異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
冷たい感覚が、頬を伝い落ちた。
ピチャリ、という微かな水音が耳の奥で反響する。
深い闇の底に沈んでいた蒼介の意識は、その微小な刺激によって強引に水面へと引き上げられた。
『ソウスケさん……! お願い、目を開けてくださいまし!』
どこか遠くで、悲痛な声が響いていた。
かすれ、震え、今にも泣き出しそうなその声の主は、間違いなくリリアーナのものだった。
蒼介は重い瞼を痙攣させ、ゆっくりと押し上げた。
ぼやけた視界に最初に飛び込んできたのは、煤けた銀色のペンダントだった。
そこから青白い魔力の光が微かに漏れ出し、空中で小さな水滴を形成しては、蒼介の顔へと落としている。物理的な肉体を持たないリリアが、蓄積した魔力を絞り出して水魔法を行使し、必死に彼の意識を呼び戻そうとしていたのだ。
「……リリア……」
ひび割れた唇から、砂を噛んだような乾いた声が漏れた。
『ああ、意識が……! よかったですわ、本当によかった……!』
ペンダントが安堵に震えるように瞬いた。
蒼介は体を起こそうと右腕に力を込めたが、全く感覚がなかった。視線を向けると、呪いの魔力を通した右腕は黒い木炭のようになっている。
全身の骨が粉々に砕け、筋繊維が一本残らず断裂しているかのような激痛が、遅れて脳髄を乱打した。
限界を遥かに超えたナノマシンのオーバードライブと、【
彼の肉体は、文字通り死の一歩手前で辛うじて形を保っている状態だった。
「ぐっ……、あぁっ……」
蒼介は歯を食いしばり、動く方の左手と両膝を使って、どうにか上体を起こした。
周囲を見渡す。
そこは、死の静寂に包まれた広大な円形闘技場だった。
無数のスケルトン兵士たちはすでに霧散し、ただの骨の粉となって風に吹かれている。
闘技場の中央には、大迷宮第八十層の主『骸の王』の巨大な骨の残骸が、小山のように崩れ落ちていた。
勝ったのだ。
だが、蒼介の心に勝利の喜びは一欠片も湧いてこなかった。
彼の頭の中にあったのは、ただ一つの事実だけだ。
「セレス……!」
蒼介は激痛に顔を歪めながら、這うようにして闘技場の壁際へと向かった。
そこには、骸の王の巨大な大剣をまともに受け、血の海に沈んでいるセレスティアの姿があった。
白銀の甲冑はひしゃげて肉に食い込み、彼女の周囲にはどす黒い血だまりが広がっている。
蒼介は血塗れの骨の床を這いずり、彼女の傍らに辿り着いた。
「セレス……おい、しっかりしろ!」
蒼介は震える左手で、腰のポーチをまさぐった。
テルスの街で大枚を叩いて買っておいた、最高級の回復ポーション。先ほど、幻覚に囚われていた俺が取り落とし、蓋が開いた状態で骨の山に転がっていたものだ。
幸いにも、中身はまだ半分ほど残っていた。
蒼介は小瓶を掴み取ると、セレスの口元へ近づけた。
彼女の呼吸は極端に浅く、唇は土気色に変色している。
蒼介は自分の服の袖で彼女の口元の血を拭い、ポーションの青い液体を少しずつ流し込んだ。
ゴクリ、と細い喉が動き、魔力を帯びた液体が彼女の体内へと吸収されていく。
ジュゥゥゥ、と肉が再生する微かな音が聞こえた。
致死の傷だった脇腹の裂傷が、ポーションの強力な治癒効果によって徐々に塞がっていく。
極限の魔力枯渇による顔色の悪さはそのままだが、彼女の胸の上下運動が、少しだけ力強さを取り戻したのが分かった。
「……よかった。死んで、ない」
蒼介は小瓶を落とし、深く、深く息を吐き出した。
彼女の命に別状はない。それだけを確認すると、彼を支えていた最後の緊張の糸が緩みそうになる。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
この階層は、もはや彼らが留まっていい場所ではないのだ。
「帰るぞ……セレス」
蒼介は動かない右腕を庇いながら、セレスの体を左腕一本で強引に引き寄せた。
激痛に脳が真っ白になりかけるが、ナノマシンのインターフェースからすべての痛覚警告を強制的にシャットダウンする。
彼はセレスの腕を自分の首に回し、渾身の力を込めて立ち上がった。
重い。
金属の甲冑を着込んだ彼女の体重は、ボロボロの蒼介の肉体には残酷なほどの負荷を強いた。
膝がガクガクと笑い、今にも骨の床に崩れ落ちそうになる。
だが蒼介は、歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、一歩、また一歩と前へ進んだ。
骸の王の玉座の奥。
主が消滅したことによって現れた、青白く光る巨大なポータル。
大迷宮第一層、テルスの街へと続く帰還の扉だ。
蒼介は振り返ることなく、ただその光だけを目指して歩き続けた。
背中には、微かな寝息を立てるセレスの重み。
腰には、静かに寄り添うリリアのペンダント。
だが、隣には。
あの薄緑色のチュニックを着て、「こっちだよ!」と笑いかけてくれる少女の姿は、もうどこにもなかった。
彼女の存在を補完していたナノマシンのエラーコードは完全に消去され、蒼介の脳は、冷酷な現実だけを正確に処理し続けている。
空虚な足音が、骨の闘技場に虚しく響いていた。
やがて、蒼介たちは青白いポータルの光の中へと吸い込まれ、第八十層の深い闇から姿を消した。
* * *
光の奔流を抜けた瞬間、生温かく湿った空気が一行を包み込んだ。
冒険者都市テルス。
転移陣から一歩外へ出ると、そこには当たり前の日常が広がっていた。
空には太陽が眩しく輝き、大通りには馬車が行き交い、商人たちの威勢の良い呼び込みの声が響いている。
あちこちから香ばしい肉の焼ける匂いや、スパイスの香りが漂ってくる。
人々が笑い合い、冒険者たちが武勇伝を語り合いながらジョッキを傾けている。
生命力に満ち溢れた、活気ある街の風景。
だが、蒼介の瞳には、そのすべてがひどく薄気味悪いものに映った。
太陽の光は眩しすぎる。
人々の笑い声は耳障りなノイズだ。
街の色彩が、赤も青も緑もすべてが抜け落ちて、まるで古いモノクロ写真のように白黒に色褪せて見えた。
彼の内面が完全に死に絶えていることを、世界が映し出しているかのようだった。
「おい、見ろよあれ……」
「ひどい怪我だ。どこから帰ってきたんだ?」
通りを歩く人々が、蒼介たちの凄惨な姿を見て道を空け、ヒソヒソと囁き交わしている。
蒼介の服は血と泥と煤で汚れ、右腕は炭化し、足を引きずりながらセレスを背負っている。その姿は、地獄の底から這い出してきた亡者のようだっただろう。
だが蒼介は、周囲の視線など微塵も気にならなかった。
彼には、この街の風景と重なるように、一つの記憶の残滓がフラッシュバックし続けていたのだ。
『蒼介! セレちゃん! あれ何!? いい匂いがする!』
串焼きの屋台の横を通り過ぎた時、幻聴が聞こえた。
目を輝かせて駆け出していく紫色の髪の少女。
慌てて追いかける自分と、苦笑するセレス。
『えへへ、似合うかな?』
仕立屋のショーウィンドウに映ったのは、新しい服を着てくるりと回る彼女の笑顔。
『私、外の世界に出てよかった。蒼介たちみたいな素敵な仲間に、出会えたから』
夕暮れの丘の上で、彼女がぽつりとこぼした言葉。
すべてが、ほんのすこし前の出来事だ。
彼女はこの街を歩いた。この街の匂いを嗅ぎ、この街の空気を吸って、心から笑っていた。
それなのに。
今、俺の隣には、誰もいない。
俺が彼女の未来を、あの暗い迷宮の底に置き去りにしてしまったのだ。
蒼介は誰に気づかれることもなく、泥と血にまみれた顔で、ただ無表情に街の石畳を踏みしめていた。
心が完全に空洞になってしまったかのように、涙一つ流れない。
悲しみという感情すらも、ナノマシンのエラーコードと共に消去されてしまったかのようだった。
やがて、冒険者ギルドの建物が見えてきた。
蒼介は重い扉を押し開け、喧騒に包まれたギルドのフロアへと足を踏み入れた。
彼らの姿を見るなり、フロアの空気が一瞬にして凍りついた。
血まみれの金級冒険者。その異様な気迫に、誰もが言葉を失ったのだ。
蒼介は周囲の視線を完全に無視し、受付へ向かわずに直接、奥にある医務室へと向かった。
「おい、誰か! ベッドを空けろ!」
蒼介の低く、凄みのある声に、医務室の治療師たちが慌てて飛び出してきた。
彼は血だらけのセレスを静かにベッドの上に寝かせた。
「すぐに治療を。ポーションは飲ませてあるが、魔力枯渇が酷い」
「わ、分かりました! すぐに高位の治癒術師を呼びます!」
治療師たちが慌ただしくセレスを取り囲むのを確認し、蒼介は踵を返した。
彼は自分の怪我の治療を求めることもなく、フラフラとした足取りでギルドの受付カウンターへと向かった。
カウンターの中にいた女性職員が、怯えたような顔で蒼介を見上げる。
「あの、カミヤ様……そのお怪我は……」
蒼介は言葉を発する代わりに、腰のポーチに手を入れた。
そして、ゴトンッ、という重い音を立てて、受付のカウンターの上に一つの物体を置いた。
それは、巨大な魔石の欠片だった。
大迷宮第八十層の主、『骸の王』の核。
蒼介の魔力砲を纏った一撃によって粉砕された、その破片の一つだ。
「第八十層……『骸の王』。討伐した。記録の更新を頼む」
蒼介の声は、感情の起伏が全くない、機械の合成音声のような冷たさだった。
受付の職員が息を呑み、目を見開いた。
その場にいた他の冒険者たちも、蒼介の言葉を聞き逃すまいと耳を澄ませていた。
八十層。
それは、白金級冒険者でさえ到達した公式記録のない、完全なる未踏の領域。
その主を討伐したという事実。
一瞬の完全な静寂の後。
ギルドのフロアは、爆発的な歓声に包まれた。
「うおおおおおッ!! マジかよ!!」
「八十層を抜けた!? 金級パーティが、あの下層の関門を突破したぞ!」
「すげえ……! 白金級昇格も近いんじゃないか!?」
地鳴りのような歓呼の嵐。
冒険者たちが次々と蒼介の元へと押し寄せ、彼の肩をバンバンと叩き、称賛の言葉を投げかける。
「やったなカミヤ! お前ら、テルスの英雄だぜ!」
「おい、今夜は俺が奢るぞ! 祝杯だ!」
熱狂の渦。
かつて第七十層の不死鳥を討伐して凱旋した時と同じ、いや、それ以上の熱気だった。
騒ぎを聞きつけたギルドマスターまでもが執務室から飛び出してきて、蒼介の前に立った。
筋骨隆々としたマスターの顔には、驚きと感嘆、そして深い敬意が入り混じっていた。
「カミヤ……お前たち、やり遂げたのか。八十層の主を……」
ギルドマスターは震える声でそう言い、蒼介の無事な左肩を力強く掴んだ。
「よくやった。お前たちの功績は、このギルドの歴史に永遠に刻まれるだろう。本当に、よく生きて帰ってきてくれた」
最大限の賛辞。
冒険者としてこれ以上の栄誉はないだろう。
だが。
蒼介の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
周囲の熱狂も、ギルドマスターの称賛も、彼にとっては遠くの世界の出来事のようにしか感じられなかった。
彼の心は、完全に周囲の温度から乖離していた。
「……ああ、どうも」
蒼介は、ただそれだけを、極めて事務的に、機械的に返した。
声のトーンも上がらなければ、表情の筋肉一つ動かない。
ただ虚ろな目で、ギルドマスターの顔を通り越して虚空を見つめている。
そのあまりに異様な反応に、ギルドマスターの笑顔がスッと凍りついた。
蒼介の肩を叩いていた冒険者たちも、彼の纏う圧倒的な「虚無」のオーラに気づき、一人、また一人と手を引っ込めていく。
歓声が徐々に小さくなり、やがて不気味なほどの静寂が再びフロアに降りてきた。
彼らは理解したのだ。
目の前にいる男は、偉業を成し遂げた英雄などではない。
迷宮の深淵で何か決定的なものを喪い、魂が完全に壊れてしまった亡者なのだと。
周囲の空気が、称賛から戸惑いへ、そして明らかな畏怖へと変わっていく。
蒼介はそんな視線の変化すらも意に介さず、ただ受付の職員に向かって手を差し出した。
「報告は済んだ。報酬は後でいい。……帰る」
蒼介はギルドマスターの横をすり抜け、重い足取りでギルドの出口へと向かった。
誰も彼を引き止めることはできなかった。
蒼介はギルドの喧騒から逃げるように足早に立ち去った。
外に出る前に、彼は一度だけ歩みを止め、医務室の扉の方を振り返った。
ベッドの上で、治癒術師たちに囲まれて眠るセレスの姿が見える。
彼女の呼吸は安定しており、命の危険は完全に脱したようだった。
「……死ななくてよかった……」
ぽつりとこぼれ落ちたその言葉。
それは、今の彼に残された唯一の、そして最後の人間らしい感情の欠片だったのかもしれない。
彼女まで失っていたら、今度こそ狂って死んでいた。
だが、その安堵すらも、今の蒼介にとっては冷たい事実の確認でしかなかった。
蒼介は踵を返し、テルスの街の石畳を歩き出した。
向かう先は、彼らが借りている宿屋だ。
白黒に色褪せた街の景色の中を、彼はただ一人で歩く。
宿に辿り着き、階段を上って自室の前に立つ。
鍵を開け、中に入る。
そこは、ネアとセレスと笑い合っていた、温かな記憶が残る場所だった。
だが今の部屋は、ひどく寒々しく、そして空っぽだった。
蒼介は背中から重い扉を閉めた。
ガチャン、と鍵をかける音が、やけに大きく部屋に響く。
彼はそのまま扉に背中を預け、ズルズルと床に座り込んだ。
炭化した右腕を抱え込み、暗い部屋の中で一人、動かなくなる。
大迷宮第八十層の主を討ち果たした金級冒険者の凱旋は、誰の祝福も届かない、完全な孤独と虚無の中へ沈み込んでいった。