異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
白銀のペンダントを腰のベルトに提げ、神谷蒼介は霊廟を後にした。
一歩、また一歩と、古びた石畳を踏みしめる足音だけが、しんと静まり返った通路に響く。彼の神経は極限まで研ぎ澄まされ、五感とスキル【
(さて、と……。問題はこの帰り道だ)
霊廟へ至るこの通路は、殺意の塊だった。床、壁、天井。至る所に巧妙な罠が仕掛けられており、一つでも見落とせば即座に命を刈り取られていただろう。それらをスキルと現代知識、そしてシーカーとしての経験を総動員して、薄氷を踏む思いで切り抜けてきたのだ。帰り道もまた、同じだけの、あるいはそれ以上の集中力を要求される。
「ソウスケさん。少し、よろしいかしら」
不意に、腰のペンダントから澄んだ声がした。リリアーナ・エル・アルストロメリア。五百年前に滅びた王国の、魂だけの王女。蒼介の新たな同行者であり、この世界の謎を解く鍵を握るかもしれない存在だ。
「なんだ。言っておくが、今は集中してる。世間話なら後にしてくれ」
「世間話などではございませんわ。……その、先程から気になっていたのですが」
「ああ?」
リリアーナは少しだけ言葉を濁し、そして、どこか不思議そうな響きを声に乗せて言った。
「わたくしが言うのもおかしな話ですけれど……この通路、あまりにも静かすぎやしませんこと?」
「静かすぎる、だと?」
蒼介は眉をひそめる。確かに、静かだ。
だが、それは当然のこと。この隠し通路に、魔物の気配はない。あるのは死をもたらす機械的な罠だけ。
「魔物なんざ元からいなかったが。罠の気配も……」
そこまで言って、蒼介ははっと息を呑んだ。
おかしい。
スキル【
行きにあれほど神経をすり減らした、殺意に満ちた仕掛けの数々が、まるで最初から存在しなかったかのように、沈黙しているのだ。
彼は慎重に足を止め、壁に手を触れてみる。行きに隠し刃が飛び出すのを見つけた石の継ぎ目だ。しかし、何の反応もない。念のため、小石を拾って前方の床に転がしてみる。かつて、そこは毒矢が雨のように降り注ぐ危険地帯だった。
カラカラ、と乾いた音を立てて小石は転がり、やがて静寂の中に吸い込まれるように止まった。
何も、起こらない。
「……どういうことだ?」
蒼介の口から、素の疑問が漏れた。
罠が、消えている? いや、物理的には存在しているはずだ。スキルで探っても、構造物の微かな歪みとしてその痕跡は感じ取れる。だが、それらを起動させるための魔力や、物理的なトリガーが、完全に機能を停止している。
「リリア。あんた、何か知ってるか?」
「いいえ、まったく……。わたくしにも、さっぱり見当がつきませんわ。ただ……」
「ただ?」
「この通路の罠は、おそらく王家の霊廟を守るためのもの。わたくしのような王族の血を引く者を、害意ある侵入者から守るための仕掛けだったのでしょう。ですから……その、主であるわたくしが、あなた様と『共にある』と、この通路が認識した、とか……?」
自信なさげに、リリアーナはそう推測を述べた。蒼介は腕を組む。
(なるほどな。こいつのペンダントが、フリーパスってわけか。王族を守るための罠が、王族自身を攻撃するわけがない、と)
理屈としては通っている。このファンタジー世界ならば、十分にあり得る話だろう。
蒼介は大きく息を吐き、強張っていた肩の力を抜いた。途端に、どっと疲労感が押し寄せてくる。行きに強いられた極度の緊張が、いかに彼の心身を消耗させていたかを、今更ながらに自覚した。
「……はぁ。だとしたら、最高にありがたい誤算だな」
一気に安全地帯と化した通路を、二人は歩き始めた。先程までの緊張感は嘘のように消え去り、どこか気の抜けた空気が漂う。蒼介も、リリアーナも、しばらくの間、無言だった。
それは、決して気まずい沈黙ではなかった。
互いに、この奇妙な状況と、そして結ばれたばかりの歪な協力関係を、改めて反芻しているかのような時間だった。
やがて、先に口を開いたのは蒼介の方だった。
「なあ、リリア」
「なんですの?」
「一応、確認しておく。俺たちの目的は、利害の一致による協力関係だ。俺は、元の世界に帰るために、大迷宮の最深部で叶うっていう『願い』に賭ける。そのために、あんたの知識が必要だ」
それは、契約の再確認。これから始まる長い道のりに向けて、互いの立ち位置を改めて明確にしておくべきだと、蒼介は考えたのだ。
「ええ、存じておりますわ。そしてわたくしは、この呪いを解くための手掛かりを求めて、あなたに同行する。その対価として、わたくしの知る迷宮の知識を、あなたに提供する。……そういう約束でしたわね」
リリアーナの声もまた、真剣な響きを帯びていた。
「そうだ。だが、それだけじゃ足りねえ」
「……と、おっしゃいますと?」
「『願い』が本当に存在するのか、あんたの呪いが本当に解けるのか。そんなもんは、どっちも不確定だ。最深部に着いたところで、全部が骨折り損のくたびれ儲けかもしれねえ。違うか?」
蒼介の言葉は、冷徹な現実だった。だが、それは彼がシーカーとして生きてきた中で、嫌というほど味わってきた真実でもある。希望的観測だけでダンジョンに潜れば、待っているのは死だ。
「……それは、そうでございますけれど」
「だから、だ。俺たちは、もっと現実的な目標も共有しておくべきだ。つまり、生き残ること。そして、このクソったれな迷宮で、少しでもマシに生きていくための力を付けること。最深部を目指すってのは、その先にある最終目標だ。まずは、目先のことから一つずつ、確実に片付けていく」
彼の言葉に、リリアーナは息を呑んだ。
彼女は五百年間、ただ漠然と、この霊廟から解放される日を夢見てきた。そして、蒼介という希望を見出し、一気に最終目的である「呪いの解放」へと意識が向いていた。だが、彼の言葉は、その前に立ちはだかる無数の困難と、それを乗り越えるための具体的な道筋を示していた。
(この方……ただの異邦人ではございませんわね。飄々とした態度の裏に、驚くほど現実的で、そして強かな生存戦略を秘めている)
リリアーナは、蒼介という人間に対する評価を、また一つ上方修正した。彼は夢を追う冒険者ではなく、現実と戦う生存者なのだ。
「……ええ。おっしゃる通りですわ。ソウスケさん。わたくし、少し浮かれておりましたわね。反省いたします」
「別に責めてるわけじゃねえよ。ただの確認だ」
蒼介はぶっきらぼうにそう言うと、ふと、腰に提げたペンダントに目をやった。白銀の鎖が、彼の歩みに合わせて小さく揺れている。
「しかし、なんだな」
「はい?」
「腰にこんなもんぶら下げてると、どうにも落ち着かねえな」
それは、偽らざる本音だった。戦闘中に何かに引っかかったり、あるいは、衝撃でリリアーナが宿る宝石が砕けでもしたら、目も当てられない。
「あら、それなら話は早いですわ」
リリアーナの声が、心なしか弾んだように聞こえた。
「ペンダントなのですから、当然、胸に飾るべきですわ! さあ、ソウスケさん。その美しい白銀の輝きを、あなたの胸元で輝かせてくださいな!」
「……は?」
蒼介は、思わず足を止めた。そして、腰のペンダントをまじまじと見つめる。
繊細な銀細工。中央には、碧く輝く大粒の宝石。どう見ても、男が身に着けるには装飾過多で、優美すぎるデザインだった。
「いや、無理だろ。どう考えても女物じゃねえか、これ。こんなの胸からぶら下げてたら、ただの変態だぞ」
「へ、変態とはなんですの、変態とは! これはアルストロメリア王家に伝わる、由緒正しき宝飾品ですのよ! あなたの名誉のために、わたくしが身に着けることを許可してさしあげると言っているのです!」
「その許可がありがた迷惑なんだよ。大体、俺の名誉ってなんだ。こんなもん着けてたら逆に地に落ちるわ」
まるで子供のような言い合い。先程までの真剣な雰囲気は、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
通路の出口から、迷宮の薄暗い光が差し込んでくる。長かった隠し通路も、もうすぐ終わりだ。
「だいたい、あなたはわたくしのことをなんだとお思いですの! か弱き王女ですのよ!? それを、むさ苦しい腰になど提げて……! 扱いが雑すぎますわ!」
「魂だけのあんたに、か弱いもクソもあるか。それに、腰が一番安定するんだよ。戦闘の邪魔にもなりにくいしな。文句言うな」
「い、嫌ですわ! 断固として、胸以外は認めません!」
ぷいっとそっぽを向くような、拗ねた声。幻影は見えないが、その表情が目に浮かぶようだ。
蒼介は、盛大にため息をついた。
(……ああ、そうか。こいつ、不安だったのか)
目覚めたら五百年、あるいはそれ以上後の時代。浦島太郎状態の果てに得た、他者との繋がり。
胸元に下げてほしいというのは、ただの我儘ではない。少しでも、蒼介という人間を、その心臓の音を、近くで感じていたいという、彼女の魂の叫びなのかもしれない。
だが、それでも。
「……却下だ」
「なっ……! この朴念仁! 女心がわからず屋! 唐変木! 野蛮人!」
「うるせえ。じゃあ、間を取って首の後ろにでも回しとくか? マフラーみたいで温かいかもしれねえぞ」
「あたたかいわけないでしょうが! 馬鹿にしてますの!?」
わあわあと騒ぐリリアーナの声を右から左へと聞き流しながら、蒼介は通路の出口を抜けた。
再び、魔物の気配が満ちる、本来の迷宮へと戻ってきたのだ。
彼はすっと表情を引き締め、腰のペンダントを無意識に、そっと握りしめていた。
それは、決してか弱くはない。むしろ、下手をすればこの迷宮のどんな魔物よりも厄介で、手のかかる存在だ。
だが、同時に、この暗く、先の見えない異世界で、唯一無二の光となり得る存在でもあった。
(まあ、なんだ。退屈しねえのは、間違いなさそうだな)
腰で揺れる確かな重みを感じながら、神谷蒼介は口の端に、ほんのわずかな笑みを浮かべた。