異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第36話 邪道への信頼

「どうする、セレスティーナ! やるか、やらないか!?」

 

 無数のグレイブバットが放つ不協和音の只中で、蒼介の問いがセレスティーナの鼓膜を鋭く打った。それは単なる問いかけではない。この絶望的な状況を生き延びるための、唯一の道を示す最後通牒。彼女の騎士としての誇りを、生存という天秤の片方へ無造作に乗せるような、乱暴な提案だった。

 

 彼女の碧い瞳が、怒りと戸惑いの間で激しく揺れる。目の前では、裂けた口から覗く牙を剥き出しにした魔物が、次の一瞬にはその喉笛に食らいつかんと身構えている。背後からは、常識外れの策を提示した男の、有無を言わさぬ視線が突き刺さる。

 

(邪道だ……! こんな戦い方、エッケハルト家の名が泣く!)

 

 それは、正々堂々を信条とする騎士の戦い方とはかけ離れた、卑劣な騙し討ち。騎士道を叩き込まれてきた彼女の全てが、その作戦を拒絶していた。敵が魔物であろうと、真正面からその脅威を打ち砕いてこそ、騎士の誉れ。それが、彼女が信じ、貫いてきた道だった。

 

 だが、とセレスティーナは唇を噛む。

 

 その信条を貫いた先にあるのは、何か。

 

 眼前に迫る無数の牙。奈落の底から吹き上げる死の匂いを纏った風。そして、じりじりと削られていく自身の魔力と集中力。このままでは、あと数分もすれば自分も、この男も、翼持つ魔物の餌食となり、骨の一片も残さず奈落の闇に消える。それは、火を見るより明らかだった。

 

「ぐっ……!」

 

 思考の隙間を縫って襲い来る一体を、光を纏った剣で薙ぎ払う。しかし、その一体を倒す間に、新たに三体が包囲の輪に加わった。キリがない。突破口のない消耗戦。それは、緩やかな自殺行為に等しかった。

 

(……だが、囮になれと? この私に?)

 

 作戦の骨子は、彼女が囮となり、全ての敵の注意を引きつけること。つまり、彼女は自ら、この魔物の群れの渦の中心に飛び込まねばならない。一歩間違えば、蒼介が罠を仕掛け終える前に、自分が引き裂かれる。

 

「……私が、貴様の策に乗り、囮として動いている間に、貴様がしくじったらどうする」

 

 セレスティーナは、敵の猛攻をいなしながら、絞り出すように言った。それは、疑念の言葉でありながら、彼女の心が「実行」へと傾き始めている証拠でもあった。

 

「しくじるかよ。俺は、生き残るためなら何でもやる」

 

 蒼介は、こともなげに言い放った。その声には、不思議なほどの自信が満ちていた。根拠のない虚勢ではない。幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、生存への絶対的な執着が生み出す確信。

 

「……それに、お前ならやれるだろ?」

 

 挑発するような口ぶりに、セレスティーナの眉がピクリと動く。だが、その言葉の裏に、自分への信頼が透けて見えた気がして、彼女はぐっと言葉を飲み込んだ。

 

 もう、迷っている時間はない。

 

「……わかった。その策、乗ってやろう」

 

 セレスティーナは、覚悟を決めたように短く告げた。その瞳に、先程までの迷いはなく、ただ一点、眼前の敵を見据える冒険者としての強い光が宿っていた。

 

「だが、覚えておけ! これは貴様を信じたわけではない! 生き残るために、貴様の知恵を利用するだけだ!」

 

「へいへい、それで結構」

 

 蒼介は肩をすくめ、口の端を吊り上げた。

 

「じゃあ、派手に頼むぜ、騎士様! あの枝の上にいる連中も、残らずこっちに引きずり出すんだ!」

 

「言われるまでもない!」

 

 セレスティーナは蒼介に背を向け、剣を構え直した。彼女の身体から、これまでとは比較にならないほどの量の魔力が、黄金色のオーラとなって立ち上る。それは、彼女が持つ魔力の全てを、この一瞬に賭ける覚悟の現れだった。

 

「光よ、我が道を照らせ! 聖なる輝きで邪を滅せよ! ホーリー・レイ!」

 

 彼女が魔法名を唱えると、その剣先から眩い光の束が放たれた。それはレーザーのように直進し、群れの一角を貫き、数匹のグレイブバットを光の粒子へと変える。だが、その目的は敵を倒すことではない。

 

 ―――注意を、自分一人に集中させること。

 

 キィィィィィィィィッ!

 

 仲間を焼かれたグレイブバットたちが、一斉にセレスティーナへと敵意を向けた。これまで分散していた攻撃が、ただ一点、黄金の光を放つ女騎士へと収束していく。それは、嵐の中心に自ら飛び込むような、無謀極まりない行為だった。

 

「行けえええええ!!」

 

 セレスティーナの絶叫が響く。それを合図に、蒼介は身を翻していた。スキル【迅速(ブースト)】を、ごく短時間だけ発動させる。彼の視界で、一瞬だけ世界の時間が緩やかになった。そのコンマ数秒の間に、彼は枝の裏側へと飛び移り、幹を蹴って加速する。

 

 彼の目標は、セレスティーナが引きつけている群れの、さらに向こう側。多くのグレイブバットが予備兵力として羽を休めていた、あの巨大な枝の付け根。

 

 セレスティーナが作り出した陽動は完璧だった。魔物たちの意識は、完全に彼女へと向いている。枝の裏側を疾走する蒼介の存在に、気づくものは一匹もいない。

 

(頼んだぜ、セレスティーナ……!)

 

 背後で炸裂する光と、魔物の耳障りな鳴き声を聞きながら、蒼介は歯を食いしばった。彼女が稼いでくれる時間は、永遠ではない。一秒でも早く、罠を完成させなければ。

 

 目的の枝の付け根に到達した蒼介は、背負っていたバックパックから、一つの革袋を取り出した。中に入っているのは、粘性の高い、半透明の液体。テルスの街の道具屋で、念のためにと購入しておいた強力な粘液だ。かつての現代ダンジョンでは、こうした地味なアイテムが、時にスキル以上の効果を発揮することを、彼は経験則で知っていた。

 

 彼はその粘液を、枝の表面、魔物たちが着地するであろう場所に、手早く塗りたくっていく。無色透明で、匂いもほとんどない。上空からでは、まず気づかれることはないだろう。

 

『ソウスケさん! セレスティーナさんの魔力が……! かなり消耗していますわ!』

 

 リリアの焦った声が、脳内に響く。蒼介は視線を上げ、セレスティーナの戦況を窺った。彼女は無数の魔物に囲まれながらも、その剣技でなんとか持ちこたえている。だが、その動きは明らかに鈍り始めていた。鎧の隙間からは、幾筋もの血が流れているのが見える。

 

(クソッ、まだだ……! まだ足りねえ!)

 

 蒼介はトリモチを塗り終えると、今度はナイフを取り出し、枝の付け根の、最も脆い部分――【探知(サーチ)】で見つけた、内部が空洞になっている箇所――に、深く切り込みを入れていく。ただ破壊するのではない。最小限の力で、最大の破壊効果を生むための、精密な工作。

 

 ギチギチ、と硬い樹皮が悲鳴を上げる。彼の額から、汗が滝のように流れ落ちた。

 

 一方、その頃。セレスティーナは、もはや満身創痍と言ってよかった。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 肩で息をし、荒い呼吸を繰り返す。鎧は鉤爪によって無数の傷が刻まれ、いくつかのパーツはひしゃげていた。黄金色に輝いていた魔力も、今は風前の灯火のようにか細く揺らめいている。

 

 だが、彼女の瞳の光だけは、少しも衰えていなかった。

 

(まだだ……まだ、堕ちるわけにはいかない……!)

 

 エッケハルト家の名誉のため。そして、背後で自分の命を預けている、あの男のために。

 

 彼女は最後の力を振り絞り、天へと剣を突き上げた。

 

「聖光よ、我が盾となれ! セイクリッド・フィールド!」

 

 彼女を中心に、光のドームが形成される。殺到したグレイブバットたちが、その光の壁に弾き飛ばされた。だが、それはあくまで防御魔法。長くはもたない。光の壁が、ミシミシと音を立てて軋み始める。

 

 その時だった。

 

「セレスティーナ! 今だ! そいつら全員、こっちに連れてこい!」

 

 待ちわびた声が、後方から響いた。セレスティーナは、蒼介が無事に罠を仕掛け終えたことを悟る。

 

「……言われずとも!」

 

 彼女はニィ、と血に濡れた唇で獰猛に笑った。そして、形成していた光のドームを、自ら解除する。

 

 一瞬の静寂。

 

 そして、堰を切ったように殺到する魔物の群れ。セレスティーナはそれに背を向け、蒼介が待つ巨大な枝へと、全力で駆け出した。それは、敵に背を見せるという、騎士にあるまじき行為。だが、今の彼女に、躊躇いはなかった。

 

 彼女の背後から、死の群れが追いすがる。

 

 キィィィィィィッ!

 

 グレイブバットたちは、獲物が逃げ出したと判断し、狂乱したようにその後を追った。蒼介の先にある巨大な枝の上に、次から次へと魔物たちが着地していく。

 先刻と同じように、あの太い枝を拠点にして波状攻撃を仕掛けてくるつもりなのだろう。

 そのとき、先頭の一匹が、その足が枝に張り付いて動かないことに気づいたようだ。だが――もう遅い。後続の仲間たちが、その上に折り重なるように殺到し、身動きが取れなくなった。

 

 その混乱を尻目に、セレスティーナは枝の付け根を飛び越え、蒼介の隣に滑り込んだ。

 

「……遅いぞ、三流冒険者!」

「うるせえ! 特等席で見せてやるよ、俺の邪道をな!」

 

 蒼介はセレスティーナの軽口に不敵な笑みで返すと、ナイフで切り込みを入れた枝の脆弱部に、全体重をかけて蹴りを叩き込んだ。

 

「名付けて、『コバエホイホイ作戦』、此処に完遂せり!」

 

 ミシリ、と巨大な枝が根元から軋む。

 

 その音は、やがて、メキメキメキッ! という断末魔のような破壊音へと変わった。

 

 そして、

 

 ゴッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!

 

 凄まじい轟音と共に、数多の魔物を乗せた巨大な枝が、奈落の底へと崩れ落ちていった。

 

 キィィィィィィィィィィィ―――ッ!!!

 

 断末魔の叫びが、何重にも重なり合いながら、闇の中へと吸い込まれていく。粘液に足を取られ、仲間と折り重なった魔物たちは、逃げることもできず、ただ運命を共にするしかなかった。

 

「あとは、こいつらだけだ……!」

 

 そして、枝に止まらずに直接攻撃を仕掛けてきていた何体かを、危なげなく排除するセレスティーナと蒼介。

 

 やがて、耳障りな叫び声も聞こえなくなり、階層には、先程までの喧騒が嘘のような、深い静寂が戻ってきた。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 蒼介もセレスティーナも、その場にへたり込み、荒い息を繰り返す。全身が鉛のように重い。アドレナリンが切れ、一気に疲労が襲いかかってきた。

 

「……コバエ……ホイホイ……?」

 

 しばらくして、呆然と枝が消えた空間を見つめていたセレスティーナが、絞り出すように呟いた。

 

「ああ。いい名前だろ?」

 

 蒼介は、悪びれもせずに答える。

 

「……貴様の、命名の才は、壊滅的だな」

 

 セレスティーナは、心底呆れたというように溜め息をついた。だが、その声に、いつものような棘はない。彼女はゆっくりと立ち上がると、蒼介の方を向いた。その顔には、疲労の色は濃いが、どこか吹っ切れたような清々しい表情が浮かんでいた。

 

「……カミヤ・ソウスケ」

 

「貴様の戦い方は、やはり邪道だ。騎士として、決して認めることはできない」

 

「だろうな」

 

「だが……」と、セレスティーナは言葉を続ける。

 

「その邪道に、命を救われたのも、また事実だ。……礼を言う。助かった」

 

 彼女はそう言うと、不器用な仕草で、蒼介に片手を差し出した。蒼介は知る由もないが、それは、騎士が仲間や好敵手と認めた相手にだけ見せる、敬意の作法だった。

 

 蒼介は一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤリと笑った。そして、その手を力強く握り返す。

 

「どういたしまして。ま、これに懲りたら、少しは頭を使うことだな、脳筋騎士様」

 

「誰が脳筋だ、誰が!」

 

 セレスティーナの怒声が、静寂を取り戻した【逆さ大樹】の階層に響き渡った。だが、その声は、どこか楽しげにも聞こえた。

 

 騎士道と生存戦略。決して交わることのないと思われた二つの道が、今、確かに交差した。それは、まだぎこちなく、脆いかもしれない。しかし、この大迷宮の奈落の底で、二人の間には、初めて「信頼」という名の、心許ないが確かな足場が架かったのだった。

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