異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
分厚い木製の扉が、背後で重く鈍い音を立てて閉まった。
外の喧騒は完全に遮断され、宿の部屋は耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
この宿は、上位の冒険者向けに設えられた上等な作りだった。中央に広いリビングがあり、そこから各自の個室へと扉が繋がっているスイートタイプの部屋だ。
蒼介は玄関口に立ち尽くしたまま、しばらくの間ピクリとも動かなかった。
やがて彼は、糸が切れた操り人形のように重い足を引きずり歩き出した。
血と泥と煤にまみれた装備を外すこともない。焼け焦げて感覚を失った右腕を庇うこともなく、ただふらふらとリビングを通り抜けて自室へと入る。
そしてベッドの縁にぶつかると、そのまま崩れ落ちるようにマットレスの上へとうつ伏せに倒れ込んだ。
シーツに染み付いた埃の匂いが、鼻腔を突く。
部屋には誰もいない。
当然だ。セレスはギルドの医務室で生死の境を彷徨い、ようやく一命を取り留めたばかりだ。
そしてもう一人、隣で明るい声を上げていたはずの少女は。
(俺は……)
蒼介の体内で、ナノマシンが静かに稼働音を立てていた。
精神の補完エラーを強制消去し、脳の認識を正常な状態へと引き戻した無機質なシステム。
バグが取り除かれた今、彼の脳裏には真実の記憶が残酷なほどの高解像度で再生され始めていた。
第七十層、黒焔火山。
あの狂気と絶望に満ちた火口の底。
不死黒鳥を討ち果たし、すべてが終わったと気を抜いたあの瞬間。
死角から迫る黒炎の刃から彼を突き飛ばしたのは、小さな魔人族の少女だった。
蒼介が弾き飛ばされた地面から顔を上げた時、そこには絶望の光景が広がっていた。
ネアの華奢な腹部を、おぞましい黒炎の腕が深々と貫いている。
彼女の口から吐き出された鮮血が、空間を赤く染め上げた。
雪のように白くなった顔と、焦点の合わなくなった紫色の瞳。
冷たくなっていく彼女の小さな手が、泣き叫ぶ蒼介の頬にそっと触れる。
『私を忘れないで』
それが、彼女の最後の声だった。
涙混じりに微笑んで、彼女の命の灯火はそこで完全に尽きたのだ。
蒼介の脳髄に焼き付いたその光景は、色彩も、音も、血の匂いも、何一つ欠けることなく彼を苛み続ける。
だが、真の地獄はそこからだった。
彼女の強烈な願いが暗示となってナノマシンと精神の隙間に入り込み、蒼介は都合の良い幻影を見始めた。
その結果、彼が何をしたのか。
蒼介の体はベッドの上でガタガタと激しく震え出した。
彼は、血だまりに倒れ伏すネアの死を、あの火口の底に置き去りにしたのだ。
そして彼女が生きていると思い込み、隣に幻影を連れたまま、下層の探索を続けてしまった。
何日も、何日も。
虚空に向かって話しかけ、虚空に向かって水筒を差し出していた。
いないはずの仲間に戦術の指示を出し、誰もいない空間を庇って無謀な突撃を繰り返していたのだ。
その異常な光景を、セレスとリリアがどれほどの絶望と悲しみで見つめていたことか。
セレスが時折見せていた恐怖の入り混じった視線。彼女が流した悲痛な涙。
リリアの押し殺したような重苦しい沈黙。
すべては、狂ってしまった蒼介の姿に心を痛め、どうすることもできずに苦しんでいた証だった。
「あ……」
蒼介の喉の奥から、乾いた空気が漏れる。
狂気の事実が、鋭利な刃となって彼の心をズタズタに切り裂いていく。
セレスは俺の幻覚の尻拭いをするために、魔力が枯渇した体で無理を重ねた。
俺が架空の援護を信じて無防備に突っ込むから、彼女は俺を守るために盾となり、あんな凄惨な傷を負ったのだ。
俺がすべてを壊した。
俺が現実から逃げたせいで、大切な仲間を物理的にも精神的にも追い詰めてしまった。
(まただ)
かつて現代のダンジョンで経験した喪失の痛みが、何倍にも膨れ上がって蘇る。
『……もう絶対に喪わない』
過去の自分の声が、幻聴のように耳元で囁かれた。
『仲間も、俺の居場所も、もう絶対奪わせない』
中層の水没都市へと向かう前、セレスとリリアの前で口にした誓いの言葉だ。
あの時の決意は嘘ではなかった。命に代えても彼女たちを守り抜くと、心の底から誓ったはずだ。
それなのに、あの言葉が今は最も残酷な呪いとなって蒼介の首を絞め上げている。
弱い。
圧倒的に、致命的に弱い。
力が足りないのではない。現実を直視し、それを受け入れる心の強さが決定的に欠けているのだ。
「う……あぁぁぁ……っ」
蒼介はベッドの上で身を縮め、震える両腕で膝を強く抱え込んだ。
耐えきれない後悔の念が、巨大な波となって彼を押し潰す。
呼吸がうまくできない。肺が酸素を拒絶しているかのようだ。
喉の奥から、獣のような、あるいは迷子になって泣きじゃくる小さな子どものような嗚咽が漏れ出した。
「ごめん、ネア……ごめんな……っ」
シーツに顔を押し当て、蒼介はただひたすらに謝罪の言葉を繰り返した。
置き去りにしてしまった彼女の小さな体を思うと、胸が張り裂けそうだった。
火口の熱に焼かれ、もう骨すら残っていないかもしれない。
弔うことすらできず、彼女は孤独な暗闇の中で消えていったのだ。
「俺が、俺が弱いせいで……!」
慟哭は部屋の壁に反響し、行き場を失って蒼介自身に降り注ぐ。
どれほど涙を流そうと、どれほど自分を呪おうと、失われた命は二度と戻らない。
彼女の無邪気な笑顔も、「ソースケ」と呼ぶ明るい声も、もう永遠に失われてしまった。
腰のペンダントからは、何の反応もなかった。
リリアの魔力の脈動は感じられるが、彼女は完全に沈黙を保っていた。
掛ける言葉が見つからないのだ。
五百年という途方もない時間を生きてきた王女の魂であっても、今の蒼介の深すぎる絶望を前にしては、どんな慰めの言葉も無意味だと分かっているのだろう。
あるいは、狂気から目覚めた蒼介が自らの罪の重さと向き合う時間を、ただ静かに見守っているのかもしれなかった。
永遠にも思える時間が流れた。
蒼介の嗚咽は徐々にしゃくり上げるような音に変わり、やがてそれすらも途切れた。
ベッドシーツは涙と泥で黒く汚れ、彼の目は赤く腫れ上がっている。
感情のすべてが焼き尽くされ、後には灰のような虚無感だけが残されていた。
不意に、蒼介は何かを思い出したようにゆっくりと体を起こした。
虚ろな瞳が、薄暗い部屋の中を彷徨う。
彼はフラフラとした足取りでベッドから立ち上がり、自室の扉を開けてリビングへと向かった。
夕闇が迫る窓の外から、テルスの街の喧騒が微かに聞こえてくる。
だがこの部屋の中は、まるで世界の果てのように静かだった。
蒼介はリビングの中央に置かれた木製のテーブルの前に立った。
そして震える指先で、腰に固定されていた銀のペンダントの留め具に触れる。
カチャリ、と小さな金属音が鳴った。
蒼介はいつも肌身離さず持ち歩いていたそのペンダントを外し、冷たいテーブルの上へと静かに置いた。
煤けた銀の装飾が、夕暮れの光を受けて鈍く光る。
『そ、ソウスケさん……?』
その行動の異常さに気づき、リリアの魂が戸惑うような声を上げた。
ペンダントから微かな青白い光が漏れ出し、彼を引き止めようとするかのように瞬く。
だが蒼介は、その声が全く聞こえていないかのように、ペンダントを一瞥することすらなかった。
彼の顔には何の感情も浮かんでいない。
まるで自らの魂の一部をそこに切り離してしまったかのように、彼の瞳は底知れない暗闇に沈んでいた。
蒼介は無言のまま踵を返し、再び自室へと向かって歩き出す。
『ソウスケさん! お待ちになって!』
リリアの悲痛な呼びかけが背中に投げかけられる。
しかし蒼介の足が止まることはなかった。
彼は自室に入ると、重い木製の扉をゆっくりと閉めた。
ガチャリ。
内側から鍵を掛ける冷たい音が、リビングに虚しく響き渡る。
分厚い扉によって完全に外界との接触を断ち切った蒼介は、そのまま扉を背にして、再び床に座り込んだ。
暗闇に包まれた部屋の中で、彼は両膝を抱え込み、石像のように動かなくなる。
彼は自らを罰するように、この狭く暗い空間に心ごと閉じこもったのだ。
仲間を失い、仲間を傷つけ、すべてを壊してしまった自分には、もう誰かの隣を歩く資格などない。
宿の自室の閉ざされた扉の向こうで、蒼介は一歩も外へ出ることなく、果てしない自己嫌悪の闇の中へと深く深く沈み込んでいった。