異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
### 第35話:心許ない足場
巨大な洞は、相変わらず、まるで死んだ巨人の口のようにぽっかりと開いていた。その暗がりの奥から、ついさっきまで蒼介が感じていたはずの「安全」という甘美な響きは微塵も感じられない。代わりに、無数の冒険者たちの無念と絶望が、音もなく滲み出してくるかのようだった。
「……行くぞ」
気まずい沈黙を破ったのは、蒼介の方だった。セレスティーナに命を救われた形になった手前、どうにもバツが悪い。だが、感傷に浸っている暇など、この大迷宮には一秒たりとも存在しない。彼は努めて平静を装い、巨大な逆さ大樹の幹から伸びる、別の枝へと一歩踏み出した。
「ふん」
セレスティーナは短く鼻を鳴らし、彼の後に続く。先程までの嘲笑の色は彼女の瞳から消え、代わりに銀級冒険者としての厳しい光が宿っていた。彼女もまた、この【逆さ大樹】の階層の本当の恐ろしさを再認識したのだろう。見えている道が、必ずしも真実の道とは限らない。その逆もまた、然り。
『ソウスケさん、気を引き締めていきなさい。あの女騎士の言う通り、この迷宮は人の心の隙間に付け入るのが得意なのですから』
腰のペンダントから、リリアの静かな、しかし芯の通った声が響く。彼女の言葉はいつも、蒼介の浮つきがちな思考を現実へと引き戻してくれる。
(わかってる。俺は、この世界の素人だ)
シーカーとしての経験とプライドが、知らず知らずのうちに傲慢さを生んでいたのかもしれない。蒼介は内心で自嘲し、目の前の光景に意識を集中させた。
彼らが今進んでいるのは、大人が両腕を広げたくらいの太さの枝だ。表面はごつごつとした硬い樹皮に覆われ、所々に生えた苔が足を滑らせる。眼下には奈落の闇が広がり、時折吹き上げる風が、ぞっとするような冷たさで肌を撫でた。一歩踏み出すごとに、自身の体重が足元の枝を軋ませる音が、やけに大きく聞こえる。
「あまり幹から離れるな。枝の先端に行くほど強度は落ちる」
前を歩くセレスティーナが、振り返りもせずに忠告を飛ばす。その声には、先程までの棘はなかった。純粋な、パーティメンバーとしての気遣い。
「言われなくてもわかってる」
蒼介はぶっきらぼうに返しつつも、素直に幹に近い側へと進路を修正した。騎士道がどうとか、邪道がどうとか、二人の間にある溝は深い。だが、生き残るという一点において、彼らの目的は完全に一致していた。今はそれで十分だった。
しばらくは、単調な移動が続いた。時折、枝の裏側に潜んでいた巨大な芋虫のような魔物や、樹皮に擬態したトカゲ型の魔物が襲い掛かってきたが、セレスティーナの剣技と蒼介の的確なサポートの前では敵ではなかった。セレスティーナが魔法の光を纏った剣で魔物の注意を引きつけ、蒼介がその隙に死角からナイフを投擲して動きを止める。そんな即席の連携も、少しずつ形になりつつあった。
(……だが、静かすぎる)
蒼介は眉をひそめた。これまで経験してきたダンジョン、そしてこの大迷宮の浅層も、ここまで静かではなかった。魔物の気配が少ないのは結構なことだが、この静けさは嵐の前の静けさのようにも感じられる。まるで、この階層の支配者が、侵入者を品定めするように観察しているような、そんな不気味さがあった。
スキル【
その時だった。
キィィィィィィィィ―――ッ!
甲高い、耳を劈くような鳴き声が、階層全体に響き渡った。それは単なる威嚇の咆哮ではない。獲物を見つけた捕食者の、歓喜の叫びだった。
「来るぞ!」
蒼介が叫ぶのと、遥か下方の霧の中から、無数の黒い影が舞い上がってきたのは、ほぼ同時だった。
それは、蝙蝠に似た翼を持つ、人頭大の魔物の群れだった。だが、その顔には目はなく、代わりに口が大きく裂け、無数の牙が覗いている。全身を覆うのは黒い体毛。彼らは不規則な軌道で飛び回りながら、一直線に蒼介たちへと殺到してくる。
「グレイブバットの群れか! 厄介な!」
セレスティーナが忌々しげに吐き捨て、腰の剣を引き抜いた。彼女の剣の切っ先が、淡い光を帯びる。
「数は……三十……いや、四十は超えている!」
蒼介は瞬時に敵の数を把握し、戦慄した。一体一体の脅威度は、見たところゴブリン程度だろう。だが、問題はその数と、彼らが空を飛んでいるという事実だった。足場の悪いこの場所で、空から無数に襲いかかってくる敵を相手にするのが、どれほど絶望的か。
「セレスティーナティーナ! 下手に動き回るな! 落下するぞ!」
「言われずとも!」
セレスティーナは蒼介の背後を庇うように立ち、向かってくるグレイブバットの群れを迎え撃つ。彼女の剣が一閃するたびに、数匹の魔物が光の粒子となって霧散する。だが、その死体を乗り越えて、後続が次から次へと襲い掛かってくる。
「
セレスティーナが魔法名を唱えると、彼女の剣が眩い光を放ち、薙ぎ払われた光の刃が前方のグレイブバットを一掃した。しかし、それも束の間。すぐに群れは体勢を立て直し、四方八方から二人を取り囲むように旋回を始めた。
キィィィ、と耳障りな鳴き声を上げながら、一匹が蒼介の死角である背後から急降下してくる。
「しまっ……!」
(遅い!)
反応が遅れたセレスティーナティーナだったが、蒼介の身体は思考よりも速く動いていた。スキル【
『ソウスケさん! 無茶はしないでくださいまし!』
リリアの悲鳴にも似た声が響く。だが、蒼介にそれに構っている余裕はなかった。
(キリがねえ……!)
セレスティーナの魔法剣は強力だが、広範囲をカバーできるものではない。一体一体を確実に仕留めていくスタイルは、このような物量戦には圧倒的に不向きだった。蒼介のスキルも、あくまで補助的なもの。このままでは、じりじりと消耗させられ、やがては集中力が切れた一瞬の隙を突かれて、この枝の上から突き落とされるだろう。
「くっ……このままでは埒が明かん!」
セレスティーナの表情にも、焦りの色が浮かび始めていた。彼女の額から流れた汗が、金色の髪を濡らしている。呼吸も少しずつ乱れ始めているのが見て取れた。
(何か、何か手はないのか……!)
蒼介は、絶え間なく襲い来るグレイブバットの攻撃を掻い潜りながら、必死で思考を巡らせた。この状況を打開する、一発逆転の一手。彼のシーカーとしての本能が、活路を探して叫んでいた。
彼は再び【
ナノマシンが彼の脳に、膨大な情報を叩き込んでくる。彼らが今いる枝の強度、周囲に伸びる他の枝の配置、そして、風の流れ。その中で、蒼介の意識はある一点に釘付けになった。
それは、彼らが今いる枝の、さらに数十メートル先。そこから斜め上に向かって伸びる、一際巨大な枝だった。その太さは、蒼介たちが今いる枝の数倍はあろうかという代物。多くのグレイブバットが、その巨大な枝を足場にして、こちらへ攻撃するタイミングを窺っている。まるで、戦場を見下ろす司令塔のように。
だが、【
(……これだ)
蒼介の脳内に、一つの策が閃光のように浮かび上がった。それは、あまりにも大胆で、そしてセレスティーナが聞けば「邪道」と罵倒するであろう、非情な作戦。
しかし、この絶望的な状況を覆すには、これしかない。
「セレスティーナ!」
蒼介は、魔法の光刃を振るって敵を薙ぎ払っている女騎士の名を叫んだ。
「なんだ! 今、取り込んでいる!」
「いいから聞け! この状況をひっくり返す策を思いついた!」
蒼介の切羽詰まった声に、セレスティーナが訝しげな視線を一瞬だけ向ける。その一瞬の隙を突いて、一匹のグレイブバットが彼女の肩に食らいついた。
「ぐっ……!」
銀の鎧が牙を阻むが、その衝撃までは殺しきれない。セレスティーナは体勢を崩しかけながらも、即座にその魔物を剣で切り裂いた。
「策だと? 貴様の邪道な策など、聞いている暇が……」
「あるかないかはお前が決めろ!」
蒼介は、彼女の言葉を遮って叫んだ。
「俺たちが今いるこの場所から、斜め上に見えるあのデカい枝! 見えるか!」
蒼介は顎で、先程見つけた巨大な枝を指し示した。セレスティーナは敵をいなしながら、そちらに視線を向ける。多くのグレイブバットが羽を休めているのが見えた。
「あれがどうしたというのだ!」
「あの枝、見た目は頑丈そうだが、中身はスカスカだ! ちょっとした衝撃で根元から折れる!」
その言葉の意味を、セレスティーナは瞬時に理解した。彼女の碧い瞳が、驚愕に見開かれる。
「まさか、貴様……」
「ああ、そのまさかだ!」
蒼介は、獰猛な笑みを浮かべて言い放った。
「お前が囮になって、できるだけ多くの敵をあの枝の上に誘導しろ!」
そうして蒼介は、端的に作戦の内容を語った。
その作戦は、騎士道を重んじるセレスティーナにとっては、到底受け入れられるものではないだろう。
だが、蒼介の瞳には、迷いはなかった。生き残るためなら、彼はどんな手でも使う。それが、彼が現代ダンジョンで培ってきた、唯一無二の生存戦略だった。
「どうする、セレスティーナ! やるか、やらないか!?」
蒼介の問いが、無数の魔物の鳴き声が響く絶望的な空間に突き刺さる。セレスティーナは、目の前で牙を剥く魔物と、背後で決断を迫る男とを交互に見比べ、その唇をギリ、と噛みしめた。彼女の騎士としての誇りと、冒険者としての生存本能が、その心の中で激しくせめぎ合っていた。