異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
湿った空気が肌にまとわりつく。迷宮特有の、黴と土が混じり合った匂い。神谷蒼介は岩陰に身を潜め、息を殺していた。彼の視線の先、数十メートル先の小広場で、三体のゴブリンが焚き火を囲んで何やら騒いでいる。手にした棍棒を振り回し、奇声を上げる様は、知性の欠片も感じさせない。
(雑魚だが、油断は禁物だ。囲まれれば厄介なことになる)
蒼介は腰のナイフの柄にそっと手をかける。いつでも飛び出せるように、全身の筋肉を僅かに緊張させた。その時、腰に提げたペンダントから、囁くような声が響く。蒼介にしか聞こえない、魂だけの王女の声だ。
「ソウスケさん。左手、岩場の影。もう一体おりますわ」
「……!」
リリアーナの指摘に、蒼介は意識をそちらへ向ける。スキル【
(助かったぜ、リリア。お前、本当に優秀なナビだな)
「ふふん。当然ですわ。このリリアーナ・エル・アルストロメリアの知識を侮らないでいただきたいものですわね。あちらの個体、他より僅かに体格が良い。おそらく、この小集団の長ですわ。まず、あの個体を仕留めるのが定石でしょう」
リリアーナの分析は的確だった。リーダーを失ったゴブリンの群れが烏合の衆と化すのは、現代ダンジョンでも同じだった。蒼介は頷き、行動計画を瞬時に組み立てる。
「了解。援護を頼む」
「お任せくださいな。……三、二、一……今ですわ!」
リリアーナの合図と同時、蒼介は地面を蹴った。スキル【
「ギッ!?」
驚愕に目を見開くゴブリン。その喉笛に、蒼介のナイフが深々と突き立てられた。抵抗の暇も与えず、絶命させる。続け様に、蒼介はリーダーの亡骸を盾にしながら、残りの三体に向かって小石を投げつけた。
焚き火に当たって火の粉が舞い、ゴブリンたちの視界を一瞬奪う。その隙を蒼介は見逃さない。驚きと混乱で動きの鈍った一体の脇を駆け抜けざま、腱を切り裂く。体勢を崩して悲鳴を上げるゴブリンを尻目に、残る二体との距離を取った。
リーダーを失い、仲間の一人が負傷したことで、ゴブリンたちの統率は完全に崩壊した。あとはもう、作業に等しい。蒼介は冷静に一体ずつ確実に仕留めていき、数分後には、洞窟の小広場には静寂が戻っていた。
「……ふぅ。終わったか」
蒼介はナイフについた血を振り払い、鞘に収める。戦闘の興奮が冷めていくと、じわりと疲労が身体を蝕んでくるのがわかった。
「お見事ですわ、ソウスケさん。わたくしの指示とあなたの技が組み合わされば、これくらいの魔物、敵ではございませんわね」
「まあな。あんたのナビは確かだった」
軽口を叩きながらも、蒼介はリリアーナの存在の大きさを改めて実感していた。
霊廟を出た後、蒼介たちは連携の馴らしを兼ね、積極的に戦闘を試みていた。
彼女と組んでみて、探索の効率と安全性は格段に上がった。以前の単独行では、常に死の危険と隣り合わせの、張り詰めた探索を強いられていた。
スキルは確かに頼りになるものの、すべて単独で使い分ける必要があった。死角の多い場所では常に【
いっぽう今は、確かな信頼を寄せられる相棒がいる。その精神的な余裕は、戦闘におけるパフォーマンスにも良い影響を与えていた。
蒼介はゴブリンの死体から魔石を回収する。今日の稼ぎは、まあまあといったところか。彼は息をつき、洞窟の壁に背を預けて座り込んだ。
「しかし、先に進めるのはいいが……毎回この道のりを歩いて戻るのは、さすがに骨が折れるな」
始まりの街テルスから、現在探索している第五層までは、かなりの距離がある。道中は、今しがた倒したような魔物が徘徊し、巧妙な罠が仕掛けられている場所も少なくない。それらを突破してこの階層までたどり着き、さらに消耗した身体で、また同じだけの道のりを引き返す。それは、精神的にも肉体的にも、尋常ではない負担だった。
現代ダンジョンならば、一定階層ごとにセーフエリアと転移ゲートが設置されているのが常識だった。攻略の拠点となる場所があり、そこから街へ瞬時に帰還することも可能だった。だからこそ、シーカーは効率的に、そして安全に探索を進めることができたのだ。
(それに比べて、この大迷宮はあまりにも原始的すぎる。それとも、これがこの世界のスタンダードなのか? 冒険者ってのは、みんなこんな無駄な苦労を強いられてるのか?)
蒼介の脳裏に、疑問が渦巻く。この非効率さは、どうにも解せなかった。まるで、システムの根幹に関わる何かが、抜け落ちているような感覚。そんなことを考えていると、リリアーナが心底不思議そうな、そしてどこか呆れたような声で尋ねてきた。
「……ソウスケさん? あなた様、先程から何を馬鹿なことをおっしゃっているのですか?」
「あ? 馬鹿なことなんて言ったか? 事実だろうが。毎日毎日、同じ道を往復するのは、どう考えても非効率だ」
「ですから、その『往復する』という考えが、そもそもおかしいと申し上げているのですわ」
「何がだよ。じゃあどうしろって言うんだ。ここに住めとでも?」
蒼介が少し苛立ったように返すと、リリアーナは、はぁ、と今日一番の盛大なため息をついた。その音はペンダントから聞こえているはずなのに、まるで蒼介の耳元で直接吐きかけられたかのような、侮蔑と憐憫の色をこれでもかと含んでいた。
「信じられませんわ……。この朴念仁、いえ、朴念仁というよりは、もはや……そう、世間知らずのお坊ちゃま、とでも言うべきでしょうか。いいえ、それも違いますわね。一体どういう環境で育てば、これほどまでに基本的な常識が欠落してしまうというのですか……」
「おい、さっきから好き勝手言いやがって。何が言いたいんだ」
リリアーナの回りくどい言い方に、蒼介の眉間の皺が深くなる。彼女は、ふん、と鼻を鳴らすような気配を漂わせ、そして言った。
「あなた様、本当に、転移門の存在をご存じないのですか?」
「……てんいもん?」
聞き慣れない単語に、蒼介は思わずオウム返しに聞き返した。リリアーナは、もはや言葉もないといった様子で、しばし沈黙する。そして、まるで出来の悪い生徒に一から物事を教え諭すような、丁寧すぎる口調で語り始めた。
「大迷宮の入口に、巨大な魔法陣が地面に描かれておりましたでしょう? 思い出してくださいまし。あなた様も、毎日その前を通っているはずですわ」
言われてみれば、確かにあった。街の広場の中心に、地面に描かれた巨大で複雑な紋様。蒼介はてっきり、街のシンボルか何か、あるいは宗教的な意味合いを持つ装飾の類だと、完全に思い込んでいた。毎日目にしていながら、その機能について深く考えたことなど、一度もなかった。
「あれが、転移門ですわ。一度でも自らの足で到達したことのある階層にならば、あの魔法陣から魔力を通すことで、瞬時に移動することが可能なのです。だから、高位の冒険者の方々は、浅層をいちいち歩いて踏破したりはしないのですよ。当たり前でしょう?」
「……は?」
蒼介は、間の抜けた声を出した。
脳が、情報の処理を拒否している。
転移、門。ゲート。
つまり、ワープ装置。
(待て、待て待て待て。転移ゲートだと? まるで、現代ダンジョンじゃねえか……!)
衝撃の事実に、蒼介は言葉を失う。なぜ、もっと早く気づかなかったのか。なぜ、その可能性を考えもしなかったのか。異世界だから、ファンタジーだからと、どこかでこの世界のシステムを原始的なものだと、無意識に見下していたのかもしれない。自分の注意力不足、観察眼の甘さ、そして致命的なまでの思い込み。そのすべてを突きつけられ、蒼介は頭を鈍器で殴られたかのようなショックを受けた。
「……そ、そうか。あれが……そういう、代物だったのか……」
「ええ、そうですわ。まったく、あなた様という方は……。では、もう一つお聞きしますけれど、まさか、探索を終えた後の帰りはどうするおつもりでしたの? まさか、帰りも、そのご自身の足で、とぼとぼと……?」
リリアーナの追及は止まらない。彼女の声には、呆れを通り越して、もはや一種の好奇心すら含まれているようだった。この異邦人が、一体どこまで常識を知らないのか、試しているかのようだ。
蒼介は、ぐっと言葉に詰まる。
その通りだ。彼は、帰りもこの長い道のりを、自分の足で歩いて帰るつもりだった。それが、当たり前だと思っていたからだ。
その沈黙を肯定と受け取ったのだろう。リリアーナは、もはや笑いをこらえるような声で続けた。
「普通は、帰還のスクロールを使いますでしょう? 街の道具屋さんで売っているはずですわ。魔法が込められた羊皮紙でしてね、それをビリッと破りさえすれば、迷宮内のどこからでも、一瞬で街の入口まで戻れるという、大変便利な魔法の巻物ですわよ。銅級の冒険者でも、懐に一つは忍ばせておくのが常識ですのに……」
「……きかんの、すくろーる?」
またしても、知らない単語が出てきた。
ワープゲートに、帰還アイテム。
それは、蒼介が元の世界でシーカーとして活動していた頃、当たり前のように利用していたシステム、そのものだった。
あまりのことに、蒼介はもはや思考を放棄した。ただ、口を半開きにして、虚空を見つめる。
リリアーナは、そんな彼の様子を察してか、決定的な一言を放った。
「……あなた様。もしかして、この大迷宮という場所を、ただの巨大な洞窟か何かだと思ってらっしゃいました?」
「……」
「違いますわよ。ここは、もっと……そう、効率的に造られた場所なのです。誰が作ったのかは、わたくしにもわかりません。ですが、挑戦者を受け入れ、選別し、そして試練を与えるための、巨大な『装置』。そう考えた方が、自然ではございませんこと?」
その言葉は、蒼介の胸に深く、鋭く突き刺さった。
そうだ。その通りだ。
彼は、この大迷宮を、そしてこの世界を、あまりにも甘く見ていた。慎重に行動しているつもりだった。あらゆる情報を集め、最大限に警戒し、自分の知識とスキルを駆使して生き抜いてきたつもりだった。
それなのに、こんな致命的な、システムの根幹に関わる情報を見落としていた。今まで、どれだけの時間と体力を、無駄にしてきたというのだろう。どれだけの危険を、無意味に冒してきたというのだろう。
「はえぇ……」
感嘆とも、呆れとも、絶望ともつかない、奇妙な声が蒼介の口から漏れた。彼はがっくりと肩を落とし、ただただ、呆然とする。
「まあ、驚くお気持ちはわかりますわ。異邦人であるあなた様が、知らなかったとしても無理はございません」
リリアーナの声が、少しだけ優しくなった。
「ですが、これだけは覚えておいてくださいまし。思い込みは、時に命取りになりますわ。この大迷宮では、特に」
その言葉に、反論の余地はなかった。
蒼介は、無言で頷く。
「さて。では、どうなさいますの? このまま第五層の探索を続けますか? それとも、一度街に戻って、その転移門とやらを、ご自身の目で確かめてみますか?」
リリアーナの問いに、蒼介はゆっくりと顔を上げた。
彼の目には、呆然とした色の奥に、新たな決意の光が灯っていた。
「……決まってるだろ」
彼は立ち上がり、服についた土を払う。
「帰るぞ、リリア。俺は、俺自身の目で確かめなければ、気が済まない」
その声には、もう迷いはなかった。
自分の愚かさを噛み締めながらも、彼は前を向く。知らなかったのなら、今、知ればいい。間違っていたのなら、今、正せばいい。それだけのことだ。
「ふふっ。よろしいですわ。では、参りましょうか。わたくしたちの『始まりの街』へ」
リリアーナの楽しげな声に送られ、蒼介はテルスの街へと向かって歩き出した。
もちろん、その帰り道は、彼が今まで律儀に辿ってきた、長く、険しく、そして今日限りで最後となるであろう、非効率極まりない道のりなのであった。