異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第29話 始まりの街の噂

 静寂が、死んだようにドームを支配していた。

 先ほどまで空間を蹂躙していた鉄の暴風は、今やただの巨大な骸と化し、その動きを完全に止めている。舞い上がっていた砂埃がゆっくりと地面に落ち、重苦しい金属の錆臭さと、生々しい血の匂いだけが漂っていた。

 

『ソウスケさん! ソウスケさん! ご無事ですの!? 返事をしてくださいまし! ソウスケさん!!』

 

 ペンダントから響くリリアの悲痛な叫びが、静寂の中で虚しく木霊する。

 呼びかけに応える声はない。

 倒れ伏した【大鎧百足(グランアーマー・センチピード)】の巨体。そのわずかな隙間、胴体下部の暗がりで、油と血と泥にまみれた人影が、まるで打ち捨てられた人形のように動かずにいた。

 

 リリアの心に冷たい絶望が広がり始めた、その時。

 

「……げほっ、ごほっ……!」

 

 微かな、しかし確かな咳き込む声がした。

 人影が、もぞり、と動く。

 

『ソウスケさん!?』

「……るせえ……耳元で、喚くな……頭に響く……」

 

 くぐもった、掠れた声。

 蒼介は、奇跡的に生きていた。

 全身を襲う、骨がきしむような激痛。まるで、大型のプレス機に挟まれたかのような圧迫感と、内臓が揺さぶられた後のような不快感が、彼の意識を再び刈り取ろうとする。

 

(……生きて、る、のか……俺は……)

 

 朦朧とする意識の中、彼は自分が巨体の下敷きになっていることを理解した。

 幸い、倒れ込む直前に剣を引き抜き、地面のわずかなくぼみに身体を滑り込ませたことで、完全な圧死だけは免れたようだった。だが、状況は最悪に近い。鎧の一部が巨体の外殻に引っかかり、身動きが取れなくなっていた。

 

 体内のナノマシンが【自己修復(リペア)】を発動し、全身の打撲や裂傷を懸命に修復しようとしているが、消耗した体力と蓄積したダメージは、その回復速度を上回っていた。

 

『ご、ご無事でしたのね……! よかっ、本当によかったですわ……!』

 

 リリアの声は、安堵のあまり涙で震えている。

 その声に、蒼介は重い瞼をこじ開けた。

 

「……ああ。どうやら、閻魔様に嫌われた、らしい……」

 

 彼は油で滑る手を地面につき、折れそうな腕に力を込める。

 ひび割れた鎧がギシリと音を立て、巨体の重みが肩にのしかかる。

 

「ぐ……ぬ、ぅ……!」

 

 歯を食いしばり、文字通り這いずるようにして、巨体と地面の隙間から身を引きずり出そうともがく。

 数分か、あるいは数十分か。

 時間の感覚も曖昧になるほどの激痛と格闘した末、蒼介はついに、暗い隙間から光の差す空間へと転がり出た。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

 仰向けに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す。

 ドームの天井にある岩の裂け目から差し込む、微かで、しかし今は暖かくすら感じる光が、彼の顔を照らした。

 

 その姿は、凄惨という言葉すら生ぬるいものだった。

 全身に塗りたくった獣油は、砂埃と自身の血、そして「主」の体液と混ざり合い、黒く粘ついた汚泥のようにこびりついている。

 

 身に着けていた革鎧は至る所がひび割れ、砕け、原型を留めていない。

 顔も髪も、油と汚れで覆われ、もはや元の面影はなかった。

 

『…………』

 

 そんな彼の姿を、リリアは(おそらくペンダント越しに)感じ取っているのだろう。先ほどまでの安堵の声が、ぴたりと止まった。

 

「……なんだよ。言いたいことが、あるなら言えよ」

『……いえ。その……なんというか……』

 

 リリアは、珍しく言葉を濁した。

 そして、数秒の沈黙の後、耐えきれないといった様子で、ふふっ、と小さな笑い声を漏らした。

 

『……まるで、大雨の日に泥水に落ちた、野良犬みたいですわ』

「……違えねえ」

『見ているだけで、こちらまで獣臭くなってきそうですわ。ええ、本当に。ひどい有様ですわよ、ソウスケさん』

「……上等だ。生きてる証拠だろ、こいつは」

 

 軽口を叩きながらも、蒼介は身体を起こすことすらままならない。

 リリアの悪態は、彼が生きていることを実感する、何よりの証だった。

 

 彼はしばらく大の字になったまま、ただ呼吸を整えることに集中した。

 

(……勝った、のか。本当に……)

 

 あの絶望的な状況から、生き残った。

 それは、己の知恵とスキル、そして何よりも、リリアという「相棒」がいたからこそ成し得た奇跡だった。

 

「……さて」

 

 【自己修復(リペア)】がようやく全身に行き渡り、激痛が鈍い痛みに変わってきた頃。

 蒼介は、満身創痍の身体を引きずるようにして立ち上がった。

 よろめきながら、動かなくなった大鎧百足に近づく。

 

「主」の骸は、その巨体に見合った大小の魔石と、いくつかの素材を残して、ゆっくりと光の粒子へと変わり始めていた。蒼介は、その中でも一際大きく、不気味な光を放つ黒鉄色の魔石と、硬そうな外殻の一部を拾い上げる。これが、討伐の証となるはずだ。

 

 そして、巨体が完全に消え去った後。

 ドームの奥、それまで「主」が守るように鎮座していた場所に、新たな道が口を開けているのが見えた。

 第十層のさらに下、第十一層へと続く階段だ。

 

「……道は、開けたな」

『ええ。ですが、今の貴方で先に進むのは無謀というものですわ。まずは街に戻り、傷を癒し、装備を整えるべきです』

「言われなくても。こんな油まみれで、次の階層なんぞにご挨拶できるかよ」

 

 蒼介はふらつく足取りで、第十層の入り口へと引き返す。

 懐から、街の商店で購入した「帰還のスクロール」を取り出した。一枚で銅貨数十枚もする高価な魔道具だが、今の彼には、第一層まで歩いて戻る体力など欠片も残っていなかった。

 

 スクロールを破り捨てると、蒼介の身体は淡い光に包まれ、その場からふっとかき消えた。

 後に残されたのは、激闘の痕跡が生々しく残るドームと、完全な静寂だけだった。

 

 

 *

 

 

 始まりの街テルス。その中央に位置する冒険者ギルドは、夕暮れ時を迎え、いつものように活気に満ち溢れていた。

 迷宮探索を終えて帰還した冒険者たちが、今日の成果を肴に酒場で盛り上がり、あるいは武具の手入れに余念がない。依頼掲示板の前では、新たな稼ぎを求める者たちがパーティ編成の交渉に声を荒げている。

 そんな喧騒の只中へ、その「異物」は現れた。

 

 ギィ、と。

 ギルドの重い木製の扉が開く。

 そこに立っていたのは、人というよりも、油と泥と血にまみれた「何か」だった。

 全身から滴り落ちる黒く粘ついた液体が、ギルドの石床に染みを作り、強烈な獣の悪臭と錆臭さが、瞬く間に周囲に拡散する。

 

「……うおっ、なんだぁ!?」

「くっせ! どこの汚水溜めに落ちてきたんだ、あいつ!」

 

 入り口近くにいた冒険者たちが、たまらず鼻を押さえて後ずさる。

 ギルド内の喧騒が、まるで波が引くように、その異物を中心に静まり返っていく。

 全ての視線が、その一点に集中した。

 

 その「何か」――神谷蒼介は、周囲の反応など意にも介さず、ただひたすらに、ギルドカウンターを目指してふらふらと歩を進めた。

 一歩、また一歩と踏み出すたびに、床に汚れた足跡が残る。

 彼が通り過ぎた場所では、冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように道を空けた。誰もが、その常軌を逸した汚れと悪臭に顔をしかめ、同時に、その満身創痍の姿に息を呑んでいた。

 

(……ああ、クソ。シャワー浴びてえ。今すぐ浴びてえ)

 

 突き刺さる視線を疲労で麻痺した感覚で受け流しながら、蒼介はただそれだけを考えていた。

 やがて、彼は受付カウンターの一つにたどり着くと、重い身体をもたせかけるようにして、カウンターに手をついた。

 

「……報告だ」

 

 カウンターの向こう側にいたのは、まだ若い女性職員だった。

 彼女は、目の前に現れた「汚泥の塊」に一瞬言葉を失い、反射的に鼻を押さえそうになるのを、必死の職業意識で堪えていた。

 

「は、はい……! お疲れ様です……。ええと、依頼の、ご報告でしょうか……?」

「いや。依頼は受けてない」

 

 蒼介は、懐から例の黒鉄色の魔石と、外殻の破片を取り出すと、ドン、と無造作にカウンターの上へ置いた。

 硬質な音と共に、カウンターが黒い油で汚れる。

 

「第十層の主、【大鎧百足(グランアーマー・センチピード)】。……討伐、完了だ」

 

 淡々とした、疲れの滲む声。

 その言葉がギルド内に響いた瞬間、それまで遠巻きのざわめきだった空気が、完全に、凍りついた。

 

 しん、と。

 あれほど騒がしかったギルドが、水を打ったように静まり返る。

 酒場のジョッキの音も、冒険者たちの談笑も、全てが止まった。

 

 受付の女性職員は、蒼介が何を言ったのか理解できず、数秒間、ぱちくりと瞬きを繰り返した。

 

「……え? あの……今、なんと……?」

「聞こえなかったか? 第十層の主。倒してきた」

 

 蒼介が、苛立たしげにもう一度繰り返す。

 女性職員は、カウンターに置かれた魔石と外殻に視線を落とした。

 そして、次の瞬間。彼女の顔色が変わった。

 

 魔石の査定は、ギルド職員の必須スキルだ。彼女の目は、カウンターに置かれた魔石が、通常の魔物から採れるものとは比較にならないほど高密度で、邪悪なまでの魔力を放っていることを、即座に見抜いていた。

 

「こ、これ……は……。ま、まさか、本物の……!?」

「ああ。換金と、第十一層への到達証明、頼む」

「し、少々お待ちください! す、すぐに鑑定士を……! リーダー!! リーダーッ!!」

 

 女性職員が、裏の事務所に向かって半ばヒステリックに叫ぶ。

 そのただならぬ様子に、ギルド内の空気は、静寂から爆発的なざわめきへと一変した。

 

「おい、今……『第十層の主』って言わなかったか?」

「ああ、言った。あいつが、倒したって……一人で?」

「馬鹿言え! 第十層の主だぞ!? 銅級パーティがいくつも挑んで、返り討ちに遭ってるんだぞ!」

「だが、あの魔石……俺はあんな魔石、見たことねえ……」

 

 冒険者たちが、固唾を飲んでカウンターを見守る。

 すぐに、事務所の奥からベテランと思しき恰幅の良い男性職員が、何事かと険しい表情で現れた。

 

「騒がしいぞ! 一体何が……」

「リ、リーダー! これを……!」

 

 女性職員に促され、カウンターの上の魔石を見たリーダーの目が、カッと見開かれた。

 彼は、蒼介の油まみれの姿と、魔石とを二度、三度と見比べ、信じられないといった表情で魔道具のルーペを取り出す。

 

 鑑定作業は、異様な静けさの中で行われた。

 ギルド中の視線が、リーダーの手に集中している。

 やがて、リーダーは震える手でルーペを離すと、蒼白な顔で蒼介を見上げた。

 

「……間違いない。これは……【大鎧百足(グランアーマー・センチピード)】の魔核だ。……これを、君が……」

「ああ」

「……単独(ソロ)で、か?」

 

 その問いに、ギルドの空気が再び張り詰める。

 蒼介は、億劫そうに頭を掻いた(油で手がベタついただけだったが)。

 

「見ての通り、パーティを組んでる余裕はなかったんでな」

 

 その答えは、肯定だった。

 リーダーは、わなわなと唇を震わせた。

 

「……前代未聞だ」

 

 ぽつり、と漏らされた言葉。

 だが、静まり返ったギルド内では、その一言が全員の耳に届いていた。

 

「銅級冒険者が……いや、単独(ソロ)で第十層の主を討伐した者など、このテルスのギルドが始まって以来、一人もいない……!」

 

 その言葉が、引き金だった。

 ギルド内が、爆発した。

 

「う、嘘だろ!?」

「お、俺あいつ知ってるぞ! あの『魔法なし』の銅級だろ!? 試験で妙な動きしてた奴だろ!?」

「あいつ、カミヤ・ソウスケ……! 登録したての新人じゃねえか!」

「銅級がソロで主討伐なんぞ、死にに行くようなもんだ! イカサマだろ!」

「だが、ベテラン職員が本物だと……!」

 

 嫉妬、驚愕、猜疑、そして畏怖。

 様々な感情が入り混じった視線が、蒼介に突き刺さる。

 

 登録試験の時から、一部の職員や、模擬戦を見ていた者たちは、蒼介の常識外れの戦闘スタイルに注目していた。魔法を使わず、奇妙な動きと知恵だけで試験官を圧倒した新人。

 だが、それはあくまで「試験」での話。

 実戦、それも格上のパーティすら退ける「主」を相手に、それが通用するとは誰も思っていなかった。

 

 しかし、今、現実に。

 銅級冒険者・神谷蒼介は、たった一人でそれを成し遂げ、こうして生きて帰還した。

 その事実は、彼らが持つ「常識」を、根底から破壊するものだった。

 

「魔法を使わない謎の新人」。その噂は、もはや噂ではなく、この街の冒険者たちにとって無視できない「現実」の脅威、あるいは新たな「伝説」の始まりとして、ギルド中に知れ渡った瞬間だった。

 

(……あー、うるせえ。だから、目立ちたくなかったんだよ)

 

 熱狂するギルドの喧騒を他人事のように聞きながら、蒼介はカウンターに置かれた換金用の金貨の袋を掴む。

 

「……風呂入らなきゃな」

 

 獣油の悪臭を撒き散らしながら、熱狂の中心地から逃げ出すように、蒼介はギルドを後にした。

 彼の背中に突き刺さる無数の視線が、これから始まるであろう「面倒事」の予兆であることを、彼は疲労困憊の頭でぼんやりと理解していた。

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