異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
蒼介が異世界「大迷宮」での生活に順応し始めてから、数週間が経過していた。
あの日、路地裏で己の未熟さに打ちひしがれた彼はもういない。転移門と帰還のスクロールという二つの強力なツールを手に入れたことで、彼の迷宮探索は劇的に効率化されていた。もはや無駄な往復に体力を削られることはない。稼いだ金で装備を少しずつ更新し、ポーションなどの消耗品にも余裕ができた。精神的な安定は、的確な判断力に繋がり、生存率を大きく引き上げる。
「ソウスケさん、次の角を右ですわ。三体のゴブリンが待ち構えています。ですが、その奥、天井の岩盤に僅かな亀裂を確認。いつもの、いけますわよ」
「了解。おあつらえ向きだな」
ペンダントから響くリリアーナの冷静な分析に、蒼介は短く応じる。彼の腰で揺れるペンダントは、今や単なる魂の器ではなく、最強の索敵機能と膨大なデータベースを兼ね備えた、攻略に不可欠のデバイスと化していた。もっとも、先日の一件以来、リリアーナの機嫌は些か斜めのままであり、時折ちくりと棘のある言葉が飛んでくるのはご愛嬌だが。
角を曲がると、リリアーナの言葉通り、三体のゴブリンが棍棒を手に潜んでいた。蒼介の姿を認めると、甲高い奇声を上げて一斉に襲いかかってくる。
以前であれば一体ずつ慎重に引き付けて対処していた場面。だが、今の蒼介は違う。
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ナノマシンが全身を駆け巡り、世界がスローモーションになる。迫り来る棍棒の軌道を余裕をもって見切り、その間をすり抜けるように駆け抜けた。ゴブリンたちが驚きに目を見開くのも束の間、蒼介は既に彼女たちの背後、リリアーナが示した天井の亀裂の真下に到達していた。
彼は壁を蹴って跳躍し、全体重を乗せた踵を、亀裂の一点に叩き込む。
ミシリ、と岩が軋む音が響き渡り、次の瞬間、ゴブリンたちの頭上に天井の一部が崩落した。断末魔の悲鳴すら上げることなく、三体の魔物は岩盤の下敷きとなり、絶命する。
「……ふぅ。完璧なタイミングだったろ?」
「当然ですわ。誰の指示だと思っているのですか」
ふん、と鼻を鳴らすリリアーナ。その声には、まだ拗ねた響きが混じっている。蒼介は苦笑しながら、崩れた岩盤を避けて先へと進んだ。
連携は、確かになっていた。リリアーナの的確なナビゲートと、それを寸分の狂いなく実行する蒼介の戦闘技術。二つの力が噛み合った時、浅層の魔物たちはもはや敵ではなかった。
この数週間で、蒼介は銅級冒険者の中でも突出した速度で迷宮を踏破し、第七層にまで足を踏み入れていた。
「この調子なら、第十層の主とやらに会う日も近いかもしれねえな」
「油断は禁物ですわよ。階層が深くなるにつれて、魔物の強さは跳ね上がります。それに……」
リリアーナが、ふと言葉を切った。
「それに、何だ?」
「……いえ。気のせいなら良いのですが」
彼女の歯切れの悪い物言いに、蒼介は眉をひそめる。同時に、彼自身のスキルも、微かな違和感を捉え始めていた。
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それは、これまで感じたことのない異質な魔力の反応だった。まるで、巨大な肉塊がすぐ近くで呼吸しているかのような、不快な圧迫感。
蒼介は足を止め、慎重に周囲を窺う。
第七層は、これまでの洞窟とは少し様相が異なっていた。通路の幅は広がり、所々に蒼白い光を放つ苔が壁や天井に自生している。その幻想的な光景とは裏腹に、空気は重く、湿り気を帯びていた。
「ソウスケさん、前方五十メートル。開けた場所に出ます。そこに……いますわ」
リリアーナの声が、緊張に強張る。
蒼介は頷き、ナイフを抜き放つと、息を殺してゆっくりと前進した。
やがて、通路の先から蒼白い光が漏れてくるのが見えた。広間だ。
壁の陰からそっと顔を覗かせた蒼介は、息を呑んだ。
広間の中心に、それはいた。
身長は三メートルを優に超えるだろうか。筋骨隆々の肉体は、醜い緑色の肌に覆われ、頭部にはねじくれた二本の角が生えている。手には、人間の背丈ほどもある巨大な棍棒。ぎらぎらと光る目は、飢えた獣のように貪欲な光を宿していた。
「オーガ……ですわね。それも、ただの個体ではございません。この魔力量、この階層にいるべき存在ではありませんわ」
「……ああ、どう見てもヤバい奴だな」
オーガは、一体のゴブリンを鷲掴みにすると、何の躊躇もなくその頭から喰らいついた。バリバリという骨の砕けるおぞましい音と、ゴブリンの断末魔の悲鳴が広間に響き渡る。
共食い。その光景は、オーガの凶暴性と異常性を何よりも雄弁に物語っていた。
(どうする……? 見なかったことにして引き返すか? いや、駄目だ。こいつがいる限り、この先の探索は不可能だ。それに、こいつを放置すれば、他の冒険者の被害も出るだろう)
蒼介は思考を巡らせる。
相手は、間違いなく格上。単純な力比べでは、一瞬で捻り潰されるのがオチだ。
勝機があるとすれば、それは己が最も得意とする戦い方、すなわち、スキルと知恵を駆使したヒットアンドアウェイに持ち込むことしかない。
「リリア、弱点はどこだ?」
「……オーガの弱点は、人間と同じく心臓、首、あるいは眼球ですわ。ですが、あの個体は皮膚も異常に硬化している様子。生半可な攻撃では、傷一つ付けるのも難しいでしょう」
「だろうな。だが、やるしかねえ」
蒼介は覚悟を決めた。彼は【
「行くぞ」
短く告げると、蒼介は壁を蹴って広間へと躍り出た。
即座に、オーガが蒼介の存在に気づく。その目は血走り、口からは涎が滴り落ちていた。新たな獲物を見つけた喜びに、その醜い顔が歪む。
「グオオオオオオッ!」
咆哮と共に、オーガが巨大な棍棒を振りかぶった。風を切り裂き、死を運ぶ一撃。
だが、蒼介は冷静だった。
「【
加速した世界の中で、棍棒がスローモーションで迫る。蒼介はその軌道を最小限の動きで見切り、懐へと潜り込んだ。オーガの巨体ががら空きになる。
狙うは、膝の関節。
蒼介はナイフを逆手に持ち替え、ありったけの力を込めてオーガの膝裏へと突き立てた。
ガキンッ!
しかし、返ってきたのは、金属を打ったかのような硬い感触だった。ナイフの刃は、分厚い皮膚と筋肉に阻まれ、数センチしか突き刺さらない。
(硬え……! まるで岩だ!)
オーガが痛みと怒りに咆哮し、腕を振り回す。蒼介は咄嗟に後方へ跳躍し、追撃を回避した。
ジリ、とオーガが蒼介との距離を詰めてくる。その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さだった。
「ソウスケさん! あのオーガ、自己再生能力も持っているようですわ! 傷が、塞がっていきます!」
リリアの悲鳴にも似た声。見れば、先程蒼介が付けたばかりの浅い傷口が、みるみるうちに盛り上がり、塞がっていくのが見えた。
それは、絶望的な光景だった。
こちらの攻撃は通らない。与えた僅かなダメージも、即座に回復されてしまう。
まさに、相性が最悪の相手だった。蒼介の戦い方は、一撃の威力よりも、手数と的確さでダメージを蓄積させていくスタイルだ。その戦法が、高い防御力と再生能力を持つ敵には、根本的に通用しない。
(まずいな。このままじゃ、ジリ貧だ)
棍棒による薙ぎ払いを、転がるようにして回避する。掠っただけで、骨が砕けるのは間違いない。回避に専念するだけで、体力がごっそりと削られていく。
額から、冷たい汗が流れ落ちた。
(撤退、も視野に入れるべきか……? いや、帰還のスクロールを使う隙があるか?)
焦りが、判断を鈍らせる。オーガの攻撃は、ますます苛烈になっていた。広間の壁や床が、棍棒の一撃で次々と粉砕されていく。
蒼介は、必死に活路を探していた。罠を仕掛けるにも、時間が足りない。地形を利用しようにも、その地形ごと破壊されてしまう。
完全に、手詰まりだった。
オーガが、勝利を確信したかのように、大きく棍棒を振りかぶる。今度こそ、逃げ場はない。
蒼介が、死を覚悟した、その瞬間だった。
閃光が、走った。
一条の銀色の光が、どこからともなく飛来し、オーガの振り上げた腕を正確に貫いたのだ。
「グギィ!?」
オーガが、苦悶の声を上げる。その腕から、巨大な棍棒が滑り落ち、けたたましい音を立てて床に転がった。
何が起きたのか、蒼介にも、オーガにも、理解ができなかった。
呆然とする彼らの前に、通路の暗がりから、一人の少女が静かに姿を現した。
年の頃は、十九か二十歳ほどだろうか。
陽光を編み込んだかのような、短い金色の髪。勝ち気な光を宿す、蒼穹の瞳。そして、その華奢な身体を包んでいるのは、月光を溶かして固めたかのような、美しい輝きを放つ銀の全身鎧だった。
その手には、白銀に輝く刀身を持つ、優美な長剣が握られている。
まるで、お伽話から抜け出してきたかのような、気高く、美しい女騎士。
彼女は、傷を負い、怒り狂うオーガを一瞥すると、何の感情も浮かんでいない顔で、ただ静かに剣を構えた。
「グオオオオッ!」
オーガが、乱入者である女騎士に向かって突進する。残った左腕を、巨大なハンマーのように振りかざした。
それに対し、女騎士は一歩も動かない。
ただ、その唇が、凜とした声で魔法の言霊を紡いだ。
「――光よ、我が刃に集え」
詠唱と共に、彼女の持つ長剣が、眩いばかりの光を放ち始める。
オーガの拳が、彼女に届く寸前。
女騎士の姿が、ふっと掻き消えた。
蒼介の目にも追えないほどの、神速の踏み込み。
次の瞬間、彼女は、オーガの背後に立っていた。ゆっくりと剣を鞘に納める、流麗な所作。
一拍の間。
オーガの巨体に、無数の光の線が走った。
そして、まるで崩れ落ちる砂の城のように、その巨体は、一瞬にして光の粒子となって霧散し、消滅した。
後には、静寂だけが残された。
(……なんだ、今のは……)
蒼介は、目の前で起こった出来事が信じられず、ただ立ち尽くしていた。
魔法剣。リリアーナから、その存在は聞いていた。だが、これほどの威力だとは。オーガを、一撃で。あの、鉄壁の防御と再生能力を誇った化け物を、まるで赤子の手をひねるかのように、塵へと還してしまった。
女騎士は、蒼介の方へとゆっくりと振り返る。
その蒼い瞳が、蒼介の姿を、頭のてっぺんからつま先まで、品定めするように見下ろした。
彼女の視線は、蒼介が回避のために汚した服に、泥臭い戦い方の痕跡が残る広間の惨状に、そして、疲労困憊で息を切らす彼の情けない姿に、順に注がれていく。
やがて、彼女は、心底軽蔑した、というように、その形の良い唇を、冷たく歪めた。
「……邪道だ」
吐き捨てるように、一言。
その言葉だけを残し、女騎士は蒼介に背を向けた。まるで、これ以上同じ空気を吸うのも穢らわしいとでも言うかのように、何の興味も示さず、迷宮の奥へと、気高い足取りで去っていく。
広間には、呆然と立ち尽くす蒼介と、先程までの激闘が嘘のような静寂だけが、取り残されていた。
(……邪道、ね)
吐き捨てられた言葉を、蒼介は口の中で反芻する。
悔しさは、なかった。ただ、圧倒的な力の差を見せつけられたことへの、純粋な驚きと、そして、自分の戦い方を真正面から否定されたことへの、僅かな戸惑いがあるだけだった。
「……とんでもないな、異世界」
蒼介は、天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らした。
助けられたのは事実だ。感謝こそすれ、文句を言う筋合いはない。
だが、それでも。
あの侮蔑に満ちた瞳は、彼の心に、小さな棘のように、深く突き刺さっていた。