異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
新宿の夜は、欲望と活気が渦巻いていた。その一角、シーカーたちが束の間の休息を求めて集うバー「アビス・ゲート」の扉を、神谷蒼介は開けた。
燻った煙草の匂いとアルコール、そしてダンジョンから持ち帰った者たちが発する独特の鉄錆のような匂いが混じり合い、むわりと鼻をつく。カウンターの向こうでは、マスターが黙々とグラスを磨き、テーブル席では今日の稼ぎを自慢する声や、攻略情報の交換、あるいは仲間を失ったことを嘆く湿っぽい声が飛び交っていた。ここはシーカーたちの現実が凝縮された場所だ。
蒼介は慣れた様子でカウンターの隅に腰を下ろす。
「マスター、ビール」
「あいよ」
差し出されたジョッキを傾け、冷たい液体を喉に流し込む。ダンジョン探索で火照った体に、炭酸の刺激が心地よかった。今日の稼ぎは悪くない。このまま静かに一杯飲んで帰る、いつも通りの夜になるはずだった。
「よう、蒼介。久しぶりじゃねえか」
不意に、隣からがっしりとした腕が伸びてきて、彼の背中を遠慮なく叩いた。
振り返ると、そこには日に焼けた顔に快活な笑みを浮かべた男、高梨健太が立っていた。蒼介がまだシーカーになりたての頃、同じパーティで何度かダンジョンに潜ったことのある、昔の仲間だ。
「健太か。お前こそ、最近見ないと思ったら」
「おう。ちょっと遠征しててな。ついにA-ランクに上がったぜ」
健太はそう言って、自慢げに胸のドッグタグに刻まれたランクを見せつけた。そこには、彼の努力の証が確かに刻まれている。
「そりゃおめでとさん。今度なんか奢ってくれよ」
「へっ、お前に言われる筋合いはねえよ。それより、お前だよ蒼介。なんでまだそんなとこで燻ってんだ? お前の腕なら、とっくにAランクになってたっておかしくねえだろ」
健太は蒼介の隣にどかりと腰を下ろし、マスターに同じものを注文した。その目は、少しばかり歯がゆいと言いたげに蒼介を捉えている。
「面倒はごめんなんだよ。B-ランクくらいが、指名依頼もそこそこで気楽でいい」
蒼介は本心からそう言って、ジョッキに残っていたビールを呷った。
「気楽でいい、だと? 本気で言ってんのかよ。俺は知ってるぞ、お前の本当の実力を。あの的確な状況判断と、躊躇のない一撃。お前がいれば、どんなダンジョンだって……」
健太の言葉が、蒼介の意識の底に沈めていた
「……なぁ、蒼介。もう一度、俺と組まないか? 今度こそ、一緒にAランクを目指そうぜ。あの時のことは……残念だった。でも、だからってお前の才能をここで腐らせちまうのは、あまりにも勿体ねえ」
「あの時」
その言葉が引き金だった。
健太の熱のこもった声が、急に遠くなる。バーの喧騒が嘘のように消え、蒼介の脳裏に、忘れたくても忘れられない光景が鮮烈なノイズと共にフラッシュバックした。
――薄暗いダンジョンの通路。今よりもずっと未熟だった自分。
鳴り響く警報。想定外のルートから現れた、規格外のモンスター。オークキングの咆哮が、岩壁を震わせる。
『蒼介、後ろ!』
パーティのヒーラーだった少女、美咲の悲鳴。
振り向いた先で、巨大な棍棒が彼女の華奢な体を薙ぎ払う。赤い飛沫が、スローモーションのように宙を舞った。
『健太、引け! ここは無理だ!』
タンク役の男が叫び、盾を構える。だが、オークキングの猛攻はそれを紙切れのように弾き飛ばした。
なにもできなかった。
スキル【
最後に見たのは、こちらに手を伸ばし、何かを伝えようとしていた美咲の、絶望に染まった瞳だった――。
「……すけ! おい、蒼介!」
健太に肩を強く揺さぶられ、蒼介ははっと我に返った。
気づけば、握りしめたビアジョッキが、みしりと嫌な音を立てていた。指の関節が白くなるほど、力が込められていた。
「……悪い。少し、考え事してた」
いつもの飄々とした仮面をなんとか貼り付け、蒼介は努めて平静を装う。だが、その声は自分でも分かるほどにかすかに震えていた。
「お前、やっぱり……」
何かを言い募ろうとする健太の言葉を、蒼介は遮った。
「野暮なこと聞くなよ。それに、俺はもう誰かと組む気はねえ。一人の方が、失うもんもなくていい」
その声は、拒絶というよりも、懇願に近かった。もう、あの絶望を味わうのはごめんだ、と。
蒼介はカウンターに数枚の紙幣を置くと、健太に背を向けて席を立った。
「じゃあな、健太。昇格、本当におめでとう」
「おい、蒼介!」
背後からかかる声を無視して、彼は「アビス・ゲート」の扉を押し開ける。
外の冷たい夜風が、火照った顔に心地よかった。
アパートへの帰り道。
ネオンの洪水が、蒼介の無表情な横顔を照らしては通り過ぎていく。
健太の言う通りかもしれない。本気で上を目指せば、今以上の地位も名声も、金も手に入るだろう。
だが、その先に何がある?
(強くなれば、守れるものが増える?)
自問する。答えは、すぐに出た。
(違う。強くなれば、守らなければならないものが増えるだけだ。そして、それを失った時の絶望も、大きくなる)
あの日の光景が、亡霊のように脳裏に焼き付いて離れない。
自分の判断一つで、仲間を死なせてしまった。あの昇格試験に挑まなければ、みんな死なずに済んだんだ。
以来、彼は何かを守ることから、誰かと深く関わることから、意識的に距離を置くようになった。高みを目指すことをやめたのは、トラウマという一言で片付けられるほど、単純な話ではない。それは、彼が二度と過ちを繰り返さないために、自らに課した誓いであり、呪いだった。
アパートの冷たい部屋に一人帰り着き、彼は明かりもつけずにベッドへ倒れ込む。
目を閉じれば、今も聞こえる気がした。
仲間たちの、最期の声が。
上昇志向など、とうの昔にあのダンジョンに捨ててきた。
彼はただ、亡霊に苛まれながら、黄昏の中を生き続けるだけの、抜け殻だった。