異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
回避が間に合わない。
蒼介の眼前に、鉄の城壁が迫る。死を覚悟したその刹那、響いたリリアの凛とした声。
『……私に策がありますわ』
その言葉は、絶望の淵に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように、蒼介の意識を現実に引き戻した。
「策、だと……? この状況で、一体何を……!」
【
轟音。巨体が先ほどまでいた場所を蹂躏し、凄まじい風圧が彼の頬を殴りつける。あとコンマ数秒遅れていれば、間違いなく圧殺されていた。
息も絶え絶えに顔を上げる蒼介に、リリアは畳み掛けるように告げた。その声には、一切の迷いも、揺らぎもない。
『ソウスケさん。先ほど割れずに残った、あの獣油の壺を使いますわ』
「獣油……? あんなもの、投げつけたところで……!」
『投げませんわ。貴方が、浴びるのです』
一瞬、蒼介はリリアが何を言っているのか理解できなかった。
浴びる? 俺が?
混乱する思考を置き去りにするように、リリアの策が脳内に直接流れ込んでくる。
『あの化け物の唯一の弱点は、腹部の関節。ですが、あの巨体と速度では、懐に潜り込むことすら叶わない。……ならば、潜り込むのではなく、滑り込めばよろしいのですわ』
「滑り込む、だと……?」
『ええ。全身にあの粘度の高い獣油を塗りたくり、奴の突進に合わせて真正面から飛び込むのです。あの巨体ならば、胴体下部には僅かな隙間があるはず。そこを、油を塗った貴方自身が弾丸となって、滑り抜ける!』
その策を聞いた瞬間、蒼介は背筋が凍るのを感じた。
それは、策と呼ぶにはあまりにも無謀で、自殺行為としか思えない奇策だった。
突進に合わせて真正面から飛び込む?
タイミングが少しでもずれれば、その瞬間に全身が轢き潰されてミンチになる。
仮に上手く滑り込めたとして、あの巨体の下で身動きが取れなくなれば、後はゆっくりと圧死するだけだ。
「……正気か、お前」
『正気ですわ! このまま逃げ回っていても、貴方の体力が尽きるのが先。ジリ貧であることに変わりはありません!』
リリアの言う通りだった。
【
やるか、やられるか。
その二択しかないのなら、可能性がゼロではない賭けに全てを懸ける。それが、シーカーとしての神谷蒼介の戦い方だった。
(……ああ、クソ。どうせ死ぬなら、やって死ぬしかねえか!)
蒼介の瞳に、再び闘志の火が宿った。
彼は岩陰から岩陰へと跳び、先ほど回避の際に手放し、奇跡的に壁際で割れずに転がっていた獣油の壺へと手を伸ばした。
『グギャアアアッ!』
大鎧百足が、獲物の意図を察したかのように怒りの咆哮を上げる。
蒼介は壺の蓋を力任せに引き剥がし、中のドロリとした粘度の高い獣油を、頭から一気に浴びた。
「……うおっ、最悪だ……!」
生臭い獣の匂いが鼻を突き、視界が油で滲む。だが、構わず両手で油をすくい上げ、鎧の隙間、手足、剣の柄に至るまで、全身に塗りたくった。もはや、自分が人間なのか油の塊なのかわからない。
『来ますわ、ソウスケさん!』
リリアの警告と同時。
大鎧百足が、これまでの突進とは比べ物にならないほどの殺意を込めて、地を蹴った。
黒鉄の暴風。真正面から迫り来る、絶対的な「死」。
蒼介は、油で滑る剣の柄を強く、強く握りしめた。
(タイミングは、一度きり。しくじれば、終わりだ)
彼は両膝を深く沈め、クラウチングスタートのような体勢を取る。
迫る巨体。
轟音と共に、無数の脚が地面を削り、火花が散る。
赤い複眼が、蒼介を嘲笑うかのように見開かれる。
50メートル。
30メートル。
10メートル。
――今だッ!
『ソウスケさん!』
リリアの絶叫と、蒼介が地面を蹴るタイミングは、完全に同時だった。
スキル【
世界が、再びスローモーションになる。
彼は、迫り来る巨大な顎門目がけて、ヘッドスライディングのように、頭から飛び込んだ。
目標は、顎の下。巨体を支える無数の脚と地面との、わずか数十センチの隙間。
ゴウッ、と。
蒼介の身体が、大鎧百足の腹部の下へと吸い込まれていく。
全身に塗りたくった獣油が、潤滑剤として完璧に機能していた。
――ガガガガガガガッ!!
凄まじい摩擦音と振動が、蒼介の全身を襲う。
まるで、高速で回転するヤスリの間に挟まれたかのようだ。
硬い外殻と、ざらついた地面との間に挟まれ、凄まじい速度で引きずられていく。
全身の骨がきしみ、内臓が揺さぶられる。
油を塗っていなければ、一瞬で装備ごとすり潰されていただろう。
(……クソッ、視界が……!)
油と埃と、自身の血で視界がほとんど奪われる。
だが、彼はこの一瞬のために、最後のスキルを温存していた。
「【
スキルを発動させた瞬間、蒼介の脳内に、大鎧百足の内部構造が青白い光の奔流となって流れ込む。
無数の脚の付け根。その奥で、まるで神経網のように複雑に絡み合い、脈動する魔力のライン。
これこそが、この化け物を動かす神経索。
(どこだ……弱点はどこだ!)
【
その全てが弱点に見え、同時に全てがただの生命活動のラインにも見える。
その時、リリアの冷静な声が響いた。
『ソウスケさん! 第七関節、右! 先ほどから旋回の軸になっていた脚ですわ! そこに、魔力の流れが不自然に集中しています!』
リリアの指摘に、蒼介は意識を集中させる。
確かに、そこだけが他の部位とは比べ物にならないほど、強く、激しく脈打っている。
あれが、この巨体を制御する中枢神経だ!
(そこか……ッ!)
だが、目標のポイントは、凄まじい速度で蒼介の上を通過していく。
このままでは、何もできずに巨体の後方へと滑り抜けてしまう。
「……止まれや、コラァッ!」
蒼介は、油で滑る手を必死に地面に叩きつけ、爪を立てるようにして無理やり摩擦を生み出す。
右手に握った剣を、逆手に持ち替え、切っ先を地面に突き刺した。
火花が散る。
凄まじい抵抗を受け、腕が折れそうなほどの衝撃が走る。
だが、そのおかげで、蒼介の滑走速度がほんのわずかに緩んだ。
そして、ついに。
リリアが示した「第七関節、右」が、彼の頭上へと差し掛かった。
外殻の隙間から覗く、わずかに柔らかそうな、生々しい結合組織。
そこに、全ての神経が集約されている。
(――もらったッ!!)
蒼介は、地面に突き立てていた剣を引き抜き、渾身の力を込めて、その一点目がけて突き上げた。
剣先が、硬い外殻の隙間に食い込む。
だが、浅い。
これでは、神経索を断ち切るには至らない。
『グギャ……!?』
腹部に異物を感じ取った大鎧百足が、わずかにその動きをよろめかせた。
巨体が傾き、蒼介の身体に凄まじい圧力がかかる。
「ぐ……あ……あああああッ!」
圧死する。
その恐怖を、アドレナリンで無理やりねじ伏せる。
蒼介は、空いている左手を剣の柄頭に添え、ナノマシンで強化された全ての筋力を、その一点に集中させた。
「貫け……ッ! ブチ破れェェェェェェェェェェェッ!!!!!!」
筋力の全てを乗せた一撃が、ついに硬い結合組織を突き破った。
ズブリ、と。
生暖かい肉の感触が、剣を通して手に伝わる。
そして、確かに何本もの太いスジを断ち切った、確かな手応えがあった。
――グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
これまでとは比較にならない、断末魔の絶叫がドーム全体を揺るがした。
大鎧百足の巨体が、まるで意志を失ったかのように、凄まじい勢いで痙攣を始める。
無数の脚が、もがき苦しむように空を掻き、地面を叩きつける。
(……や、べ……!)
蒼介は、突き刺した剣が折れるのも構わず、必死に身を引き抜こうとする。
だが、暴れ狂う巨体の下で、獣油の潤滑効果ももはや意味をなさない。
次の瞬間、大鎧百足は最後の力を振り絞るかのように巨体を大きくくねらせ、そのまま横倒しになるように、地面へと倒れ伏した。
轟音。
凄まじい地響きと共に、砂埃が舞い上がる。
そして、ドームを支配していた鉄の暴風は、ピタリと、その動きを止めた。
静寂が、訪れる。
砂埃がゆっくりと晴れていく中、そこには、動かなくなった黒鉄の巨体が横たわっているだけだった。
『……ソウスケさん? ソウスケさん! ご無事ですの!? 返事をしてくださいまし!』
ペンダントから、リリアの必死の呼びかけが響く。
だが、蒼介からの返事はない。
彼は、倒れ伏した巨体の、そのわずかな隙間の下で、油と血と泥に塗れたまま、ぴくりとも動かなくなっていた。