異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
始まりの街テルスでの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる静かな朝だった。
安宿の、決して上等とは言えないベッドの上で神谷蒼介は目を覚ます。全身を包む鈍い痛みは、昨夜までの激闘を思えばむしろ心地よい生の実感ですらあった。ナノマシンによる【
(……それにしても、昨日はひどいもんだったな)
油と血と汚泥にまみれた姿でギルドに乗り込んだ自分の姿を思い出し、蒼介は苦笑を漏らした。あの後、宿の主人に金貨を数枚余分に握らせて特大の湯船を借り切り、固形石鹸を半分以上使い潰してようやく人心地がついたのだ。剥がれ落ちた汚れは、まるで黒いヘドロとなって排水溝を詰まらせかけたほどだった。
『おはようございます、ソウスケさん。随分とぐっすりでしたわね。まるで泥のように眠る、とは昨日の貴方のためにある言葉ですわ。むしろ昨日は汚泥そのものでしたけど』
腰に置いたままのペンダントから、呆れを含んだリリアの声が響く。彼女の幻影は新月の夜にしか現れないが、その意識は常にペンダントと共にある。
「うるさい。死ぬか生きるかの瀬戸際で戦ったんだ。泥くらいにはなるだろ」
『ふふん。まあ、あの絶望的な状況から生還したことだけは、褒めて差し上げてもよろしくてよ』
「そりゃどうも」
軽口を叩き合いながら、蒼介は身を起こした。窓から差し込む光が、街の朝の訪れを告げている。
ギルドでの一件は、間違いなく面倒の種を蒔いた。
銅級の、それもまだ登録したてと言ってもいいソロ冒険者が、第十層の主を討伐した。前代未聞のその事実は、嫉妬や猜疑、あるいは過剰な期待となって、これから蒼介にまとわりついてくるだろう。
(あんまり目立ちたくなかったんだがな……)
元の世界でB-ランクシーカーだった頃、彼は意図的にそれ以上のランク昇格を避けていた。ランクが上がれば報酬も増えるが、それ以上に面倒な指名依頼や、組織間のしがらみが増えることを知っていたからだ。何より、かつて仲間を失った昇格試験のトラウマが、彼の上昇志向を鈍らせていた。
この世界でも、上位の力を持つ者に課されるそれは同じはずだ。
『何を難しい顔をしていますの? 貴方の実力が正当に評価されたというだけの話ではありませんか』
「正当な評価ってやつが、一番厄介なんだよ。期待ってのは、それに応えられなかった時に失望に変わる。俺はそんなもんに振り回されるのはごめんだ」
『相変わらず、ひねくれた考え方ですこと』
「現実的なだけだ」
蒼介は立ち上がり、大きく伸びをする。
ひび割れ、砕け散った革鎧は、昨日のうちに宿のゴミ捨て場に放り込んである。新しいものを調達しなければ、迷宮に潜ることすらできない。
「さて、と。まずは装備の買い出しか。それから、次の階層の準備だな」
『ええ。道は開かれましたもの。進まないという選択肢はありませんわ』
リリアの言葉に、蒼介は静かに頷いた。
元の世界に帰る。その唯一の目的のために、彼は大迷宮の最深部を目指すと決めたのだ。昨日までの戦いは、その決意を鈍らせるどころか、より強固なものにしていた。
蒼介は手早く身支度を整えると、宿の一階にある食堂で簡単な朝食を済ませ、テルスの目抜き通りへと足を踏み出した。
朝の活気に満ちた街。行き交う人々の中には、明らかに冒険者とわかる武具を身に着けた者も多い。彼らの一部が、蒼介の姿を認め、ひそひそと何かを囁き合っているのが分かった。
「おい、あれ見ろよ……」
「ああ、昨日の……『魔法なし』の……」
「あいつが本当に、一人で第十層の主を……?」
突き刺さる視線。好奇と、若干の畏怖が混じったそれに、蒼介は内心で舌打ちしながらも、表情には出さずに歩き続ける。
『人気者ですわね、ソウスケさん』
(面白がってやがるな、こいつ……)
「放っとけ。どうせすぐに忘れる」
『そうですかしら? 伝説の始まり、というものは、いつだって些細な噂から始まるものですわよ』
「俺は伝説になんぞなりたくない。平穏無事に目的を果たして、とっとと元の世界に帰る。それだけだ」
彼は冒険者御用達の武具店に立ち寄ると、新しい革鎧と、いくつかの消耗品を買い揃えた。店主は蒼介の顔を見るなり、驚いたように目を見開き、そしてすぐに媚びるような笑みを浮かべてきた。昨日ギルドにいたか、お節介な冒険者に話を聞いたのだろう。蒼介は必要最低限の会話だけで支払いを済ませ、早々に店を出た。
次に蒼介が向かったのは、街の中央広場を抜けた先にある、大迷宮への入り口だった。
巨大な洞穴が、まるで大地そのものが口を開けたかのように不気味に広がっている。その奥には、「帰還のスクロール」とは対になる存在――一度到達した階層へと瞬時に移動できるという「転移門」が設置されていた。
転移門の周囲には、これから迷宮に挑む冒険者たちがパーティごとに集まり、最後の打ち合わせを行っている。その誰もが、蒼介の存在に気づくと、わずかに道を空けた。ソロで主を討伐したという噂は、すでにこの街の冒険者たちにとって無視できない事実となっていた。
「行くぞ、リリア」
『ええ。準備はよろしいですの?』
「ああ。いつでもいい」
蒼介は、転移門を管理するギルド職員に冒険者カードを提示し、行き先を告げた。
「第十一層へ」
職員は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに畏敬の念のこもった手つきで門の起動操作を行った。
足元の石畳に刻まれた魔法陣が、淡い青色の光を放ち始める。視界が光に塗りつぶされ、ふわりとした浮遊感が全身を包み込んだ。現代のダンジョンにはない、不思議な感覚だった。
そして、次の瞬間。
光が収まり、蒼介の足は再び硬い地面を踏みしめていた。
しかし、そこに広がっていた光景は、彼がこれまで経験してきたどのダンジョンとも、そして大迷宮の第十層までとも、全く異質のものだった。
「……なんだ、こりゃあ……」
思わず、呆然とした声が漏れた。
そこは、洞窟ではなかった。
途方もなく広大な、巨大な空洞。高さも幅も、もはや目測することすら馬鹿らしくなるほどの空間が広がっている。
そして、何よりも異常なのは、その「上下」の感覚だった。
蒼介が立っている地面は、存外しっかりとしている。だが、見上げるべき「天井」――そこには、空も、岩盤もない。
代わりに、そこから無数の巨大な幹が、「逆さま」に生えていた。
太い幹は天から地へと伸び、その先で幾重にも枝分かれしている。巨大な根は、天井の岩盤に深く食い込むように絡みつき、まるで天を支える柱のようだ。枝と枝、根と根が複雑に絡み合い、立体的な迷路を形成している。
天井の岩盤の裂け目からは、どこからか差し込む陽光のような光が筋となって降り注ぎ、逆さの森を幻想的に照らし出していた。光を浴びた葉は青々と茂り、時折、きらきらと光る鱗粉のようなものが舞い落ちてくる。
だが、その美しさとは裏腹に、足元を見れば、遥か下方に広がる奈落の闇が口を開けていた。蒼介が立っている場所は、巨大な逆さ大樹の、比較的太い枝の上のようだ。そこから一歩踏み外せば、待っているのは間違いなく死だろう。
道らしい道はない。ただ、無数に伸びる枝や根が、かろうじて足場となっているだけだ。どこが安全なルートで、どこが脆い枝なのか、一見しただけでは全く判別がつかない。
遠くからは、鳥とも獣ともつかない、奇妙な鳴き声が反響して聞こえてくる。
第十層までの、閉鎖的でオーソドックスな洞窟型の階層とは、あまりにもかけ離れた光景。高低差と、落下という明確な死の危険が支配する、アスレチックな階層。
階層の中央付近には、ひときわ巨大な樹が、もちろん逆さまに生えていた。巨大樹の張り巡らす枝と、衛星のように生える他の大樹たちによって、なんとか道らしきものを構築している。
そして巨大樹の幹には、いくつかの
蒼介は、そのあまりに現実離れした光景を前に、しばし言葉を失っていた。そして、脳裏にかつて夢中になった、ある記憶がよみがえり、思わず口をついて出ていた。
「……デクの樹さま!?」
『……なんですの、それは』
ペンダントから聞こえるリリアの素っ頓狂な声に、蒼介ははっと我に返った。
「……ここの『主』は一つ目の大蜘蛛かもしれねえぞ」
『? よく分かりませんけれど……。しかし、これは……。わたくしの知る光景とも、少し様子が違いますわね。もっと、こう……樹々の密度が低く、道も分かりやすかったはずですが』
リリアの言葉に、蒼介は改めて周囲を見渡す。
500年という歳月は、迷宮の姿すら変貌させるということか。あるいは、彼女の記憶が曖昧になっているだけか。どちらにせよ、目の前にあるのは、一筋縄ではいかないであろう危険な環境だ。
「とにかく、慎重に進むしかないな。ここでは戦闘よりも、足元の確保が最優先だ」
『ええ。敵との戦闘中に足を滑らせるのが、最も愚かな死に方ですわ』
「全くだ」
蒼介は懐からロープを取り出し、いつでも使えるように腰に結びつける。さらに、ブーツの靴紐を固く締め直し、手袋の感触を確かめた。
彼はスキル【
半径50メートル以内の情報が、脳内に流れ込んでくる。魔力の流れ、生命反応、そして構造物の強度。
今、彼が立っている枝は十分に頑丈だ。だが、数メートル先で隣の枝に繋がっているように見える細い部分は、探知によれば酷く脆くなっている。見た目に騙されて飛び移れば、枝ごと奈落へ落ちていただろう。
(……厄介な階層だな。スキルなしじゃ、一歩進むのも命がけだ)
蒼介は、脆い箇所を避け、慎重にルートを選びながら、一歩、また一歩と踏み出していく。
第十層を突破したという達成感は、すでに消え去っていた。目の前に広がる新たな脅威を前に、彼の心は再び、シーカーとしての冷徹な緊張感に支配されていた。
『ソウスケさん。あちらの枝の先に、何か光るものが見えますわ』
リリアの声に促され、蒼介は視線を向ける。
数十メートル先、別の太い枝の上に、確かに何かが淡い光を放っていた。鉱石か、あるいは何かの魔道具か。
「行ってみるか。だが、焦りは禁物だ」
まっすぐには行けない。いくつかの枝を伝い、回り込むようにして進む必要がある。
新たな階層での探索が、静かに始まった。
それは、ただひたすらに、己のスキルと判断力だけが頼りの、孤独で危険な綱渡りのような行軍だった。
逆さに生える巨大な樹々の森は、挑戦者を試すかのように、ただ静かにそこに存在していた。