異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
大迷宮第八十層の死闘から、三日の時間が経過していた。
冒険者都市テルスの喧騒は、今日も変わらず宿の窓の外で響いている。しかし、スイートタイプであるこの宿の客室には、まるでそこだけ時間が止まってしまったかのような、重く冷たい静寂が降り積もっていた。
セレスティアは、壁伝いにゆっくりと歩みを進めていた。
『骸の王』の放った巨大な大剣の直撃を受けた彼女の肉体は、蒼介が持ち帰った最高級のポーションと、ギルドが手配した高位の治癒魔法によって、奇跡的に死の淵から引き上げられていた。
千切れた筋肉は繋がり、砕けた骨も修復されてはいる。だが、失った血液と極限の魔力枯渇による疲労は、そう簡単に癒えるものではない。彼女の顔色はまだ蒼白く、足元もおぼつかなかった。
それでも彼女は、ベッドで大人しく休んでいることなどできなかった。
リビングを通り抜け、奥にある一つの扉の前で、セレスは足を止めた。
蒼介の自室の扉だ。
あの日、彼が泥と血にまみれたまま部屋に閉じこもってから、一度も開かれていない扉。
「ソウスケ……。私だ、セレスティアだ」
セレスは扉に手を当て、乾いた声で呼びかけた。
中からは何の反応もない。足音すら、衣擦れの音すら聞こえてこない。
彼が生きていることは、かすかに漏れ出る魔力の波長でかろうじて分かる。だが、その気配はあまりにも弱々しく、今にも消え入ってしまいそうだった。
「頼む、開けてくれ……! 少しでもいい、顔を見せてくれ!」
ドンドン、とセレスが扉を叩く。
手に応えはなく、虚しい音が木製の扉に響くだけだ。
セレスは扉に額を押し当て、ギリッと唇を噛み締めた。
ネアが死んだ。
その絶望は、セレスにとっても計り知れないものだった。だが、彼女以上に、蒼介がどれほど打ちのめされているか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
あの狂気のような道中、蒼介はずっと虚空に向かって語りかけ、存在しない少女の幻影を守るために命を削っていたのだ。
すべては、仲間を喪った現実から逃れるため。
その事実が白日の下に晒され、幻影が完全に消え去った今、彼が一人で暗闇の中で何を思っているのか。
耐えきれない自責の念に押し潰され、孤独な暗闇の中で心を完全に殺してしまっているのではないか。
「このままでは……お前が壊れてしまう……っ」
扉を叩くセレスの手が、小刻みに震えていた。
その時だった。
『セレスさん。……どうか、彼を責めないであげてくださいまし』
静かで、ひどく悲痛な声が、リビングの空間に響いた。
セレスの胸元で微かな光を放つ、ひび割れた銀のペンダント。あの日、蒼介がリビングのテーブルに置き去りにし、セレスが大切に預かっていたリリアーナの魂が宿る器だった。
「責めるわけがないだろう!」
セレスはペンダントを両手で包み込むように握りしめ、声を荒らげた。
「私がソウスケを責める理由など、どこにもない! 私はただ、彼を一人にしたくないだけだ……! あの暗闇の中で、一人で苦しんでほしくないだけなのだ!」
彼女の目から、たまらず大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼が狂気の世界に逃げ込んでいた時、自分は何もできなかった。ただ恐れおののき、彼を遠ざけようとしてしまった。
その悔恨が、セレスの心を締め付けていた。
『わかっています。貴女のその優しさは、ソウスケさんにとって何よりの救いとなるはずです』
リリアの魂が、ペンダントを通してセレスの心を慰めるように温かな魔力の波長を放った。
『軽々しくお話することは避けてきました。ですが、貴女は知るべきです。彼がなぜ、あれほどまでに心を壊してまで、ネアさんの幻影を見続けようとしたのか。その根底にある、彼の深すぎる絶望の理由を』
セレスは涙を拭い、息を呑んだ。
蒼介の絶望の理由。それはネアを喪ったからではないのか。
『彼には、かつて……目の前で命を散らした仲間がいたのです』
リリアの言葉に、セレスは目を見開いた。
リリアは、かつて蒼介が自分にだけ明かした過去を、今ここでセレスに語ることを決意したのだ。蒼介の心の傷を理解してもらうためには、それ以外に方法がないと判断したのだろう。
『彼がいた世界……ニホンと呼ばれる場所にも、迷宮は存在していました。そこで彼は、二人の大切な仲間と共に、
リリアが静かに語り始める。
それは、蒼介がB-ランクという地位に留まり続け、決して上を目指そうとしなかった理由。
飄々とした態度の裏に隠された、凄惨な記憶の蓋を開ける行為だった。
『一人は、大盾を持つ屈強な戦士。もう一人は、銃という武器を操る勝気な女性。彼らはとても仲が良く、お互いを心から信頼し合う、素晴らしいパーティだったそうです』
セレスは無言で聞き入っていた。
大盾を持つ戦士と、遠距離から攻撃を仕掛ける女性。そして、索敵と遊撃を担う蒼介。
バランスの取れた、今の自分たちにも通じるようなパーティの姿が目に浮かぶ。
『ある日、彼らは上位の階級へ昇格するための試験として、強力な主が潜む迷宮の深部へと挑みました。戦闘は順調に進み、あと一歩で勝利というところまで追い詰めた。ですが……追い詰められた主が、自らの命を燃やし尽くす自爆攻撃を仕掛けてきたのです』
リリアの声が、微かに震えを帯びた。
語る彼女自身も、蒼介の心から伝わってくる悲哀に当てられているようだった。
『圧倒的な熱量と、それに伴う迷宮の崩落。モリノという男性は、崩れ落ちてくる巨大な瓦礫を大盾ごと自らの背で受け止め、ソウスケさんとサツキさんという女性を逃がすための道を作りました。モリノさんはその瓦礫の下敷きとなり、命を落としました』
セレスは息を詰め、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
盾役として、仲間のために自らを犠牲にする。それは騎士であるセレスにとっても、痛いほど理解できる覚悟だった。だが、残された者の絶望はいかばかりか。
『残された二人は、崩落する迷宮の中を必死に逃げました。ですが、運命は残酷でした。足場が崩れ、サツキさんが深い亀裂の中へと滑り落ちてしまったのです。蒼介さんは限界を超えて加速し、なんとか彼女の腕を掴みました』
扉の向こう側の暗闇で、蒼介が膝を抱えている姿が脳裏に重なる。
あの時も、彼は必死に手を伸ばしたのだ。
『彼女の下半身はすでに崩れてきた瓦礫に挟まれ、引き上げることなど不可能な状態でした。このままでは、ソウスケさんも一緒に落ちてしまう。ソウスケさんはそれでも、絶対に手を離そうとはしませんでした』
セレスの目から、再び涙が溢れ出た。
彼ならそうするだろう。絶対に仲間を見捨てない。それが蒼介という男だ。
『ですが……サツキさんは、ソウスケさんの手を叩き、強引にその手を振りほどいたのです』
完全な沈黙が、リビングに満ちた。
セレスは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
あまりにも悲惨で、あまりにも残酷な結末。
二人の仲間の命と引き換えに、自分だけが生き残ってしまったという事実。
それがどれほど彼の魂を苛み、心を削り取ってきたことか。
――あいつらの事が……俺は本当に好きだったんだ。家族よりも、誰よりも。
――あいつらのいる時間が、俺の全てだった。なのに、俺だけが生き残った。
『彼は、その絶望から逃げるように、もう誰も自分に関わらせまいと生きてきました。上を目指せば、また何かを失う。だから彼は、感情に鍵をかけ、飄々とした態度で自分を守り続けていたのです』
リリアの声は、慈愛に満ちた哀しみを帯びていた。
『ですが、この見知らぬ世界に転移し、私と出会い、セレスさんと出会い、そしてネアさんと出会い……彼はもう一度、人と絆を結んでしまった。閉ざしていた心を開き、『仲間を絶対に守り抜く』と、自らの魂に誓ってしまったのです』
水没都市へ向かう前の夜、彼が言った言葉をセレスも覚えていた。
――もう絶対に喪わない。仲間も、俺の居場所も、もう絶対奪わせない。
あの強い決意の瞳。
それは、過去のトラウマを乗り越えようとする、彼なりの必死の足掻きだったのだ。
『だからこそ……ネアさんを失ったという現実を、彼の心は耐えきれなかったのです』
リリアの言葉が、冷たい刃となって真実を浮き彫りにする。
『またしても、自分のせいで仲間が死んだ。その事実を受け入れてしまえば、彼の精神は完全に崩壊していたでしょう。二度と同じ絶望を味わうくらいなら、幻影の狂気の中で生きることを選んでしまった……。彼の強さは、決して揺るぎないものではなく、薄氷の上に成り立つひどく脆いものだったのです』
真実を知ったセレスの目から、滂沱の涙がとめどなくこぼれ落ちた。
なぜ、もっと早く話してくれなかったのかという理不尽な怒り。
そして、それ以上に、いつも飄々としてパーティの先頭に立ち、一人ですべての重圧を背負い込んでいた蒼介の孤独の深さに、胸が張り裂けそうになった。
彼はずっと、怯えていたのだ。
仲間を喪う恐怖と、自分だけが生き残る罪悪感に。
それなのに、自分は彼に盾としての役目を主張し、「一人で無理をするな」と的外れな言葉をぶつけてしまった。
彼が幻影に縋り付かなければならないほど追い詰められていたことに気づけず、ただ恐怖して距離を置いてしまった。
「私は……!」
セレスは床に両手をつき、嗚咽を漏らした。
「私は……騎士だと言いながら、何も……っ! あいつの心の痛み一つ、守ってやれなかったではないか……!」
己の不甲斐なさが呪わしい。
彼が一人で暗闇の中で震えているというのに、自分はただ外から扉を叩くことしかできない。
セレスはしばらくの間、床に顔を押し当てて泣き続けた。
だが、やがて彼女はゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた頬を乱暴に袖で拭い、赤く腫れた瞳に、かつてないほどの強い覚悟の光を宿す。
『セレスさん……?』
リリアが不思議そうに声をかける。
「リリアーナ。教えてくれて感謝する。お前が話してくれなければ、私は一生、彼を本当の意味で理解することはできなかっただろう」
セレスは立ち上がり、閉ざされた扉を静かに見つめた。
「ソウスケは脆いかもしれない。過去の亡霊に囚われ、今も深い絶望の中で立ち上がれずにいる」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「だが、だからといって、彼をこのまま終わらせるわけにはいかない。ネアが命を懸けて守った男を、こんな薄暗い部屋で腐らせてなるものか」
セレスの言葉には、迷いがなかった。
彼が一人で立てないというのなら、自分が支える。彼が前を向けないというのなら、自分が腕を引く。
それが、仲間として、そして彼に命を救われた者としての絶対の義務だ。
セレスはごしごしと乱暴に涙を拭った。彼女の瞳には、かつてないほどの強い覚悟が宿っていた。