異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
絶望という言葉を形にするならば、それは巨大な樹木の姿をしているのかもしれない。
蒼介の視界を覆い尽くすのは、うねり狂う根と、鞭のようにしなる蔦の嵐だった。
呼吸をするたびに、湿った土と濃厚な樹液の臭いが肺腑を焼く。
【
第20層の主は、その巨体に見合わぬ狡猾さと、理不尽なまでの生命力を見せつけていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
セレスの荒い息遣いが、轟音の合間にかろうじて聞こえる。
彼女の銀鎧は、すでに原形を留めていないほどにひしゃげ、所々から鮮血が滲んでいた。
それでも彼女は剣を振るう。
雷光を纏った刃が、迫りくる極太の根を両断する。
だが、そこまでだ。
切断面からは即座に新たな芽が吹き出し、瞬く間に元の太さへと再生していく。
まるで、切ること自体が徒労だと嘲笑うかのように。
「くっ……! 再生速度が、上がっているのか……!?」
セレスが悔しげに唇を噛む。
彼女の魔力は確実に消耗していた。
剣に纏わせる雷光が、戦闘開始時に比べて明らかに弱々しくなっている。
対して、エンシェント・トレントの活力は衰えることを知らない。
この空間そのものが、奴の腹の中のようなものだ。
壁面の苔、地面の胞子、漂う湿気。
すべてが奴に魔力を供給し、傷を癒やすための糧となっている。
(持久戦は自殺行為だ。わかってる。わかってるが……)
蒼介は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めながら、自身の身体を弾丸のように加速させた。
スキル【
神経伝達速度を極限まで高め、世界を遅延させる感覚。
迫りくる蔦の刺突を、紙一重で躱す。
風切り音が耳元を掠め、数本の髪が切り飛ばされる。
「こっちだ、木材爺!」
彼はあえて声を上げ、ナイフを投擲した。
狙うは幹の中央、あの不気味な顔面だ。
だが、ナイフが届くよりも早く、周囲の空間が歪んだように見えた。
否、枝だ。
無数の枝が瞬時に網目のように絡まり合い、強固な盾となってナイフを弾き返したのだ。
カキンッ、と虚しい音が響く。
「鉄壁かよ……!」
攻撃が届かない。
あの幹に触れることさえ、今の二人には至難の業だった。
セレスが接近戦を挑めば、全方位からの根の刺突と種子の散弾が彼女を襲う。
蒼介が撹乱しようにも、奴は周囲の植物すべてを感覚器官としているようで、死角が存在しない。
逃げ場のない閉鎖空間で、じわじわと真綿で首を絞められるような圧迫感。
「主」という存在の格の違いを、嫌というほど思い知らされる。
「ソウスケ! 次は左だ!」
セレスの叫び声に、蒼介は反射的に身を捻った。
直後、彼が踏みしめていた地面が爆ぜる。
地下から突き上げられた槍状の根が、空を切った。
もし反応がコンマ一秒遅れていれば、串刺しになっていただろう。
「……悪い!」
礼を言う余裕すらない。
着地と同時に、蒼介は再び走り出す。
止まれば死ぬ。
だが、動き続けても、待ち受けているのはガス欠による死だ。
ナノマシンのエネルギー残量を告げる警告音が、脳内でけたたましく鳴り響いている。
焦燥感が思考を濁らせそうになるのを、必死に理性で押し留める。
(考えろ。何かあるはずだ。どんな完璧な要塞にも、必ず通気口があるように。どんな生物にも、必ず急所があるように)
蒼介は走りながら、スキル【
視覚情報に頼るな。
音の反響、空気の振動。五感を超えた知覚で、この怪物の構造を丸裸にするんだ。
だが、返ってくる情報は絶望的なものばかりだった。
奴の全身を巡る魔力回路は、あまりにも複雑で強固だ。
どこを切断しても、即座に迂回ルートが形成され、再生が始まる。
核となる魔石があるはずだが、分厚い樹皮に阻まれ、位置を特定できない。
「きゃあぁッ!」
不意に、短い悲鳴が響いた。
セレスだ。
見れば、彼女の足首に蔦が絡みついている。
回避行動の着地の隙を狙われたのだ。
「しまっ……!」
彼女が剣を振るうよりも早く、蔦が強引に引き絞られる。
セレスの身体が宙を舞い、そのまま壁面へと叩きつけられそうになる。
その軌道上には、鋭利な棘を生やした太い枝が待ち構えていた。
空中の彼女に回避手段はない。
「セレス!」
蒼介は迷わず、懐から発煙筒のような魔道具を取り出した。
以前、ギルドの売店で「視界潰しに使えるかも」と買っておいた、閃光玉の出来損ないだ。
彼はそれをセレスと枝の間に向かって全力で投擲する。
パンッ!
破裂音と共に、強烈な光と煙が炸裂した。
物理的なダメージはない。
だが、待ち構えていた枝が一瞬、ビクリと反応して軌道が逸れる。
その隙に、セレスは身体を捻り、壁を蹴って体勢を立て直した。
だが、着地の衝撃までは殺しきれず、彼女はその場に片膝をつく。
「ぐっ……はぁ……!」
彼女の肩が激しく上下している。
限界が近い。矜持だけで立っている状態だ。
蒼介は滑り込むように彼女の隣へ移動し、ナイフを構えて周囲を警戒する。
「無事か、セレス」
「……情けない姿を晒したな」
「生きてりゃいい。それより、魔力は?」
「……残弾なし、と言いたいところだが。あと一撃……いや、絞り出して二撃が限度だ」
彼女の声には、諦めの色はなかった。
だが、隠しきれない疲労の色が濃い。
雷魔法という強力な矛を持っているとはいえ、それを当てる機会がなければ意味がない。
このままでは、ジリ貧どころか、次の波状攻撃で確実に全滅する。
エンシェント・トレントが、不愉快そうに枝を揺らした。
小賢しい抵抗をする羽虫たちに、苛立ちを募らせているようだ。
空間全体の魔力が、さらに重く、濃密になっていく。
決定的な一撃を放つための、溜めの動作に入ったのだ。
(くそっ……万策尽きたか?)
蒼介の額を、冷たい汗が伝う。
現代ダンジョンで何度も死線を潜り抜けてきた。
だが、今回は相性が悪すぎる。
知恵と工夫で格上を食らうのが彼のスタイルだが、圧倒的な質量と再生能力の前では、小手先のトリックなど通じない。
その時だった。
蒼介の腰に提げられたペンダントから、凛とした声が響いたのは。
『……ソウスケさん、セレスさん。聞こえますか?』
リリアだ。
戦闘中、彼女はずっと沈黙を守っていた。
それは恐怖からではない。
彼女もまた、戦っていたのだ。
肉体を持たない魂だけの存在として、魔力の奔流の中で必死に何かを探っていたのだ。
「リリアか! 大丈夫か!」
『私は平気ですわ。それより……見つけましたの。違和感の正体を』
彼女の声には、確信めいた響きがあった。
「違和感?」
『ええ。あの怪物の再生能力……いえ、防御の仕組みですわ。先ほどセレスさんの剣が弾かれた時、そしてソウスケさんのナイフが防がれた時……私は魔力の流れをずっと追っていましたの』
彼女は続ける。
『あの大樹の中には、強大な魔力の塊……おそらく「核」が存在します。ですが、その位置が固定されていないのです』
「……なんだって?」
蒼介は眉を顰める。
核が固定されていない?
通常、魔物の核、魔石は心臓部や頭部など、特定の急所に存在する。
だからこそ、そこを守ろうとするし、そこを狙えば倒せる。
『あやつは、攻撃がくると予測した瞬間に、核を体内移動させているのですわ! 樹液の管を通るように、高速で!』
その言葉に、蒼介の中に電流が走ったような衝撃が走った。
すべての辻褄が合う。
なぜ、セレスの渾身の一撃が通じなかったのか。
なぜ、どこを攻撃しても手応えがないのか。
攻撃が当たる瞬間に、弱点が別の場所へ逃げているのだ。
分厚い樹皮や再生能力は、あくまで時間稼ぎの囮に過ぎない。
「移動する心臓……か。なんてふざけた構造してやがる」
蒼介は吐き捨てるように言うが、その瞳には新たな光が宿っていた。
見えなかった敵の正体が、リリアのおかげで輪郭を持った。
理屈がわかれば、対策の立てようはある。
『ですが、移動速度は尋常ではありません。私の感知でも、残像を追うのが精一杯……。完全に捕捉して、攻撃を当てるタイミングを計るなんて……』
リリアの声が曇る。
原理はわかった。だが、それを攻略できるかは別問題だ。
巨大な樹木の体内を、高速で移動する小さな核。
それを外から正確に射抜くなど、目隠しをして空中のハエを箸で掴むようなものだ。
セレスが苦しげに口を開く。
「……つまり、どこを狙っても運任せということか? それでは、私の残りの魔力を賭けるには分が悪すぎる」
「いや」
蒼介は短く否定した。
彼はエンシェント・トレントを見据えたまま、脳内で高速のシミュレーションを開始する。
リリアの感知能力。
セレスの一撃必殺の破壊力。
そして、俺のスキル。
(運任せにするつもりはねえ。確率を100%に引き上げるための手はある)
ただし、それはあまりにも危険な賭けだった。
失敗すれば、全員が死ぬ。
だが、このまま座して死を待つよりは、遥かにマシだ。
「セレス、リリア。俺に策がある」
「……聞こう」
『ソウスケさん?』
蒼介は二人に視線を向けることなく、自身の胸元を強く叩いた。
ナノマシンへの覚悟を決める合図だ。
「俺があいつの懐に入る。ゼロ距離まで近づいて、直接触れて、【
『なっ!? 正気ですの!?』
リリアが悲鳴のような声を上げる。
エンシェント・トレントの懐。
それは、根と枝と蔦が渦巻く、死の領域だ。
そこへ自ら飛び込むなど、自殺志願者としか思えない。
「外からじゃ、お前の言う通り捕捉しきれねえ。皮一枚隔てた向こう側を正確に知るには、俺自身がセンサーになるしかねえんだよ」
蒼介は冷静に告げる。
「俺が核の位置を完全にロックオンする。その瞬間、俺が合図を出す。セレス、お前はその一点に、ありったけの魔力を込めた突きを放て」
「……お前ごと、貫けと言うのか?」
セレスの声が震えた。
彼女にはわかったのだ。
蒼介が核を特定したとしても、彼がそこに張り付いていれば、セレスの攻撃は蒼介を巻き込む可能性が高い。
いや、タイミングが少しでもズレれば、確実に彼を串刺しにする。
「お前の腕を信じてるんだよ、騎士様。俺の身体スレスレを通して、後ろの核だけを穿つ。できるだろ?」
蒼介は挑発するようにニヤリと笑った。
それは虚勢であり、そして本心からの信頼でもあった。
これまで見てきた彼女の剣技。
その精密さと鋭さを知っている。
「……貴様という男は」
セレスは数秒間、沈黙した。
葛藤があったはずだ。
だが、彼女は騎士だ。
仲間の覚悟を、感傷で踏みにじるような真似はしない。
「……わかった。私の全てを懸けて、その信頼に応えよう」
彼女は剣を構え直す。
その瞳から迷いが消え、代わりに研ぎ澄まされた殺気が宿る。
『ソウスケさん……』
「リリア、お前にはナビゲートを頼む。あいつの攻撃の予備動作、全部教えてくれ。俺が近づくまでの数秒間、絶対に被弾しないようにな」
『……はい! 命に代えても、貴方を導きますわ!』
三人の意志が一つになった。
エンシェント・トレントが、溜め込んでいた魔力を解放しようと、無数の枝を大きく広げる。
来る。
最大級の攻撃が。
「行くぞッ!」
蒼介の叫びと共に、最後の賭けが始まった。
見えぬ活路を切り開くため、彼は死地へと向かって疾走する。