異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第150話 崩れゆく世界

 骨の闘技場に、痛ましい絶叫が響き渡っていた。

 己の喉が裂けることも厭わず、蒼介はただ天を仰いで吠え続けていた。

 

 彼を絶望の淵から繋ぎ止めていた幻影は、もうどこにもない。

 優しい笑顔も、温かな手の感触も、すべては狂った脳が作り出した防衛機制に過ぎなかった。

 現実という名の重すぎる冷酷さが、剥き出しの刃となって蒼介の心を徹底的に蹂躙していく。

 

 ネアは死んだのだ。

 第七十層の火口の底で、蒼介を庇ってすでに命を散らしていた。

 

 その残酷な真実を、システムが強制的に蒼介へ突きつけた。

 彼の視界の端で明滅していたエラーコードは、もはや完全に消去されている。

 エラーが消えたことで得られたのは正常な認識だ。だがそれは、彼にとって発狂するほどの痛みと虚無を伴うものだった。

 

 両手で血まみれの骨の床を掻きむしり、蒼介はただ獣のように嗚咽を漏らした。

 爪が剥がれ、指先から血が滲んでも、心の痛みに比べれば何の意味も持たなかった。

 

 しかし、大迷宮は彼の悲しみに寄り添うほど優しくはなかった。

 第八十層の主『骸の王』が、ゆっくりと巨大な大剣を引き上げる。

 

 虚ろな眼窩の奥で揺れていた青白い鬼火は、いつしか血のような赤黒い光へと変貌していた。

 侵入者を徹底的に排除するという、純粋な殺意の表れである。

 周囲を取り囲む数百体のスケルトン兵士たちが、主の意志に呼応するように一斉に武器を構え直す。

 カシャカシャという乾燥した骨の音が、死へのカウントダウンのように闘技場に響いていた。

 

 蒼介の少し前方で、セレスティアが血の海の中に横たわっている。

 白銀の甲冑は無惨に砕け散り、彼女の肉体には絶望的な深手の傷が刻まれていた。

 

 幸運だったのは、蒼介が落とした最高級の回復ポーションの小瓶が、彼女の体の上で中身をこぼしていたことだ。

 青い液体がどす黒い血と混ざり合い、微かな魔力の光を放ちながら傷口へ浸透している。

 

 そのおかげで即死こそ免れているものの、依然として彼女の命の灯火は風前の灯だった。

 浅く微かな呼吸が、彼女がまだかろうじて生きていることだけを示している。

 

 骸の王が、悠然たる動作で大剣を頭上へと高く掲げた。

 刃に埋め込まれた巨大な魔石が、不吉な赤い光を放って周囲の空気を歪ませる。

 

 次の一撃で、倒れ伏すセレスも、絶望に沈む蒼介も、まとめてこの骨の絨毯の一部にするつもりだった。

 死の質量が、圧倒的な重圧となって蒼介の上にのしかかる。

 

 蒼介の瞳孔が開いていた。

 迫り来る巨大な刃を見上げながら、彼の脳裏には現在の光景ではないものが鮮明に映し出されていた。

 フラッシュバックである。

 

 かつて現代日本のダンジョンで、彼が最も恐れ、最も忌み嫌っていた光景。

 杜野。皐月。

 あの時も、俺は何もできなかった。

 ただ、大切なものが目の前で奪われていくのを眺めているだけだった。

 

 そして今、この異世界の大迷宮でも同じことを繰り返している。

 ネアの死から目を背け、狂気に逃げ込んでいた結果がこれだ。

 セレスまでもが、己の命を投げ出して盾となった。

 

(また、俺は失うのか……?)

 

 蒼介の心の中で、声にならない叫びが木霊した。

 ドロドロに溶け出した自責の念が、彼の胸の奥底を真っ黒に染め上げていく。

 

(守るって、誓ったのに……!)

 

 ネアの笑顔が脳裏をよぎる。

 セレスの不器用な優しさが思い出される。

 

 彼女たちは、こんな泥臭い自分を心から信頼し、背中を預けてくれたのだ。

 それなのに、自分は己の弱さのせいで、再びすべてを手のひらからこぼし落とそうとしている。

 極限の自己嫌悪が、蒼介の精神を完全に粉砕しようとした。

 

 その瞬間だった。

 彼の肉体を巡るナノマシンが、宿主の決定的な生命の危機と精神の崩壊を検知した。

 

 インターフェースが異常な速度で明滅を始める。

 システムは、このままでは確実に死に至ると判断した。

 生存への絶対的なプログラムが、宿主の意志を無視して強制的に介入を開始する。

 

 ピィィィィィンッ!!

 

 脳内で鳴り響いた警告音は、これまでとは全く異なる異質なものだった。

 網膜を埋め尽くす赤いエラーログが、処理限界を超えて次々と焼き切れていく。

 

 ナノマシンの制御コアが、リミッターと呼ばれるすべての安全装置を物理的に破壊したのだ。

 レッドゾーンへの突入。

 異常なオーバードライブが、蒼介の神経系と筋繊維を暴力的なまでに作り変え始めた。

 

 ブチブチと筋肉が引き千切れるような音が、体内から直接響く。

 本来ならば発狂して死に至るほどの激痛だ。

 

 だがナノマシンは、蒼介の痛覚神経を物理的に切断し、一切の苦痛を脳に伝達させなかった。

 代わりに送り込まれたのは、生存本能のみを極限まで先鋭化させた闘争ホルモンの濁流である。

 

 骸の王の大剣が、凄まじい風切り音と共に振り下ろされた。

 空間を両断し、確実に二人を粉砕する死の軌道。

 大剣が骨の床に激突するまで、わずかコンマ数秒の世界。

 

 その刹那の時間が、オーバードライブ状態の蒼介の目には、完全に静止しているかのように引き伸ばされて見えた。

 

 蒼介の瞳から、人間らしい感情の光が完全に消え失せた。

 絶望も、悲しみも、自己嫌悪も、すべてが空白に塗り潰されている。

 そこにあるのは、ただ一つ。

 目の前の仲間を死なせないという、原始的で絶対的な本能だけだった。

 

「…………」

 

 声は出さなかった。

 呼吸すらも止まっていた。

 

 蒼介は無意識のまま、【迅速(ブースト)】のスキルを完全解除の状態で発動させた。

 

 ドッッッ!!

 

 蒼介の足元の白骨が、爆発物でも仕掛けられたかのように粉々に吹き飛んだ。

 踏み込みの反発力だけで、闘技場の岩盤に深いクレーターが穿たれる。

 

 振り下ろされる大剣の刃が、セレスの体に触れる数ミリ手前。

 蒼介の姿は、そこから完全に掻き消えていた。

 

 ズゴォォォォンッ!!

 

 骸の王の巨大な大剣が床に激突し、凄まじい衝撃波が巻き起こった。

 数え切れないほどの骨の破片が散弾となって宙を舞い、巨大な亀裂が闘技場の中央に走る。

 圧倒的な破壊力だ。

 直撃すれば、塵も残らなかっただろう。

 

 だが、大剣が砕いたのはただの骨の絨毯だけだった。

 もうもうと立ち込める土煙の向こう側。

 骸の王の攻撃の射程圏外となる、闘技場の壁際に近い場所。

 そこに、蒼介は静かに着地していた。

 

 彼の左腕には、血まみれになって気を失っているセレスの体が、しっかりと抱え上げられている。

 コンマ数秒の間に、彼女を抱え込み、致死の領域から完全に退避してみせたのだ。

 人間の限界を遥かに超えた、神速の移動。

 だがその代償は小さくない。蒼介の両足からは、皮膚を突き破って筋肉の繊維が露出し、どす黒い血が絶え間なく流れ落ちていた。

 

 それでも、蒼介の顔には一切の苦悶の表情はない。

 ハイライトを失った虚ろな瞳が、ただ真っ直ぐに骸の王の巨体を捉えている。

 

 彼の右手に握られたサバイバルナイフが、微かにカタカタと震えていた。

 感情を殺し、痛みを消し去り、ただ戦うための生きた機械と化した男。

 

 大迷宮の最深部で、狂気を超えた本能の反撃が始まろうとしていた。

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