異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
宿の自室へと通じる重厚な木製の扉を背にして、セレスティア・エッケハルトは床に座り込んだまま、しばらくの間動けずにいた。
ペンダントに宿るリリアーナの魂から語られた、神谷蒼介という男の隠された凄惨な過去。
現代日本のダンジョンで二人の仲間を目の前で失い、その絶望から逃げるようにして一人で生きてきたこと。
そしてこの異世界で、再び『仲間を絶対に守り抜く』と魂に誓いながらも、大迷宮第七十層でネアを喪ってしまったこと。
その重すぎる現実に耐えきれず、彼の心は幻影という名の狂気に逃げ込むしかなかった。
彼はずっと、暗闇の中で怯える子どものように震えていたのだ。飄々とした態度と頼もしい背中の裏側で、二度と同じ絶望を味わうまいと、一人ですべての重圧を背負い込み、血を吐くような努力で己の心を騙し続けていた。
セレスは己の不甲斐なさが、無知が、呪わしかった。
共に死線を越える仲間でありながら、彼の内面で何が起きているのかに全く気づけなかったのだ。彼が何もない虚空に向かってネアの名前を呼び、存在しない幻影に縋って戦っていた時、セレスはただ彼を恐れ、距離を置いてしまった。
あの時、彼がどれほどの孤独の淵に立たされていたのか。今になって理解しても、すでに彼の心は粉々に砕け散ってしまっている。
だが。
だからといって、このまま彼を冷たい暗闇の中に放置しておくことなど、誇り高き騎士であるセレスには絶対に許せなかった。
ネアが己の命を懸けて守り抜いた男だ。リリアが五百年の孤独を癒やされた男だ。そして何より、セレス自身が何度もその背中に救われ、共に大迷宮の最深部を目指すと誓った男なのだ。
ここで彼を終わらせるわけにはいかない。
「……私は、騎士だ」
セレスは掠れた声でぽつりと呟き、ゆっくりと顔を上げた。
赤く腫れ上がった瞳には、とめどなく流れていた涙の代わりに、かつてないほど強靭な覚悟の光が宿っていた。
彼女は床から立ち上がると、リビングのテーブルの上に置き去りにされていた銀の装飾品へと歩み寄った。
蒼介が心を閉ざし、自室へ籠もる前に外していった、リリアの魂が封じられたペンダント。
セレスはその冷たい金属を両手でそっと包み込むように持ち上げた。
「リリア。彼の過去を教えてくれて、本当に感謝する。お前が真実を語ってくれなければ、私は一生、彼を本当の意味で理解することはできなかっただろう」
ペンダントから、微弱だが温かな青白い魔力の脈動が返ってくる。
それは、五百年前の王女がセレスの覚悟を静かに後押ししてくれている証だった。
セレスはペンダントのチェーンを自らの首に掛けた。胸元に落ちた銀の装飾から、リリアの祈りのような静かな魔力が、セレスの体内に僅かな熱を伝えてくる。
独りではない。リリアも共にいる。
セレスは深く深呼吸をし、両手を広げた。
パンッ!
静寂のリビングに、鋭い音が響き渡った。
セレスは自らの両手で、自分の両頬を思い切り叩いたのだ。
肌がひりひりと熱を持ち、痛みが頭をクリアにする。迷いや後悔は、今はもう必要ない。
彼女の顔つきは、悲しみに暮れる一人の少女から、戦場へと赴く気高き騎士のそれへと完全に切り替わっていた。
セレスは踵を返し、スイートタイプの客室を出て、宿の廊下へと足を踏み出した。
向かう先は、一階の受付だ。
階段を下りる彼女の足取りには、魔力枯渇による疲労の影はあったものの、それを精神力でねじ伏せるだけの確かな芯があった。
一階のフロントでは、恰幅の良い宿の主人が帳簿の整理をしていた。
冒険者都市テルスにおいて、上位の冒険者たちが定宿とするこの施設の主人は、数々の修羅場を潜り抜けてきた冒険者たちの顔を見慣れている。
だが、階段を降りてきたセレスの表情を見た瞬間、主人は帳簿から顔を上げ、わずかに身を強張らせた。
彼女の纏う空気が、尋常ではなかったからだ。
「これは、エッケハルト様。お怪我の具合は……」
「主人。単刀直入に頼みがある」
主人の気遣いの言葉を遮り、セレスはカウンターに両手をついて身を乗り出した。
その青い瞳には、有無を言わせぬ強い意志が込められている。
「私たちが借りている部屋の、ソウスケの個室の予備の鍵を貸してほしい」
「予備の鍵、ですか?」
「ああ。緊急事態だ。彼が部屋に鍵を掛けたまま、中から一切の反応がない。このままでは彼の身に危険が及ぶ可能性がある」
セレスは嘘を吐いたわけではない。心の死は、冒険者にとって肉体の死と同義だ。蒼介が自らの精神をこのまま完全に閉ざしてしまえば、彼はもう二度と戻ってこないかもしれない。
主人は困惑したように眉をひそめた。
「しかし、エッケハルト様。当宿の規則といたしましては、いかに同じパーティのメンバーであろうと、ご本人の許可なく合鍵をお渡しすることは……」
「規則の話をしているのではない。仲間の命がかかっていると言っているのだ」
セレスの声が一段低くなり、金級冒険者としての圧倒的なプレッシャーがカウンター越しに放たれた。
殺気ではない。だが、一切の妥協を許さない騎士の凄みが、そこにはあった。
主人は一瞬言葉に詰まり、セレスの目を見つめ返した。そして、彼女の瞳の奥にある、悲痛なまでの決意を読み取ったのだろう。
主人は短く息を吐き、カウンターの下から木箱を取り出した。
「……分かりました。金級冒険者である皆様を信用いたしましょう。ただし、扉や部屋の備品を破損された場合は、規定通りの賠償を請求させていただきますので、ご承知おきを」
「感謝する。弁償ならいくらでもしよう」
セレスは主人が差し出した真鍮製の古い鍵をひったくるように受け取ると、すぐさま踵を返し、再び階段へと向かった。
二階へと続く木製の階段を上りながら、セレスの足取りは徐々にゆっくりとしたものになっていった。
鍵は手に入れた。物理的な障壁はこれで突破できる。
だが、問題はその先だ。
扉を開け、絶望の底に沈む彼と対面した時、自分は一体何を言えばいいのか。
(ソウスケに、どんな言葉を掛ければいい……)
セレスの思考が、ぐるぐると渦を巻き始める。
慰めの言葉など、彼には届かないだろう。「お前のせいではない」と事実を口にしたところで、彼が自分自身を許すはずがない。
かつて現代日本のダンジョンで仲間を喪い、そしてこの異世界でネアを喪った彼にとって、他者からの同情ほど残酷で無意味なものはないはずだ。
それに、自分自身がネアを喪った事実を完全に受け入れられているかといえば、決してそうではなかった。
あの天真爛漫な笑顔。自分を「セレちゃん」と呼び、いつも蒼介の横で無邪気に笑っていた少女。
彼女がもういないという空洞は、セレスの心にも大きくぽっかりと穴を開けていた。
そんな自分が、どの口で蒼介を慰めるというのか。
お前一人に背負わせはしない、共に悲しみを分かち合おうと、そんな綺麗事を並べ立てて、彼の心が救われるわけがないのだ。
彼は泥臭く、計算高く、そして誰よりも仲間思いのシーカーだ。
彼が必要としているのは、優しい言葉でも同情の涙でもない。
(私がすべきことは……)
セレスは立ち止まり、廊下の薄明かりの中で目を閉じた。
胸元で揺れるリリアのペンダントの重みを感じる。
(彼を現実に引き戻すことだ。これ以上、彼を過去の亡霊と幻影に囚われたままにさせてはならない)
騎士として、仲間として。
彼が泥沼の中で立ち止まるなら、自分がその手を引いて無理やりにでも立たせる。
彼が自分を呪うなら、それ以上の強い力で彼を肯定する。
理屈ではない。ただ、彼をここで終わらせないという強烈な意志だけが、セレスの心を支えていた。
目を開けると、そこはすでに自分たちが借りているスイートの入り口だった。
セレスは静かに扉を開け、リビングへと足を踏み入れた。
夕闇が迫る窓の外とは裏腹に、部屋の中はすでに深い夜のように薄暗い。
そして、リビングの奥にある、硬く閉ざされた一枚の扉。
蒼介の部屋。
あっという間に、その扉の前に着いてしまった。
セレスは右手に握った予備の鍵を見つめ、一つ深呼吸をした。
手は震えていない。覚悟は決まっている。
彼女は鍵穴に真鍮の鍵を静かに差し込んだ。
カチャリ、と。
金属の噛み合う重い音が、静寂のリビングに響いた。
セレスはドアノブに手をかけ、ゆっくりと、しかし確かな力で扉を押し開けた。
ギィィィ……と、蝶番が軋む音を立てて、閉ざされていた空間が口を開く。
部屋の中の空気は、ひどく淀んでいた。
何日も閉め切っていたわけではないのに、まるで何年も放置されていた廃墟のような、埃っぽく、冷たく、そして血と泥の混じったような不快な臭いが鼻を突く。
窓のカーテンは引かれ、陽の光は一切差し込んでいない。
薄暗い室内を、セレスはゆっくりと見渡した。
視界の中央にあるベッド。
そのシーツは、おぞましいほどに汚れていた。
大迷宮第八十層での死闘を終えたまま、装備を解くこともなく倒れ込んだのだろう。真っ白だったはずのシーツは、蒼介の装備にこびりついていた泥と煤、そして乾いた血の跡で、黒と赤のまだら模様に染まっていた。
(……あれは、もう弁償だな)
そんな、今の状況には全く関係のない冷静な思考が、セレスの頭の片隅をかすめた。
極度の緊張状態にあって、彼女の脳が無意識に防衛機制を働かせたのかもしれない。
そして。
そのベッドの端に、彼はいた。
床に力なく両足を投げ出し、ベッドのマットレスに背中を預けるようにして、へたり込んでいる一人の男。
その姿を見た瞬間、セレスは息を呑み、胸の奥を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。
ほんの数日前まで、迷宮の先頭に立ち、不敵に笑っていた男の面影は、そこには微塵も残っていなかった。
顔は不健康な土気色に染まり、数日の間にげっそりと頬がこけている。
顎には無精髭が伸び放題になり、髪は皮脂と泥で汚れて固まっていた。
八十層でリリアの呪いの魔力を無理やり通した右腕は、幾分かましにはなったようだが、まだ依然として黒ずんだままだ。
何よりセレスの心を痛めつけたのは、彼の『目』だった。
虚空を彷徨うその瞳には、光が一切宿っていなかった。
焦点は合っておらず、生きる意志も、絶望すらも通り越してしまった、完全なる虚無。
抜け殻。
魂が肉体から離脱してしまったかのような、ただの物体がそこに転がっているだけのように見えた。
扉が開かれ、セレスが部屋に入ってきたというのに、蒼介はピクリとも反応を示さなかった。
まばたきすら忘れたかのように、ただぼんやりと暗い床の一点を見つめ続けている。
セレスは一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
床の軋む音が響いても、蒼介は動かない。
彼女は彼の数歩手前まで近づき、立ち止まった。
悲しみに泣き崩れたい衝動を必死に堪え、セレスは努めて静かに、しかしはっきりとした声で彼の名を呼んだ。
「……ソウスケ」
その声は、薄暗い部屋の空気を微かに震わせた。
一秒。二秒。
反応はないかと思われたその時、蒼介の首が、まるで油の切れた機械のように、ギギギ……と不自然なほどゆっくりと動いた。
虚ろな瞳が、ゆっくりと持ち上がり、眼前に立つセレスの姿を捉える。
焦点が合うまでに、さらに数秒の時間を要した。
「……セレス、か」
ひどく掠れ、乾ききった声だった。
感情の起伏が全くない、砂を噛むような響き。
「……何の用だ」
光の宿らない瞳が、セレスを真っ直ぐに見つめた。
その目を見た瞬間、セレスの胸はギリギリと締め付けられた。
彼が今、どれほど深い孤独の底にいるのか。その目を見るだけで、痛いほどに伝わってくる。
だが蒼介は、セレスの痛切な視線を受け止めることもなく、すぐに自嘲するように口元を僅かに歪めた。
「……いや、我ながら、ずいぶんな言い草だな」
カサカサの唇から、自らを嘲笑うような言葉がこぼれ落ちる。
彼はゆっくりと壁に後頭部を預け、再び視線を床へと落とした。
「すまなかったな……色々と」
それは、これまでの自分の狂態に対する謝罪なのか、それともネアを守れなかったことに対する謝罪なのか。
感情の抜け落ちた声で、彼はぽつりぽつりと独白を始めた。
「俺は、狂ってたよ……。現実から逃げて、お前たちに……酷い迷惑をかけた」
彼の手が、右腕を無意識に撫でる。
「俺は、自分が強いと思い込んでた。誰かを守れる気になってた。でも、結局、俺は……昔と何も変わっちゃいなかったんだ。……弱いままだった」
セレスは無言で彼の言葉を聞いていた。
彼が自らの弱さを吐露することは、かつては決してあり得ないことだった。常に強がり、飄々とした態度で己を武装していた彼が、今、完全に武装を解いて弱音を吐き出している。
それは回復の兆しではない。
彼がすべてを諦め、自分自身を完全に切り捨てようとしている証拠だった。
「お前は……強いよ、セレス。俺なんかより、ずっと……」
蒼介の首が再びうなだれる。
彼の目から光が失われていく。
「俺はもう、パーティの足手まといだ。迷宮探索も、もう……」
限界だ。
彼がその言葉を紡ごうとした。
これ以上前へ進むことはできない。ここで終わりにする。
そんな絶望的な諦観を決定づける言葉が、彼のかさついた唇から吐き出されようとした。
その、瞬間だった。
ドンッ!!
セレスの足が、部屋の床を爆発的な力で踏み砕いた。
彼女の体が、雷光のような速度で蒼介へと肉薄する。
悲しみでも、同情でもない。
彼女の全身を支配していたのは、仲間を諦めようとする男への、純粋で激しい怒りだった。
「ソウスケッ!!」
セレスの裂帛の気合いが部屋に響き渡る。
彼女は右腕を限界まで引き絞り、己の全体重と、騎士としてのすべての想いを拳に乗せた。
蒼介が何が起きたのか理解するよりも早く。
――ドゴォッ!!
鈍く、ひどく重い打撃音が、薄暗い部屋の中に炸裂した。
セレスの拳が、蒼介の痩せこけた頬を、容赦なく、そして完璧な軌道で殴り抜いた。