異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第151話 泥まみれの意地

 轟音と共に砕け散った骨の絨毯の土煙が晴れていく。

 闘技場の壁際に近い安全地帯で、蒼介は抱え上げていたセレスティアの体を、岩壁の影へと静かに横たえた。

 

 彼女の白銀の甲冑は完全にひしゃげ、各所からどす黒い血が流れ出している。浅く、不規則な呼吸が、彼女の命が今にも尽きようとしていることを残酷に物語っていた。

 蒼介のハイライトを失った虚ろな瞳が、彼女の顔を一度だけ見下ろす。

 感情は、ない。

 ナノマシンのレッドゾーン突入による強制的な痛覚遮断と、過剰分泌された闘争ホルモンが、彼から人間らしい感傷をすべて剥ぎ取っていた。

 

(死なせない)

 

 ただその一つの原始的な本能だけが、蒼介という生きた機械を駆動させている。

 彼はゆっくりと立ち上がり、手に持っていたサバイバルナイフの柄を強く握り直した。

 

 背後では、第八十層の主『骸の王』が、標的を逃した怒りに空洞の眼窩の赤い光を激しく明滅させている。

 カシャカシャという乾燥した音が四方から押し寄せていた。数百体にも及ぶスケルトン兵士たちが、再び侵入者を蹂躙すべく陣形を立て直し、殺到してくる音だ。

 

 蒼介は無言のまま、迫り来る死者の軍勢へと歩みを進めた。

 一歩、また一歩。

 その足取りに迷いはない。彼を阻むすべてを破壊するためだけに、蒼介は地を蹴った。

 

 最前列のスケルトン兵士が、錆びた長剣を蒼介の首筋へと振り下ろす。

 だが、リミッターを完全解除した蒼介の視界では、その動きは止まっているも同然だった。

 

迅速(ブースト)】の常時発動。

 蒼介の体がブレたかと思うと、彼はすでにスケルトンの懐に潜り込んでいた。

 ナイフが閃き、頸椎の骨を正確に切断する。

 ガラガラと崩れ落ちる骨の残骸を足場にして、蒼介はさらに群れの奥へと跳躍した。

 

 斬る。砕く。弾き飛ばす。

 蒼介は黒い旋風となって、スケルトンの群れを次々と粉砕していった。

 

 しかし、圧倒的な数の暴力は、いくら超高速の機動力を持っていようとも完全に回避できるものではない。

 

 背後から迫った骨の槍が、蒼介の右の太ももを深々と貫通した。

 ブチリと筋繊維が千切れ、鮮血が空中に飛び散る。

 

 常人であれば、その激痛とショックで即座に昏倒するほどの一撃だ。

 だが、蒼介の表情は一切変わらなかった。

 眉一つ動かさず、彼は自分の太ももを貫いた槍の柄を左手で無造作に掴むと、力任せに引き抜いたのだ。

 血の尾を引いて抜けた槍をそのまま奪い取り、背後のスケルトンの頭蓋骨へと叩き込む。

 

 痛みがない。

 恐怖もない。

 死の軍勢の中で、蒼介は自らの血を振り撒きながら狂鬼の如き戦いを続けていた。

 左腕の骨に鈍器の直撃を受けてヒビが入っても、脇腹を剣で浅く切り裂かれても、彼の行動には一瞬の淀みすら生じない。

 

『ソウスケさん……! ああ……!』

 

 腰のペンダントの中で、リリアーナの魂が悲鳴のような声を上げていた。

 彼女には、蒼介の命の炎が異常な速度で燃え尽きようとしているのがはっきりと感じ取れた。

 痛覚を遮断しているだけで、肉体的なダメージは確実に蓄積している。このままでは、敵を全滅させる前に彼の肉体そのものが崩壊してしまう。

 

(届かない……)

 

 スケルトンの波を掻き分け、蒼介は骸の王の足元まで肉薄していた。

 巨大なアンデッドの王が、見下ろすように大剣を振りかぶる。

 蒼介は【迅速(ブースト)】の出力を上げ、大剣の軌道を紙一重で躱しながら、王の巨大な足の骨へとナイフを突き立てた。

 

 ガギィィィンッ!

 

 硬質な金属音が闘技場に響き渡った。

 火花が散る。

 ナノマシンで分子レベルまで強化されたサバイバルナイフの刃が、王の骨の装甲に阻まれ、無惨にも刃こぼれを起こしたのだ。

 

 火力不足。

 それが、蒼介の前に立ちはだかる絶望的な現実だった。

 圧倒的な速度と手数で雑兵を散らすことはできても、主を仕留めるための一撃の重さが、彼には決定的に欠けている。

 骸の王の胸の奥で赤黒く脈打つ魔石。あそこまで刃を届かせる手段が、今の蒼介には存在しなかった。

 

 骸の王が、鬱陶しい羽虫を払うかのように、巨大な骨の蹴りを放つ。

 蒼介は咄嗟に両腕を交差させて防御したが、その圧倒的な質量の前には無意味だった。

 

 ボールのように弾き飛ばされ、数十メートル先の骨の壁に激突する。

 口から大量の血が吐き出され、全身の骨が悲鳴を上げた。

 それでも、蒼介は虚ろな瞳のまま、機械仕掛けの人形のように再び立ち上がろうとしていた。

 

「ソウ……スケ……」

 

 その時。

 静寂と狂気が支配する闘技場の片隅で、微かな、掠れた声が響いた。

 血の海の中で倒れ伏していたセレスティアが、ゆっくりと目を開いたのだ。

 

 視界は赤く濁り、全身の感覚は麻痺している。

 だが彼女の目には、自分を守るために一人で立ち向かい、血だるまになってなお立ち上がろうとする蒼介の姿が鮮明に映っていた。

 太ももから血を流し、腕が不自然な方向に曲がりながらも、彼は無感情な顔で骸の王を見据えている。

 

(あいつ……痛覚を絶っているのか……)

 

 セレスは、彼がもう正気ではないことを悟った。

 仲間を失った絶望と、自分だけを守り抜こうとする強迫観念が、彼を生きた兵器へと変えてしまったのだ。

 

(お前が、お前が死んでどうする……!)

 

 セレスは歯を強く食いしばり、折れ曲がった白銀の槍の柄を震える手で掴んだ。

 魔力は完全に枯渇している。動けば傷口が開き、命がこぼれ落ちていくのがわかる。

 それでも彼女は、折れた槍を杖にして、強引に上体を起こした。

 

「セレス!? 動くな!」

 

 彼女が立ち上がった気配を察知し、蒼介が初めて感情を露わにして叫んだ。

 その声には、彼女まで失うことへの根源的な恐怖が滲んでいた。

 

「お前を……一人で死なせはしない……!」

 

 セレスは血に染まった唇の端を吊り上げ、力弱く、だが誇り高く微笑んでみせた。

 彼女は槍の穂先を、遥か彼方にそびえ立つ骸の王へと向ける。

 

 体内に残された最後の一滴の生命力を、魔力へと強制的に変換していく。

 それは魔法剣士としての禁忌。自らの寿命を燃やす行為だ。

 

 エッケハルト家に代々伝わる秘術。

 彼女の全身から、細く、だが鋭い青白いプラズマが立ち上り始めた。

 

「雷霆よ……我が命を喰らい、かの邪悪を縛れ……ッ!」

 

 セレスの絶叫と共に、槍の穂先から一条の極太の雷光が迸った。

 それは光の矢となってスケルトン兵士たちの隙間を縫い、真っ直ぐに骸の王の巨大な胴体へと突き刺さった。

 

 バリバリバリッ!!

 

 轟音と共に、骸の王の巨体が激しい雷の縛鎖に包み込まれる。

 命を削って放たれたその魔法は、王を打ち倒すほどの絶対的な火力は持っていなかった。

 しかし、強烈な雷の魔力がアンデッドの骨格を麻痺させ、魔力の循環を一時的にショートさせる。

 

「グォォォ……ッ」

 

 骸の王の動きが、完全に停止した。

 振り上げられていた大剣が空中で止まり、虚ろな眼窩の赤い光が明滅を繰り返す。

 数秒。

 主を縛り付けることができるのは、わずか数秒が限界だった。

 

(今!)

 

 セレスが作ってくれた、起死回生の絶対的な隙。

 蒼介の脳裏に、かつてないほど鮮明な勝利のビジョンが組み上がった。

 火力が足りないなら、強引に補えばいい。

 

「リリア! 魔力砲だ!」

 

 蒼介は喉が裂けるほどの声で叫び、右手に握ったサバイバルナイフを胸の前に構えた。

 

「俺を撃ち出せ!!」

 

 その狂気じみた要求に、ペンダントの中で祈り続けていたリリアーナの魂が震えた。

 王女としての知識が、その作戦の危険性を即座に弾き出す。

 純粋な魔力の奔流である『魔力砲』を、推進力として利用するなど狂気の沙汰だ。肉体そのものが吹き飛びかねない。

 

 だが、リリアは迷わなかった。

 彼女は五百年の孤独の中で、蒼介という男の決して折れない覚悟を誰よりも近くで見続けてきたのだ。

 彼が生きると決めたのなら、それにすべてを賭けるのが相棒の務めだ。

 

『承知いたしましたわ!!』

 

 リリアの気高き声が脳内に響き渡る。

 銀のペンダントから、これまでに吸収し蓄積してきた迷宮の魔力が、限界まで圧縮されていく。

 そして。

 

『放てェェェッ!』

 

 リリアの叫びと共に、ペンダントから青白い純粋な魔力の奔流が爆発的に解き放たれた。

 指向性を持った極太の光の柱が、蒼介の背後へと噴出する。

 蒼介は【迅速(ブースト)】を限界突破のさらに先、命の最後の一滴まで絞り出すようにフル稼働させた。

 

 ナノマシンの極限加速と、魔力砲の圧倒的な推進力。

 二つのベクトルが完全に融合した瞬間、蒼介の体は物理法則を完全に置き去りにした。

 

 ドンッ!!

 

 音の壁を突破した衝撃波が、円形闘技場の白骨の絨毯を円形に吹き飛ばした。

 蒼介の姿はもはや誰の目にも見えない。

 彼は光の槍そのものとなって、動きを止めている骸の王の胸元へと一直線に突き進んだ。

 

「オオオオオォォォォォッ!!」

 

 蒼介の咆哮が、魔力の轟音に混じって響き渡る。

 彼が前方に突き出したサバイバルナイフは、すべてを貫く絶対の矛だ。

 

 ガガァァァァァンッ!!!

 

 蒼介のナイフが、骸の王の分厚い胸骨に激突した。

 刃こぼれを起こしていたはずの鋼の刃が、魔力砲の推進力と超音速の運動エネルギーによって、硬質な骨の装甲を紙のように容易く穿ち抜く。

 そのまま刃は深部へと到達し、赤黒く脈打っていた核の魔石を正確に捉えた。

 

 パキィィィンッ!

 

 鼓膜を破るような甲高い破砕音が、空間を切り裂いた。

 第八十層の主の生命線である巨大な魔石が、蒼介の一撃によって完全に粉砕されたのだ。

 

「グオオオオオォォォォ……ッ」

 

 骸の王が、断末魔の呻きを上げながら天を仰いだ。

 核を失った巨体は形を維持することができず、内側から崩壊を始める。

 

 漆黒のボロ布が千切れ飛び、巨大な骨のパーツがバラバラに分離して、地響きと共に闘技場の床へと崩れ落ちていった。

 

 主の死。

 それは、この階層を支配していた死の魔力の消滅を意味していた。

 

 王の崩壊と連動するように、周囲を取り囲んでいた数百体のスケルトン兵士たちが、一斉に動きを止める。

 彼らの眼窩に灯っていた青白い鬼火がフッと消え去り、次々と砂のように崩れ落ちて、ただの骨の粉となって霧散していった。

 

 広大な円形闘技場に、完全な静寂が戻ってきた。

 舞い上がった骨の粉塵が、ゆっくりと空中に漂っている。

 

「……」

 

 骸の王の残骸の上に、蒼介は縫い付けられたように立ち尽くしていた。

 右手にナイフを握りしめたまま、彼の視線は宙を泳いでいる。

 

 限界を遥かに超えたナノマシンが、ついに完全にショートしたのだ。

 脳を保護していた痛覚遮断のシステムが解除され、遅れてやってきた凄まじい激痛と疲労が、彼の神経を津波のように呑み込んだ。

 

 カラン、と。

 手からナイフが滑り落ち、骨の床に転がった。

 蒼介の瞳から完全に光が消え、白目を剥く。

 

 彼はそのまま糸の切れた操り人形のように、骸の王の骨の残骸の上へと、音もなく倒れ込んだ。

 動く者はもう誰もいない。

 

 大迷宮第八十層。誰も到達したことのない死の闘技場で、満身創痍の挑戦者たちは、完全なる勝利と引き換えに深く暗い眠りへと落ちていった。

 

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