異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
俺の絶望の叫びが、広大な円形闘技場に虚しく反響していた。
骨の床に両手を突き、頭を掻きむしりながら、俺はただ獣のように吠え続けることしかできなかった。
俺のくだらない過信が。
俺の的外れな作戦が。
俺が一人で突っ走ったせいで、セレスはあの圧倒的な質量の大剣をまともに受けたのだ。
周囲からは、カシャカシャと不気味な音を立てて無数のスケルトン兵士たちが迫ってきている。
中央の玉座の前では、第八十層の主『骸の王』が、巨大な大剣をゆっくりと引き戻し、再び俺を見下ろしていた。
死が、確実な足音を立てて俺を囲い込もうとしている。
俺の心は完全に折れ、すべてを投げ出してしまおうとしていた。もうどうにでもなれと、目を閉じようとした。
その時だった。
「ソースケ! 何してるの!」
俺のすぐ耳元で、張り裂けるような悲鳴が響いた。
「セレちゃんのところに! はやく!」
ハッとして、俺は顔を上げた。
ネアの声だ。
涙声で、必死に俺を現実に引き戻そうとする彼女の叫び。
(そうだ……セレスは、まだ……)
俺は血走った目で、闘技場の端に積み上げられた白骨の山を見た。
そこに力なく横たわる白銀の甲冑。
あの恐ろしい一撃を受けたのだ、生きていられるはずがない。そんな絶望的な推測が頭をよぎるが、確かめもしないで諦めることなどできない。
「うおおおおッ!」
俺は気合いと共に立ち上がり、痛む足に鞭打って骨の床を蹴り出した。
迫り来るスケルトンの群れが錆びた剣を振り下ろしてくるが、俺はナイフで強引に弾き飛ばし、転がるようにして包囲網を抜けた。
【
「セレス! セレス!」
俺は骨の山に飛び乗り、崩れ落ちた骨の破片を素手で乱暴に掻き分けた。
彼女の体は、砕けた骨と血の海の中に沈み込んでいた。
誇り高き白銀の甲冑は、左の脇腹から右の肩口にかけて斜めにひしゃげ、装甲の強固な金属が紙屑のようにめくれ上がっている。
その亀裂の奥から、絶え間なくどす黒い鮮血が湧き出していた。
「おい、嘘だろ……しっかりしろ、セレス!」
俺は震える手で彼女の肩を抱き起こそうとしたが、あまりの血の量に手が滑った。
兜の下の彼女の顔は、死人のように青白かった。
口の端からは血の泡が絶えず溢れ、浅く、不規則な呼吸がヒューヒューと鳴っている。
意識はない。命の灯火が、今まさに消えようとしていた。
(ポーションだ……最高級のポーションなら、まだ間に合う!)
俺は慌てて腰のポーチに手を突っ込んだ。
テルスの街で大枚を叩いて買い込んだ、回復ポーションの小瓶。
だが、俺の手は彼女の血でべっとりと濡れ、激しい焦りと震えのせいで、指先に全く力が入らなかった。
「クソッ! 開け! 開けよッ!」
俺は小瓶のコルク栓を引っこ抜こうと必死に指を引っ掛けたが、血で滑ってツルリと逃げてしまう。
歯で噛みちぎろうと口元に運んだが、焦りすぎて小瓶を取り落としそうになった。
自分が信じられないほど不器用で、無能に思えた。
仲間が死にかけているというのに、こんな小さな蓋一つ開けられないのか。
「ごめん……ごめんね、ソースケ……」
俺の隣で、泣きじゃくる声がした。
ネアだった。
彼女は俺の隣に力なく座り込み、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「私の暗示が効かなかったから……。私があの化け物の目を逸らせなかったから……っ」
ネアは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら謝り続けている。
「違う、お前のせいじゃない……!」
俺はポーションの蓋と格闘しながら、叫ぶように返した。
悪いのは俺だ。俺の無謀な作戦が、彼女の暗示の限界を見誤っていたことがすべての原因だ。
ネアに責任を感じさせるわけにはいかない。 俺はネアの方へ顔を向けた。
「お前は悪くない。だから泣く……な……」
俺の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
俺は、見たのだ。
「うわあああん……セレちゃん、死なないで……血、いっぱい出てる……!」
ネアは顔を覆っていた手を下ろし、泣きながらセレスの傷口を押さえようと身を乗り出した。
めくれ上がった甲冑の隙間。とめどなく溢れ出している赤い血の海。
彼女の小さな両手が、その傷口を塞ごうと懸命に伸ばされる。
だが。
俺の目の前で起きた光景は、俺のこれまでの認識を、世界そのものを、根底から粉々に打ち砕いた。
ネアの小さな手が。
血に濡れたセレスの体を。
悲しいほどに、完全に
物理的な接触が、一切ない。
ただの幻影のホログラムが重なったように、ネアの手はセレスの甲冑と肉体を透過していた。
必死に傷口を押さえようとしているはずの彼女の手のひらには、セレスの血が一滴すら付着していない。
衣服の袖が血に染まることもなく、そこにあるのはただ、重さも質量も持たない『映像』だけだった。
「え……?」
俺の喉から、間の抜けた音が漏れた。
ようやく蓋の開いたポーションの小瓶が、スルリと滑り落ち、偶然、セレスの体へと転がった。
俺の時間が、完全に停止した。
思考が白く塗り潰され、ただ目の前の矛盾した光景だけが脳髄に焼き付いていく。
手が、すり抜けた。
血が、ついていない。
彼女は、物理的にそこに存在していない。
(……ああ、そうか)
俺の心の中に、すとんと、ひどく冷たい氷の塊が落ちてきたような感覚があった。
繋がった。
すべてが、完全に繋がった。
魔導コンロの火の粉が落ちても、熱がらなかったネア。焦げなかった服。
俺が水筒を渡して彼女が飲んだ後も、一ミリも減っていなかった重さと水量。
百足の魔物が、俺の指示で放たれたはずのネアの暗示に一切引っかからなかったこと。
七十九層の怪鳥が、ネアの魔法を完全に無視してセレスだけを狙い続けたこと。
つい先ほど、俺がこの八十層の主に向かって「ネア、暗示を掛けろ」と指示を出したにもかかわらず、骸の王は俺だけを正確に迎撃してきたこと。
なぜなら、彼らには最初から何も見えていなかったからだ。
ネアの魔法も、ネアの存在も。
俺はずっと前から気づいていたんだ。ただ、気づかないフリをしていただけだった。
俺が一人で虚空に向かって叫び、ありもしない連携を前提にして特攻を仕掛ける姿。
それが、セレスの目にどれほど狂気じみて見えていたことか。
だから彼女は泣いたのだ。「私が盾になるから、お前は下がれ」と、狂ってしまった俺を守ろうとして、あんな無謀な一撃の前に飛び出したのだ。
俺の視界の端で、ずっとミュートし続けてきたナノマシンの赤いアラートが、限界を超えて明滅していた。
【重大な精神汚染・自己認識の不一致を検知】
【視覚野における幻覚の投影を確認】
【記憶の不整合を検出】
俺が必死に目を背け、蓋をし続けてきた残酷な真実。
第七十層の黒焔火山。
俺を庇って黒炎に腹を貫かれた、あの瞬間。
『私を、忘れないで』
彼女が最期の力を振り絞って紡いだ、あの強烈な願い。
精神干渉魔法を得意とする魔人族の少女が、死の間際に放った絶対的な自己暗示。
それが俺の脳の認識を強制的に書き換え、俺の心とナノマシンの隙間に入り込み、この残酷で優しい幻影を生み出し続けていたのだ。
彼女は、もういない。
ずっと前に、俺の腕の中で死んでいたのだ。
カチッ、と。
俺の脳内で、これまで強引に抑え込んできたナノマシンのシステムが、ついに行動を起こす音がした。
これ以上の精神の破綻は宿主の死に直結すると判断し、安全装置が強制的に作動したのだ。
【精神干渉による致命的な危機を検知】
【宿主の生命維持を最優先とします】
【自己防衛のため、エラーコードの強制消去を実行します】
脳髄に直接響く無機質なアナウンス。
その瞬間、俺の視界が激しく、チカチカと明滅し始めた。
俺の隣で、セレスの傷を押さえようとしていたネアの姿に、激しいノイズが走った。
まるで電波の悪い旧式のホログラム映像のように、彼女の体が青白く乱れ、半透明に透け始める。
薄緑色のチュニックも、紫色の瞳も、空間の背景に溶け込むようにチカチカと点滅を繰り返していた。
「あ……」
ネアが、自分の透け始めた両手を見た。
セレスの血をすり抜けてしまった、自分の存在しない手。
彼女は驚いたように目を瞬かせ、それから、すべてを悟ったような顔をした。
ノイズ混じりのホログラムのように明滅するネアは、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
そして、ひどく悲しそうに、けれどどこか安心したように、ふわりと微笑んだ。
「もう……お別れみたい」
彼女の声は、かすれ、遠くのラジオのノイズのように途切れ途切れになって俺の耳に届いた。
ナノマシンの強制消去プログラムが、俺の脳内に焼き付いていた彼女の暗示を、一つ残らずデリートしようとしているのだ。
俺の心臓が、鷲掴みにされたように激しく痛んだ。
息ができない。
嘘だ。
嫌だ。
消えるな。
俺は震える手を伸ばし、消えかかっている彼女の幻影に触れようとした。