異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
ぼんやりと、蒼介は視線を向ける。
先程まで死闘を繰り広げていたオーガの巨体は、一片の肉塊すら残さず光の粒子となって霧散した。後には、棍棒の一撃で穿たれた壁の傷跡と、おぞましい共食いの痕跡だけが生々しく残り、凄惨な戦闘があったことだけを物語っている。
広間の中心に一人、蒼介は立ち尽くしていた。
現代日本のダンジョンでは決して見ることのできない、異世界ならではの理不尽なまでの力。
(……レベルが、違いすぎる)
それは、蒼介がこれまで培ってきた戦闘経験や価値観を根底から覆す光景だった。スキルを駆使し、地形を読み、知恵を絞ってかろうじて勝利を掴む自身の戦い方が、ひどくちっぽけで原始的なものに思えてくる。
脳裏に焼き付いて離れないのは、銀色の鎧をまとった少女の姿。気高く、美しく、そして冷徹なまでの強さ。彼女が放った侮蔑の言葉が、耳の奥で反響する。
『――邪道だ』
その言葉は、蒼介の戦い方そのものを否定するものだった。生き残るため、ただそれだけのために泥水をすする覚悟で磨き上げてきた技術を、真正面から切り捨てる響きがあった。
悔しさはない。だが、胸の奥にずしりと重い何かが沈んでいくような感覚があった。それは諦観にも似ていた。住む世界が違う。そういうことなのだろう。
蒼介が乾いた笑みを浮かべようとした、その時だった。
「何をぼうっとしているのですか! さっさと追いかけますわよ!」
腰のペンダントから、リリアーナの甲高い声が響き渡った。その声には、先程までの冷静な分析からは考えられないほどの焦りと苛立ちが滲んでいる。
「追いかけるって……どこにだよ。もう行っちまっただろ」
「あちらですわ! まだ気配は完全に消えていません! 早く!」
有無を言わさぬリリアーナの剣幕に、蒼介は渋々といった体で顔を上げた。確かに、命の恩人ではある。礼の一つも言わずに終わるのは、後味が悪い。それに、あの圧倒的な強さの正体を、もう少しだけ知りたいという好奇心も燻っていた。
(まあ、そうだな。借りを作りっぱなしは性に合わねえ)
蒼介は短く息を吐くと、女騎士が去っていった通路へと足を向けた。幸い、彼女が残した魔力の残滓は、暗い迷宮の中ではっきりと道筋を示していた。
【
「――おい、待ってくれ!」
蒼介が声をかけると、女騎士はぴたりと足を止めた。ゆっくりとこちらに振り返るその顔には、何の感情も浮かんでいない。蒼穹の瞳が、再び蒼介の姿を捉えた。その視線はやはり、道端の石ころを見るかのように冷ややかだった。
「……何か用か」
「いや、用っていうか……さっきは助かった。あんたがいなけりゃ、今頃あのオーガの腹の中だったろうからな。礼を言う」
蒼介は努めて飄々とした態度で、片手を上げてみせた。しかし、女騎士の表情は一切変わらない。彼女は、ふいと顔を背けると、再び前を向いて歩き出そうとした。
「礼を言われる筋合いはない。私はただ、行く手を阻む邪魔な障害物を排除しただけだ」
「障害物ね。まあ、あんたにとってはそうかもしれねえが、俺にとっては命の恩人だ。とにかく、感謝してるってことは分かってくれ」
すげない返答にも、蒼介は食い下がる。このまま無視されて終わるのも、癪だった。
彼は一歩前に出ると、改めて女騎士と向き合った。
「俺は神谷蒼介だ。しがない銅級冒険者だが」
名乗られて、さすがに無視し続けるのは気まずいと思ったのか、女騎士はようやく足を止め、心底面倒そうに、しかし凛とした声で名乗りを返した。
「……セレスティーナ・エッケハルト」
「セレスティーナか。いい名前だな。それで、セレスティーナ嬢は……」
蒼介が続けようとした言葉は、彼女の鋭い一瞥によって遮られた。その瞳には、先程よりもさらに強い侮蔑の色が浮かんでいる。
「貴様の戦い、少し見させてもらった。小賢しい罠、無様な回避、泥に塗れただけの、騎士道とは無縁の戦い方。やはり、邪道だ」
「……」
「力無き者が知恵で足掻くのは結構。だが、その戦い方を誇るべきではない。それは強者の戦い方ではない。ただの、卑小な生存術だ」
セレスティーナは言い切った。その言葉に、一片の迷いも、同情もなかった。それは彼女が信じる揺るぎない正義であり、哲学なのだろう。
彼女はもう一度、蒼介を頭のてっぺんからつま先まで見下ろすと、今度こそ何の興味も失くしたように背を向けた。
「二度と私の前に現れるな。不愉快だ」
その言葉だけを残し、セレスティーナは迷宮の闇の中へと消えていく。その気高い足取りは、最後まで少しも乱れることはなかった。
再び一人、広間に取り残された蒼介は、今度こそ乾いた笑いを漏らした。
「……はっ。おカタい騎士様ときたもんだ」
邪道。卑小な生存術。言いたい放題言ってくれる。
だが、不思議と怒りは湧いてこなかった。彼女の言うことは、ある意味で真実だったからだ。蒼介の戦い方は、決して格好のいいものではない。スマートでも、華麗でもない。常に死と隣り合わせの状況で、使えるものは何でも使い、泥臭く勝利をもぎ取る。それが、神谷蒼介という男の戦いの本質だった。
それを誇ったことはない。だが、卑下したこともなかった。
ただ、生きるために必要な術だった。それだけだ。
(まあ、いい。住む世界が違うんだ。関わることももうねえだろ)
蒼介は肩をすくめると、気を取り直して周囲を見回した。オーガは倒された。この先の道は開けたはずだ。
彼は腰のペンダントにそっと手を触れた。
「……悪かったな、リリア。変なとこ見せちまって」
「……」
しかし、ペンダントからの返事はなかった。いつもなら、ここぞとばかりに茶々を入れたり、あるいは心配するような言葉をかけてきたりするはずのリリアーナが、沈黙を守っている。
「どうした、リリア? さっきから黙り込んで」
蒼介が不思議に思って問いかけると、少しの間を置いて、ようやく小さな声が返ってきた。
「……いえ。別に、なんでもございませんわ」
「なんでもないって顔じゃ……声じゃねえだろ。あの女騎士様との会話、聞いてたんだろ? なんで黙ってたんだ?」
その問いに、リリアーナは観念したように、ふぅ、と小さなため息を漏らした。
「……考えれば分かりそうなものですけれど。いきなりペンダントが喋り出したら、あの女騎士がどう思うか、想像なさいませ」
「あ……」
言われて、蒼介ははっとした。確かにその通りだ。
この世界において、魔力を帯びた道具、いわゆる魔道具は決して珍しいものではない。だが、明確な意思を持って人間と対話するペンダントなど、聞いたことがない。
もしセレスティーナにその存在を知られれば、どうなるか。
「おそらく、禁制品か何か、よほど曰く付きの呪われた品だと思うでしょうね。最悪の場合、問答無用で破壊しようとするかもしれませんわ。あなたごと、ね」
「……なるほどな。そりゃあ、まずい」
蒼介はリリアーナの的確な指摘に納得した。自分のことしか考えていなかった。リリアーナの存在が、この世界では極めて異質で、危険なものだと認識されかねないという可能性に、考えが至っていなかったのだ。
「悪い、リリア。気が回らなかった」
「別に、謝ってほしいわけではございませんわ」
言って、それまで感情を抑えていたかのように、リリアーナが不満げな声を上げた。
「……しかし、随分と無礼な女でしたわね! 命を救ってくれたのは事実かもしれませんが、あの言い草はなんですか! 邪道? 卑小? 聞いていて胸糞が悪くなりましたわ!」
「はは、お前もそう思うか」
リリアーナの怒りに、蒼介は思わず笑みがこぼれた。自分以上に、彼女の方が腹を立ててくれている。それが、なんだか無性に嬉しかった。
沈んでいた心が、少しだけ軽くなるのを感じる。
「まあ、確かに言い方はきつかったがな。だが、あいつの言うことも一理ある。俺の戦い方が、正々堂々としたもんじゃねえってのは、事実だからな」
「何を言っているのですか! あなたの戦い方は、知恵と勇気で強者に立ち向かう、素晴らしい戦術ですわ! 少なくとも、私にはそう見えます!」
リリアーナは、きっぱりと言い切った。その声には、蒼介への絶対的な信頼が込められている。
「……そうか」
蒼介は短く応えると、腰のペンダントを、ぎゅっと強く握りしめた。
もう、この世界で自分は一人ではない。
自分の戦い方を理解し、信じてくれる存在が、すぐそばにいる。
あの孤高の女騎士には、邪道と罵られたかもしれない。だが、この小さな魂の王女は、それを素晴らしいと言ってくれる。
それだけで、十分だった。
(俺には、こいつがいる)
改めて、互いだけが頼りの状況なのだと認識する。
蒼介は顔を上げ、迷宮の奥を睨んだ。そこにはまだ、セレスティーナという女騎士が残した、圧倒的な力の残滓が揺らめいている。
いつか、あの高みに到達できる日が来るのだろうか。
いや、今はまだ、そんなことを考える時ではない。
「さて、と。感傷に浸ってる暇はねえな。行くぞ、リリア。俺たちのやり方で、この先も進んでいくだけだ」
「……ええ。もちろんですわ、ソウスケさん」
リリアーナの声が、頼もしく響く。
蒼介は新たな決意を胸に、再び暗い迷宮へと足を踏み出した。その足取りに、もはや迷いはなかった。卑小な生存術で、結構。邪道で、上等。
この理不尽な世界で生き残り、故郷へ帰る。
その目的のためならば、どんな汚泥にまみれることも厭わない。
銀色の騎士が残した侮蔑の言葉は、彼の心に小さな棘となって残りながらも、同時に、彼と王女の絆を、より一層強く結びつける楔となっていた。