異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
骨の闘技場に、痛ましい絶叫が響き渡っていた。
己の喉が裂けることも厭わず、蒼介はただ天を仰いで吠え続けていた。
彼を絶望の淵から繋ぎ止めていた幻影は、もうどこにもない。
優しい笑顔も、温かな手の感触も、すべては狂った脳が作り出した防衛機制に過ぎなかった。
現実という名の重すぎる冷酷さが、剥き出しの刃となって蒼介の心を徹底的に蹂躙していく。
ネアは死んだのだ。
第七十層の火口の底で、蒼介を庇ってすでに命を散らしていた。
その残酷な真実を、システムが強制的に蒼介へ突きつけた。
彼の視界の端で明滅していたエラーコードは、もはや完全に消去されている。
エラーが消えたことで得られたのは正常な認識だ。だがそれは、彼にとって発狂するほどの痛みと虚無を伴うものだった。
両手で血まみれの骨の床を掻きむしり、蒼介はただ獣のように嗚咽を漏らした。
爪が剥がれ、指先から血が滲んでも、心の痛みに比べれば何の意味も持たなかった。
しかし、大迷宮は彼の悲しみに寄り添うほど優しくはなかった。
第八十層の主『骸の王』が、ゆっくりと巨大な大剣を引き上げる。
虚ろな眼窩の奥で揺れていた青白い鬼火は、いつしか血のような赤黒い光へと変貌していた。
侵入者を徹底的に排除するという、純粋な殺意の表れである。
周囲を取り囲む数百体のスケルトン兵士たちが、主の意志に呼応するように一斉に武器を構え直す。
カシャカシャという乾燥した骨の音が、死へのカウントダウンのように闘技場に響いていた。
蒼介の少し前方で、セレスティアが血の海の中に横たわっている。
白銀の甲冑は無惨に砕け散り、彼女の肉体には絶望的な深手の傷が刻まれていた。
幸運だったのは、蒼介が落とした最高級の回復ポーションの小瓶が、彼女の体の上で中身をこぼしていたことだ。
青い液体がどす黒い血と混ざり合い、微かな魔力の光を放ちながら傷口へ浸透している。
そのおかげで即死こそ免れているものの、依然として彼女の命の灯火は風前の灯だった。
浅く微かな呼吸が、彼女がまだかろうじて生きていることだけを示している。
骸の王が、悠然たる動作で大剣を頭上へと高く掲げた。
刃に埋め込まれた巨大な魔石が、不吉な赤い光を放って周囲の空気を歪ませる。
次の一撃で、倒れ伏すセレスも、絶望に沈む蒼介も、まとめてこの骨の絨毯の一部にするつもりだった。
死の質量が、圧倒的な重圧となって蒼介の上にのしかかる。
蒼介の瞳孔が開いていた。
迫り来る巨大な刃を見上げながら、彼の脳裏には現在の光景ではないものが鮮明に映し出されていた。
フラッシュバックである。
かつて現代日本のダンジョンで、彼が最も恐れ、最も忌み嫌っていた光景。
杜野。皐月。
あの時も、俺は何もできなかった。
ただ、大切なものが目の前で奪われていくのを眺めているだけだった。
そして今、この異世界の大迷宮でも同じことを繰り返している。
ネアの死から目を背け、狂気に逃げ込んでいた結果がこれだ。
セレスまでもが、己の命を投げ出して盾となった。
(また、俺は失うのか……?)
蒼介の心の中で、声にならない叫びが木霊した。
ドロドロに溶け出した自責の念が、彼の胸の奥底を真っ黒に染め上げていく。
(守るって、誓ったのに……!)
ネアの笑顔が脳裏をよぎる。
セレスの不器用な優しさが思い出される。
彼女たちは、こんな泥臭い自分を心から信頼し、背中を預けてくれたのだ。
それなのに、自分は己の弱さのせいで、再びすべてを手のひらからこぼし落とそうとしている。
極限の自己嫌悪が、蒼介の精神を完全に粉砕しようとした。
その瞬間だった。
彼の肉体を巡るナノマシンが、宿主の決定的な生命の危機と精神の崩壊を検知した。
インターフェースが異常な速度で明滅を始める。
システムは、このままでは確実に死に至ると判断した。
生存への絶対的なプログラムが、宿主の意志を無視して強制的に介入を開始する。
ピィィィィィンッ!!
脳内で鳴り響いた警告音は、これまでとは全く異なる異質なものだった。
網膜を埋め尽くす赤いエラーログが、処理限界を超えて次々と焼き切れていく。
ナノマシンの制御コアが、リミッターと呼ばれるすべての安全装置を物理的に破壊したのだ。
レッドゾーンへの突入。
異常なオーバードライブが、蒼介の神経系と筋繊維を暴力的なまでに作り変え始めた。
ブチブチと筋肉が引き千切れるような音が、体内から直接響く。
本来ならば発狂して死に至るほどの激痛だ。
だがナノマシンは、蒼介の痛覚神経を物理的に切断し、一切の苦痛を脳に伝達させなかった。
代わりに送り込まれたのは、生存本能のみを極限まで先鋭化させた闘争ホルモンの濁流である。
骸の王の大剣が、凄まじい風切り音と共に振り下ろされた。
空間を両断し、確実に二人を粉砕する死の軌道。
大剣が骨の床に激突するまで、わずかコンマ数秒の世界。
その刹那の時間が、オーバードライブ状態の蒼介の目には、完全に静止しているかのように引き伸ばされて見えた。
蒼介の瞳から、人間らしい感情の光が完全に消え失せた。
絶望も、悲しみも、自己嫌悪も、すべてが空白に塗り潰されている。
そこにあるのは、ただ一つ。
目の前の仲間を死なせないという、原始的で絶対的な本能だけだった。
「…………」
声は出さなかった。
呼吸すらも止まっていた。
蒼介は無意識のまま、【
ドッッッ!!
蒼介の足元の白骨が、爆発物でも仕掛けられたかのように粉々に吹き飛んだ。
踏み込みの反発力だけで、闘技場の岩盤に深いクレーターが穿たれる。
振り下ろされる大剣の刃が、セレスの体に触れる数ミリ手前。
蒼介の姿は、そこから完全に掻き消えていた。
ズゴォォォォンッ!!
骸の王の巨大な大剣が床に激突し、凄まじい衝撃波が巻き起こった。
数え切れないほどの骨の破片が散弾となって宙を舞い、巨大な亀裂が闘技場の中央に走る。
圧倒的な破壊力だ。
直撃すれば、塵も残らなかっただろう。
だが、大剣が砕いたのはただの骨の絨毯だけだった。
もうもうと立ち込める土煙の向こう側。
骸の王の攻撃の射程圏外となる、闘技場の壁際に近い場所。
そこに、蒼介は静かに着地していた。
彼の左腕には、血まみれになって気を失っているセレスの体が、しっかりと抱え上げられている。
コンマ数秒の間に、彼女を抱え込み、致死の領域から完全に退避してみせたのだ。
人間の限界を遥かに超えた、神速の移動。
だがその代償は小さくない。蒼介の両足からは、皮膚を突き破って筋肉の繊維が露出し、どす黒い血が絶え間なく流れ落ちていた。
それでも、蒼介の顔には一切の苦悶の表情はない。
ハイライトを失った虚ろな瞳が、ただ真っ直ぐに骸の王の巨体を捉えている。
彼の右手に握られたサバイバルナイフが、微かにカタカタと震えていた。
感情を殺し、痛みを消し去り、ただ戦うための生きた機械と化した男。
大迷宮の最深部で、狂気を超えた本能の反撃が始まろうとしていた。