異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第149話 解ける暗示

 俺は震える手を伸ばし、消えかかっている彼女の幻影に触れようとした。

 

「待て、ネア、お前……消えるな!」

 

 声が裏返り、無様な叫びとなって喉から絞り出された。

 伸ばした俺の指先が、明滅する彼女の肩に触れる。

 

 だが、そこには何の感触もなかった。

 

 今まで当たり前のように存在していた布の柔らかさも、その下にある体温も、すべてがすっぽりと抜け落ちている。指はただ、ひんやりとした洞窟の空気を掻き切るだけだった。

 

「なんで……なんでだよっ……!」

 

 俺の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 ボロボロとこぼれ落ちる熱い滴が、血塗れの骨の床を濡らしていく。

 

 分かっていた。頭の奥底では、ずっと前から気づいていたのだ。

 俺の手に伝わっていたあの熱も、水筒を手渡した時の重みも、手を繋いだ時のあの心地よい温かさも。

 すべては、俺の壊れた脳が作り出したただの幻覚だったのだと。

 

 第七十層の火口の底。

 俺を庇い、腹部を貫かれた彼女が、死の淵で最期に俺へ向けた強烈な願い。

 

 精神干渉魔法を得意とする魔人族の少女が、己の命と引き換えに放った絶対的な自己暗示。

 それは、ただの言葉ではなかった。

 

 彼女が死ぬという現実を受け入れきれなかった俺の脆弱な精神と、ナノマシンのインターフェースの隙間に入り込み、システムのバグとして完全に定着してしまったのだ。

 

 俺を絶望から守るために、俺の脳が彼女の暗示を受け入れ、この残酷で優しい幻影を生み出し続けていた。

 だが、その防衛機構が今、ナノマシンの強制消去プログラムによって、無慈悲に引き剥がされようとしている。

 

 視界の端で、赤いアラートが冷酷に文字を連ねていく。

 

【エラーコードのデリートを進行中】

 

【視覚野の補正を解除】

 

【聴覚野の補正を解除】

 

 システムが正常化していくたびに、ネアの姿はさらに激しくノイズに塗れ、半透明に透き通っていく。

 彼女の鮮やかだった紫色の瞳も、お気に入りだった薄緑色のチュニックも、まるで砂絵が風に吹かれて崩れていくように、パラパラと空間に溶け出していた。

 

「泣かないで、ソースケ」

 

 ネアの輪郭が、煙のように薄れていく中で、彼女は俺の頬にそっと手を伸ばした。

 

 もちろん、その手が俺の肌に触れることはない。

 物理的な接触はないのに、俺の脳だけが、彼女の優しい撫で方を記憶として再生してしまっている。それが余計に、俺の心をズタズタに切り裂いた。

 

「役に立たないどころか……邪魔ばっかりしちゃったな……」

 

 ネアの幻影は、ひどく困ったように眉を下げ、自嘲気味に笑った。

 

「私がいるフリなんてしちゃったから、ソースケ、一人で変な動きして、リリさんや、セレちゃんを困らせちゃったんだよね。……本当にごめんね」

 

「違う! お前のせいじゃない!」

 

 俺は首を激しく横に振り、溢れる涙を拭うことすら忘れて叫んだ。

 

「俺が弱かったからだ! 俺がお前が死んだ現実から逃げて、お前の幻影に縋り付いてただけだ! お前は何も悪くない、俺のせいだっ……!」

 

 自分がどれほど滑稽で、無様なピエロだったかを、今更ながらに痛感していた。

 

 虚空に向かって指示を出し、虚空に向かって笑いかけ、いないはずの存在を前提にして作戦を組み立てていた。

 

 セレスは、そんな狂った俺の姿をずっと後ろで見ていたのだ。

 そして、狂った俺の無謀な突撃をカバーするために、魔力が枯渇した体で盾となり、あんなにも無惨に切り捨てられた。

 

 俺が現実から目を背けていなければ、こんな最悪の事態にはならなかった。

 

「ソースケのせいじゃないよ。私ね、ソースケが私のこと、ずっと隣にいるって信じてくれて……嬉しかったんだ」

 

 チカチカと点滅する彼女の顔に、いつものような無邪気な笑顔が浮かぶ。

 幻影であるはずの彼女が、まるで彼女自身の残滓として、本当にそこで意思を持っているかのように俺に語りかけていた。

 

「本当は、ずっと一緒にいたかったけど……」

 

 彼女の声が、不規則な電子音のノイズに塗れ、プツプツと途切れ始める。

 消去プログラムが最終段階に入り、俺の脳から彼女の存在を完全に消し去ろうとしているのだ。

 

「もう、君は現実を見なくちゃいけないよ」

 

 透き通っていく彼女が、俺の背後、血の海に倒れ伏しているセレスの方へと視線を向けた。

 

「セレちゃんを、助けてあげて」

 

「ネア……!」

 

 俺は這いつくばったまま、必死に両手を伸ばした。

 消えゆく彼女の体を、その肩を、せめてもう一度だけ抱きしめたかった。

 

 だが、今度は完全にすり抜けた。

 指先には、骨の闘技場に吹き込む冷たい風の感触しかない。

 

 もう、あの温かさはどこにもなかった。

 

 俺の手の中にあったはずの小さな光は、完全に幻だったのだ。

 

「いやだ、行かないでくれ……! 頼む、消えないでくれッ!」

 

 俺は子供のように泣き叫び、何もない虚空をかき抱こうとした。

 

 仲間を喪いたくない。

 

 この冷たい迷宮で、また一人になるのは嫌だ。

 あの優しくて無邪気な声が、もう二度と聞けないなんて、認めたくなかった。

 

 だが、現実は俺の祈りなど一顧だにしない。

 

【エラーコードの強制消去、完了】

 

 ナノマシンの無機質な通知が脳内に響いた瞬間。

 

「ばいばい、ソースケ……もう一回だけ、わがまま言っちゃおうかな」

 

 ネアの幻影は、最後にとびきり明るい、太陽のような笑顔を浮かべた。

 

「私のこと、忘れないでね」

 

 その言葉を最後に。

 彼女の姿は、パラリと光の粒子になることすらなく、古いテレビの電源が落ちるように、完全に空間に溶け、消滅した。

 

 何も残らなかった。

 

 声も。

 

 匂いも。

 

 温もりも。

 

 俺の心に掛けられていた優しい魔法は解け、剥き出しの真実だけが俺の網膜を容赦なく刺した。

 

 後に残されたのは、血まみれになってピクリとも動かないセレスと。

 

 ズシン、ズシンと、重厚な足音を立てて迫り来る第八十層の主、『骸の王』の巨大な影だけ。

 周囲を取り囲む数百体のスケルトン兵士たちが、カシャカシャと錆びた剣を鳴らしながら、無防備な俺たちを蹂躙しようと距離を詰めてきている。

 

 完全な、そして純粋な絶望。

 俺の作り上げていた脆い箱庭は粉砕され、逃げ場のない現実が、圧倒的な質量となって俺の全身を押し潰してきた。

 

「ああ……ああああああ…………」

 

 俺の喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。

 両手は血まみれの骨の床を掻きむしり、爪が剥がれて血が滲む。

 

 もう、どうすることもできない。

 俺は、俺自身の手で、すべてを壊してしまったのだ。

 

「ネアァァァァァァッ!!」

 

 俺の絶叫が、骨の闘技場に虚しく響き渡る。

 

 暗示が完全に解け、俺はずっと逃げ続けていた『現実』という名の重すぎる絶望に、ついに押し潰された。

 

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