかる。
骸の王が、巨大な大剣を構え直し、俺を見下ろしているのがわかる。
だが、そんなことはどうでもよかった。
俺の心の中は、自己嫌悪と、喪失の恐怖と、どうしようもない絶望感で完全に満たされていた。
自分の無力さが、愚かさが、呪わしい。
「ああ、ああああ……!」
俺は両手で自分の頭を掻きむしり、骨の床の上で絶叫した。
「あああああああああああああああァァァァァァァッ!!!」
喉が裂けるほどの、悲痛な咆哮だった。
広大な円形闘技場に、俺の絶望の叫びが反響していた。