異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
始まりの街テルスに夜の帳が下りても、その喧騒が完全に消え去ることはない。
酒場で陽気に騒ぐ冒険者たちの声、どこからか聞こえてくる鍛冶の槌音、そして迷宮へと向かう者たちの慌ただしい足音。それらが混ざり合ったざわめきは、この街が眠らないことを証明しているかのようだった。
蒼介は、そんな街の喧騒を遠くに聞きながら、安宿の一室で黙々と明日の準備を進めていた。部屋の中央に置かれた粗末な木製テーブルの上には、今日買い揃えたばかりの道具が並べられている。頑丈な金属製のワイヤーロープ、粘度の高い獣油が詰められた壺、そして魔物の注意を逸らすための発煙筒。どれも高価なものではないが、彼の知恵と組み合わせることで絶大な効果を発揮する……はずの品々だ。
(……よし、こんなもんか)
革袋に道具を詰め終え、蒼介はベッドの縁に腰掛けた。ぎしり、と安普請のスプリングが悲鳴を上げる。壁に立てかけてある愛用の剣に目をやり、それから己の手のひらを見つめた。ナノマシンの恩恵で強化されてはいるが、この手は魔法を生み出すことも、奇跡を起こすこともない。ただ、己の経験と知恵を頼りに、現実を切り拓くだけだ。
脳裏で、何度も戦闘のシミュレーションを繰り返す。
【
突進をどう躱すか。
いかにして体勢を崩させ、無防備な腹を晒させるか。
好機は一度きりだろう。その一瞬に、全てを懸けなければならない。考えれば考えるほど、胃の奥が冷たくなるような感覚に襲われる。シーカーとして、幾度となく死線を潜り抜けてきた。その経験が、今回の戦いが決して生易しいものではないと警告している。
(……しくじれば、死ぬ。それだけだ)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
恐怖を飼い慣らすことは、シーカーにとって必須のスキルだった。だが、頭では理解していても、心の奥底から湧き上がる本能的な恐怖を完全に消し去ることはできない。
ふと、窓の外に目を向けた。この世界の月は、地球のそれよりも大きく見える。しかし、今夜は新月。夜空には星々が瞬くだけで、月はその姿を隠していた。漆黒の闇が、世界を支配している。
その闇が、心の隙間に滑り込んでくるようだった。孤独感が、じわりと胸に広がる。元の世界では、ランク昇格試験で仲間を失って以来、常に一人で戦ってきた。それが当たり前だった。だが、この異世界に来てからは、その孤独がやけに身に染みる。
「…………死にたくねえなぁ」
誰に聞かせるでもなく、本音がぽろりと口から零れ落ちた。それは、虚勢も皮肉も含まない、剥き出しの感情だった。情けない独り言だと自嘲しかけた、その瞬間。
ふわり、と。
まるで夜風が戯れるように、蒼介の頬が何かに優しく撫でられた。
(……風?)
窓は閉まっている。部屋の中に、風が吹くはずなどない。
はっとして振り返った蒼介は、息を呑んだ。
そこに、一人の少女が立っていた。
月光を編み込んだかのような銀の髪。夜の湖を思わせる深い碧の瞳。半透明の、どこか儚げなその姿は、この世の者とは思えぬほどに幻想的で、そして美しかった。
「……リリア」
呆然と、その名を呼ぶ。彼女は、腰のペンダントから抜け出し、霊体として彼の眼前に姿を現していたのだ。新月の夜、それは彼女が唯一、ペンダントの外へとその幻影を映し出すことができる特別な夜だった。
「……情けない顔をしていますわね、ソウスケさん」
リリアは悪戯っぽく微笑みながらも、その声には責めるような響きは一切なかった。ただ、静かで、穏やかな声だった。蒼介は、自分の弱音を聞かれたことへの気恥ずかしさから、慌てて言葉を返す。
「なっ……いつからそこに」
「ベッドに腰掛けてなにやら思い悩んだ挙げ句、『死にたくねえなぁ』、と仰ったところからですわ」
「……ぜんぶじゃねえかよ」
ばつが悪そうに顔を逸らす蒼介。そんな彼に、リリアはゆっくりと歩み寄る。
実体のない彼女の足は床を踏まず、まるで水面を滑るようにして、彼の目の前で止まった。
その美しさは、どこか恐ろしさすら感じさせる。生きている人間のそれとは、決定的に違う。死という絶対的な壁の向こう側にいる存在。その事実が、蒼介の背筋をぞっとさせた。
(……綺麗、だが……やっぱり、こいつは……)
この世ならざる者。その認識が、彼の心を少しだけ引き締める。
リリアは、そんな蒼介の葛藤を見透かしたかのように、ふっと微笑んだ。その表情は、慈愛に満ちていた。
「貴方は死にませんわ」
凛、と。
静かな部屋に、鈴の鳴るような声が響いた。それは断言だった。何の疑いも、迷いもない、絶対的な確信に満ちた言葉。
「この私が、ついているんですもの」
にこりと微笑むリリア。そのあまりにも真っ直ぐな信頼の言葉に、蒼介は思わず言葉を失った。
胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じる。孤独という名の氷が、ゆっくりと溶けていくような感覚。
(……ああ、そうか。今の俺は、
気恥ずかしさを誤魔化すように、蒼介はわざと乱暴に頭を掻いた。
「ハッ! そりゃあ、心強いこった。なんせ、五百年物の王女様のナビ付きだからな」
「あら、ようやくわたくしの価値がお分かりになりましたの?」
「まあな。せいぜい、的確な指示を頼むぜ、相棒」
軽口を叩きながらも、蒼介の心は不思議と落ち着いていた。
恐怖が消えたわけではない。だが、その恐怖を共に背負ってくれる存在が、すぐ隣にいる。その事実が、何よりも力になった。
リリアは満足そうに頷くと、ふと真剣な表情になり、テーブルの上に広げられた道具に視線を落とした。
「それで、ソウスケさん。そのガラクタ……いえ、道具を使って、一体どのような策をお考えですの?」
「ガラクタとはひでえな。こいつらが今回の主役だぜ」
蒼介は立ち上がり、一つ一つの道具を手に取って、リリアに自身の計画を説明し始めた。
「まず、このワイヤー。奴の突進に合わせて足元にこれを張る。巨体であればあるほど、足を取られた時の隙は大きくなるはずだ」
「なるほど。ですが、あの巨体を止められるとは思えませんわ」
「止める必要はねえ。一瞬、ほんの一瞬だけ体勢を崩させられれば十分だ。突進の勢いで前のめりになったところに、こいつを叩き込む」
蒼介が手に取ったのは、獣油が詰められた壺だった。
「奴の頭部にこれをぶちまける。粘度の高い油だ。視界を奪い、混乱させることができるだろう。なんなら火をつけてもいい」
「……確かに、有効かもしれませんわね。ですが、危険すぎます。突進の進路に飛び込むこと自体が、まさに死地に身を投じるようなもの……」
「だから、こいつの出番だ」
蒼介は最後の切り札、発煙筒を指し示した。
「煙で奴の注意を引きつけ、俺自身は【
淡々と、しかし自信に満ちた声で語る蒼介。それは、幾度ものシミュレーションを経て練り上げられた、彼の知恵の結晶だった。リリアは黙って彼の説明を聞いていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「……貴方という方は、本当に……滅茶苦茶な戦い方をなさいますのね」
「褒め言葉として受け取っとくぜ。力も魔法もねえ俺が、化け物相手に生き残るには、こうするしかねえんだよ」
「……ええ。存じておりますわ」
リリアは静かに頷いた。彼女は、この異邦人が持つ本当の強さを、誰よりも理解していた。それは、決して諦めない心。そして、絶望的な状況下でも、常に活路を見出そうとする、強靭な知性。
「ソウスケさん」
「ん?」
「……必ず、ご無事で。わたくしを、一人にはしないでくださいまし」
それは、弱々しく、そして切実な響きを帯びた、祈りのような言葉だった。長すぎる孤独を生きてきた彼女の、心の叫び。
自分が迷宮に散ったら、彼女はどうなるのだろうか。「主」の跋扈するフロアで、誰にも見咎められることなく、そして自力で動くこともできずにただ朽ち果てるのを待つしかなくなるのか。
……そんな仕打ちを彼女に受けさせるわけにはいかない。
蒼介はリリアの言葉の重みを真正面から受け止め、静かに、しかし力強く頷いた。
「当たり前だろ。お前を元の体に戻す方法を見つけるまで、死んでる暇なんてねえよ」
その言葉に、リリアは心の底から安堵したように、ふわりと微笑んだ。
夜は、静かに更けていく。
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。ただ、静かな時間が流れる。やがて、リリアの半透明の体が、ゆっくりと光の粒子となって薄れていく。新月の夜が、終わりを告げようとしていた。
「……では、また。ペンダントの中でご武運を祈っておりますわ」
「ああ。しっかりナビゲート頼むぜ」
最後の言葉を交わすと、リリアの姿は完全に消え、部屋には再び蒼介一人が残された。
しかし、彼の心を満たしていた孤独感は、もうどこにもなかった。腰のペンダントにそっと触れる。ひんやりとした金属の感触が、確かにそこにある。
(一人じゃ、ない)
その確かな温もりを胸に、蒼介はベッドに横たわった。
窓の外の闇は、相変わらず深い。
だが、彼の心には、決して消えることのない、小さな、しかし力強い光が灯っていた。
決戦の朝は、もうすぐそこまで迫っていた。