異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
【逆さ大樹】の階層から「始まりの街テルス」へと続く転移門をくぐり抜けた時、蒼介とセレスティーナを包んだのは、奈落の底の冷気とは打って変わった人々の喧騒と、生活の匂いが混じり合った生暖かい空気だった。陽はとうに落ち、街の至る所に灯された魔石灯が、石畳の道を橙色に染め上げている。
「……帰ってきた、な」
誰に言うでもなく蒼介が呟くと、隣を歩くセレスティーナが、ほう、と安堵の息を漏らした。その横顔は疲労の色が濃く、普段の彼女を特徴づける厳格な雰囲気は、今は鳴りを潜めている。
二人の姿は、率直に言って満身創痍だった。
蒼介の革鎧は泥と謎の体液にまみれ、あちこちが擦り切れ、もはや防具としての体をなしていない。セレスティーナの美しい銀の鎧も、無数の鉤爪の痕が刻まれ、肩当ての一部はひしゃげて痛々しい姿を晒している。何より、二人とも全身がひどい獣臭さと粘液の不快感に包まれていた。すれ違う商人や住民たちが、ぎょっとしたように振り返り、鼻をつまんで足早に遠ざかっていく。
(こりゃ、宿に戻る前にまず風呂か……いや、それより飯だ。腹が減って死にそうだ)
極度の緊張と消耗の末、蒼介の思考は、生存に不可欠な本能的な欲求に支配されていた。隣の女騎士も同じだったらしい。ぐぅ、と可愛らしくもはっきりとした音が、静かになった二人の間で響き渡った。
「~~~~~~っ!?」
セレスティーナの頬が、魔石灯の光を受けてもなおわかるほどに、かっと赤く染まる。彼女は蒼介を睨みつけたが、その視線にはいつものような鋭さはない。
「腹が減っては戦はできぬ、だろ? ギルドへの報告は後回しだ。お疲れ様会ってことで、飯にしようぜ」
蒼介がそう言って歩き出すと、セレスティーナは何も言わずに、しかし少しだけ間合いを取って、その後に続いた。
二人が選んだのは、冒険者たちが集う酒場を兼ねた食堂だった。扉を開けると、むわりとした熱気と共に、酒と肉の焼ける香ばしい匂い、そして屈強な男女の陽気な声が彼らを迎える。こんなボロボロの姿でも、この場所ならば奇異の目で見られることはない。
店の隅の、比較的空いているテーブルにつくと、どさりと荷物を下ろし、椅子に深く身を沈める。全身の筋肉が、解放されたように悲鳴を上げた。
「とりあえず、エールと……何か腹に溜まるものを適当に頼む。異論は?」
「ない。……任せる」
ぶっきらぼうな返事。だが、その声には反発の色ではなく、純粋な疲労が滲んでいた。蒼介は近くを通りかかった給仕の女性を呼び止め、エールを二つと、店の名物らしい猪のハーブ焼き、それからパンとスープのセットを注文した。
すぐに運ばれてきたエールを、二人は無言で呷る。喉を焼くような冷たい炭酸が、乾ききった身体に染み渡っていく。
「……ぷはっ。生き返るな」
ジョッキの半分を一気に空にして、蒼介は満足げに息をついた。セレスティーナも、普段の淑女然とした姿からは想像もつかない勢いでエールを飲んでいる。その喉の動きは、彼女もまた、この一杯を渇望していたことを雄弁に物語っていた。
やがて、湯気の立つ料理がテーブルに並べられる。分厚く切られた猪の肉は、表面がカリカリに焼かれ、ナイフを入れると肉汁がじゅわ、と溢れ出した。空腹は最高のスパイスとはよく言ったもので、二人はしばらくの間、会話も忘れて無心で料理を口に運び続けた。
硬い黒パンをスープに浸し、肉を喰らい、エールで流し込む。単純な行為の繰り返しが、凍てついていた生命力を少しずつ解きほぐしていくようだった。
先に食事を終えたのは蒼介だった。彼はジョッキに残ったエールをちびちびと飲みながら、向かいで食事を続けるセレスティーナの姿を、何とはなしに眺めていた。
戦闘中の彼女は、近寄りがたいほどの威圧感を放つ、一人の完成された騎士だ。だが、今はどうだろう。夢中で食事をするその姿は、鎧を脱げば、街を歩く同年代の娘と何ら変わりないように見えた。金色の短い髪は汗で額に張り付き、頬には返り血の跡が乾いて残っている。決して上品な姿ではない。しかし、その無防備な様子は、蒼介に不思議な安堵感を与えた。
「……何だ。人の顔をじろじろと見て。無作法であろう」
食事を終えたセレスティーナが、蒼介の視線に気づいて、咎めるように言った。しかし、その口調もどこか気の抜けたものだ。
「いや。あんたも腹が減るんだな、と思ってな」
「馬鹿にするな。当然だろう」
「違いない。だが、あんたみたいなのが、俺と同じように飯を食って、同じように疲れを感じてるってのが、なんだか不思議でな」
それは、蒼介の本心だった。騎士の名家、エッケハルトの令嬢。天才的な魔法剣士。彼女を取り巻く肩書きは、彼女を「特別な人間」として蒼介に認識させていた。だが、あの死闘を経て、今こうして同じテーブルで食事を共にしていると、その隔たりが少しだけ、薄れたように感じられたのだ。
「……別に、特別なことではない」
セレスティーナは、少し俯きながら、ぽつりと言った。
「エッケハルト家に生まれたからといって、痛くないわけでも、疲れを知らぬわけでもない。ただ……人前で弱みを見せぬよう、そう育てられてきただけだ」
その声には、微かな寂寥感が滲んでいた。名家の令嬢としての窮屈さ。常に「騎士」として振る舞うことを期待される重圧。彼女が背負っているものは、蒼介の想像以上に重いのかもしれない。
(……なるほどな。あのやたらと棘のある態度は、その裏返しってわけか)
強気な態度は、不安を隠すための仮面。自分を鼓舞し、周囲からの期待という名の鎧を固めるための、彼女なりの処世術。そう考えると、これまで腹立たしく思っていた彼女の言動の数々が、すとんと腑に落ちた。こいつはこいつで、必死に戦っているのだ。魔物とだけではなく、自身を取り巻く環境とも。
「……今回の鎧の修理費、また父上に小言を言われるな……」
セレスティーナは、ひしゃげた肩当てを指でなぞりながら、深いため息をついた。その姿は、まさしく年相応の少女のそれだった。
「家に金があるなら、それくらいどうってことないだろ」
「金銭の問題ではない。騎士たるもの、己の武具は己の身体の一部。それを易々と傷つけられるのは、未熟の証だと、そう言われるのだ」
「……あんたの親父、面倒くさいな」
「なっ……! 父上を侮辱するな!」
セレスティーナが色をなして反論するが、その剣幕にも力がない。蒼介は、彼女がただの堅物ではないことを知り、少しだけ見る目を変えた。
「……だが」
セレスティーナは、ふと真面目な顔つきに戻ると、蒼介を真っ直ぐに見つめた。
「今日の戦い、お前がいなければ、私は今頃あの奈落の底だった。それは、認めよう」
「まあ、俺がいなくても、あんたなら何とかしたかもしれんがな」
「いいや、無理だった。あの物量と、足場の悪さ。……私の力だけでは、いずれ押し切られていただろう」
セレスティーナは、きっぱりと首を横に振った。
「それにしても、驚いたぞ。銅級の冒険者が、
真正面からの、気負いのない賞賛。それは、蒼介の胸を妙にざわつかせた。気恥ずかしさと、そして、後ろめたさが同時にこみ上げてくる。
(……単独、か)
違う。俺は、一人じゃなかった。
第十層の主を倒せたのも、今日の戦いを生き延びられたのも、彼女――リリアの助言があったからだ。それを隠したまま、目の前の女騎士からの称賛を、さも当然のように受け取るのは、どうにも座りが悪い。
これまで、リリアの存在は他言してこなかった。喋る呪いのペンダントなど、面倒の種にしかならないと思っていたからだ。だが、セレスティーナは違う。彼女は、共に死線を乗り越えた、今の蒼介にとって唯一の「仲間」だ。その仲間に、隠し事をし続けるのは、果たして正しいことなのだろうか。
『ソウスケさん? どうかしましたの?』
蒼介の葛藤を察したのか、腰のペンダントから、リリアの声が思考に直接響く。
(……なあ、リリア。こいつに、お前のことを話そうと思う)
『……本気ですの? このツンケンした女騎士に?』
リリアの声には、明らかな警戒が滲んでいる。
(ああ。こいつは、信用できる。それに、この先もこいつと組んでいくなら、お前の知識は必要不可欠だ。いつまでも隠し通せるもんじゃない)
『……ソウスケさんがそうおっしゃるなら、私は構いませんけれど。面倒なことになっても、知りませんわよ?』
呆れたような、それでいて蒼介の判断を尊重するような響き。蒼介は、小さく息を吸い、覚悟を決めた。
「……セレスティーナ」
「なんだ」
「その、単独で『主』を倒したって話なんだが……。実は、あれは正確じゃない」
「……どういう意味だ?」
セレスティーナが、訝しげに眉をひそめる。蒼介は、ごくりと唾を飲み込み、意を決して腰に下げていたペンダントをテーブルの上に置いた。
「俺には、相棒がいる。……ずっと、一緒だった」
「相棒……? 貴様、誰かと組んでいたのか? だが、ギルドの登録は……」
セレスティーナの言葉が、途中で途切れる。彼女の視線が、テーブルの上のペンダントに注がれていた。美しい装飾が施された、明らかに女性ものの装飾品。
「……カミヤ・ソウスケ。貴様、私をからかっているのか? それが、貴様の相棒だとでも言うつもりか?」
彼女の声に、怒りの色が混じり始める。無理もない。命がけの戦いの後の真剣な会話で、突然ペンダントを「相棒」だと紹介されれば、誰だって愚弄されたと思うだろう。
「いや、からかってなんかない。大真面目だ」
蒼介は、ペンダントに向かって、小さく頷いた。
「……リリア。自己紹介、頼めるか?」
一瞬の沈黙。
セレスティーナが、いよいよ本気で怒り出すか、あるいは呆れて席を立つか、その寸前。
『……仕方のない方ですわね』
凛とした、それでいてどこか尊大な響きを持つ、少女の声。
それは、紛れもなく、テーブルの上に置かれたペンダントから発せられていた。
「なっ……」
セレスティーナの碧い瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれる。彼女は、ペンダントと蒼介の顔を、交互に何度も見比べた。
『初めまして、ですわね。エッケハルト家の騎士よ。わたくしはリリアーナ・エル・アルストロメリア。この男の、さしずめ後見役といったところかしら』
ペンダントは、淡い光を放ちながら、流暢に言葉を紡いでいく。
セレスティーナの口が、ぱくぱくと、声にならない動きを繰り返す。彼女の思考が、目の前で起きている超常現象に、全く追いついていないのが見て取れた。無理もない。喋る魔道具など、物語の中にしか存在しない代物だ。
そして。
数秒間の硬直の後。
「しゃ、しゃ、しゃべったあああああああああああああああああああ!?」
食堂中に響き渡る、けたたましい絶叫。
ガタンッ! と大きな音を立てて、セレスティーナは椅子ごと後ろにひっくり返った。その目は大きく見開かれたまま、一点、テーブルの上のペンダントに釘付けになっている。
突然の叫び声に、食堂中の冒険者たちの視線が、一斉に蒼介たちのテーブルへと突き刺さった。
何事かとざわめく店内。ひっくり返って腰を打ったのか、うめき声を上げる女騎士。そして、そんな大混乱の中心で、気まずそうに頭を掻く蒼介。
『……だから、言わんこっちゃありませんわ』
ペンダントから響くリリアの呆れたような声だけが、やけに冷静に、その場の空気を支配していた。