異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
死地への疾走。
それは、針の穴を通すような精密さと、暴風の中を綱渡りするような危うさが同居する、狂気の数秒間だった。
蒼介の視界は、スキル【
迫りくる蔦の一本一本が、大蛇のような太さと質量を持って網膜に焼き付く。
本来なら認識した時には身体を貫いているはずの死の棘が、今は泥水の中を泳ぐようにゆっくりと迫ってくる。
だが、その数は尋常ではない。
『右斜め上、枝が三本! その直後、足元から根が来ます!』
リリアの声が、脳内に直接響く。
それは聴覚ではなく、魂が直接震えるような感覚だった。
彼女のナビゲートに、疑念を挟む余地はない。
蒼介は思考するよりも速く、反射神経をナノマシンに委ねて身体を弾けさせた。
ガガガガッ!
彼が直前まで空間を占めていた場所を、鋭利な枝が蹂躙していく。
風圧が頬を切り裂き、飛び散る木片が弾丸のように身体を打つ。
もし一歩でも足がもつれれば、即座に肉塊へと変えられるだろう。
だが、止まらない。
減速すら許されない。
「おおおおおおおおオッ!」
蒼介は咆哮を上げ、さらに加速する。
心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
【
血管を巡るナノマシンがオーバーヒート寸前の熱を発し、血液が沸騰するような錯覚を覚える。
(あと十メートル……!)
目の前に
その幹は、近づけば近づくほど、生物というよりは巨大な壁のように視界を圧迫する。
あの「顔」が、不愉快そうに歪んだ。
羽虫が懐に入り込もうとするのを、本能的に嫌悪しているのだ。
ゴウッ!
大樹の身体が震え、樹皮の隙間から濃密な緑色の魔力が噴き出した。
それは物理的な衝撃波となって、蒼介を吹き飛ばそうとする。
『魔力の奔流です! 真正面からは無理ですわ!』
「わかってる!」
蒼介は地面を蹴り、壁のように迫る衝撃波を横へスライドするように回避する。
だが、それによって進行ルートが逸れた。
その隙を見逃すエンシェント・トレントではない。
無数の枝が、蔦が、根が、全方向から彼を押し潰そうと殺到する。
死の包囲網。逃げ場はない。
『ソウスケさん!』
リリアの悲鳴が上がる。
だが、蒼介の唇はニヤリと吊り上がっていた。
彼は独りではない。
背後には、信頼すべき「相棒」がいる。
「道を空けろォ! セレス!!」
その叫びに応えるように、雷鳴が轟いた。
「我が剣は
凛とした詠唱と共に、戦場の空気がビリビリと震えた。
セレスティーナ・エッケハルト。
彼女は蒼介が囮として注意を引きつけている間、ただ漫然と待っていたわけではない。
蒼介が突入したその瞬間から、彼女は彼の動きに合わせて位置取りを変え、魔力を練り上げ、彼を阻む障害物を排除するチャンスを研ぎ澄ませていたのだ。
ドォォォォォン!
青白い雷光が、蒼介のすぐ真横を走り抜けた。
それは攻撃のための魔法ではない。
蒼介に殺到していた蔦や枝を焼き払い、強引に道をこじ開けるための、援護射撃。
正確無比なコントロール。
もし狙いが少しでもズレていれば、蒼介ごと黒焦げにしていただろう。
だが、彼女は外さない。
蒼介がそう信じた通りに。
「ナイス!」
雷撃によって生じた一瞬の空白地帯。
焦げた植物の臭いが立ち込めるそのトンネルを、蒼介は疾風となって駆け抜けた。
ゼロ距離。
ついに、蒼介の手がエンシェント・トレントのゴツゴツとした樹皮に触れた。
「捕まえたぜ……!」
彼はそのままナイフを幹に突き立て、己の身体を固定する。
直後、エンシェント・トレントが怒り狂ったように身をよじる。
巨体が揺れ、まるで暴れ馬の背にしがみついているようなGがかかる。
上からは枝が、下からは蔦が、自分の身体に取り付いた異物を排除しようと迫ってくる。
だが、ここからが本番だ。
ここまでは、ただのスタートラインに過ぎない。
「リリア、サポート頼む! 俺の脳味噌が焼き切れる前に、あいつの『核』を暴く!」
蒼介は叫ぶと同時に、意識のスイッチを切り替えた。
【
通常、半径50メートルを淡く走査するそのスキルを、今は接触している樹木の内部、一点のみに凝縮して注ぎ込む。
ジジジジジジッ……!
脳内に凄まじいノイズが走った。
視界が明滅し、平衡感覚が消失する。
それは、サイケデリックな色をした泥沼の中に頭から飛び込んだような感覚だった。
エンシェント・トレントの体内を巡る膨大な魔力。
植物特有の、粘着質で重苦しい生命エネルギーの奔流が、蒼介の知覚神経を逆流して侵食してくる。
「ぐっ、うううぅぅぅッ!」
頭が割れるように痛い。
ナノマシンが警告アラートを乱発している。
生身の人間が、第20層の主クラスの魔力回路に直接アクセスするなど、神経をヤスリで削るような行為だ。
だが、蒼介は歯を食いしばり、目を見開いたまま、その濁流の中を視ようとした。
(どこだ……どこにいやがる……!)
見えた。
無数の管。
樹液と共に魔力を運ぶ、血管のような脈動。
まるで巨大な迷路だ。
その中を、一際強い輝きを放つ何かが、猛スピードで移動している。
「は……速ぇ……!」
呻き声が漏れる。
リリアの言っていた通りだ。
その「核」は、まるで生き物のように――いや、それ自体が独立した意思を持っているかのように、体内を縦横無尽に駆け巡っている。
上へ行ったかと思えば、次は根の方へ。
右へ移動したかと思えば、瞬時に背面へ。
不規則で、デタラメな軌道。
外から見るだけでは残像しか捉えられなかった理由がわかった。
中にいても、目で追うのが精一杯だ。
『ソウスケさん、左から蔦が来ます!』
「くっ!」
蒼介はナイフを引き抜き、幹を蹴って位置を変える。
直後、彼が張り付いていた場所を鋭利な蔦が貫いた。
張り付きながらの回避。
エンシェント・トレントは、蒼介を振り落とそうと、自らの幹にすら枝を打ち付けてくる。
体力の消耗は激しいが、離れるわけにはいかない。
離れれば、探知が途切れる。
「セレス! まだだ! まだ撃つなよ!」
蒼介は叫ぶ。
セレスは今、蒼介から少し離れた位置で、エンシェント・トレントの攻撃を一手に引き受けていた。
蒼介が幹に張り付いている以上、敵の遠距離攻撃は必然的にセレスへと向かう。
「……くっ、わかっている! だが、急げ! こっちも長くは持たん!」
セレスの声が苦しげに響く。
見れば、彼女の銀鎧はさらに損傷が増え、足元からは次々と根が槍のように突き出している。
彼女はそれを剣で弾き、魔法で焼き払い、必死に耐えていた。
蒼介が解析を終えるその瞬間まで、彼女は盾となり、同時に最強の矛となるための魔力を温存し続けなければならない。
それは、攻撃するよりも遥かに過酷な役割だった。
(すまねえ、セレス。必ず報いる)
蒼介は脂汗に塗れた顔で、再び幹に掌を押し当てる。
【
ノイズをフィルタリングしろ。
余計な情報は捨てろ。
枝葉の動きも、樹液の流れもどうでもいい。
追うべきは一点。
あの高エネルギー反応だけだ。
視界の中のグリッドが赤く染まる。
光の点は、今は幹の上部、あの不気味な顔の裏側あたりにいる。
だが、蒼介がそこを認識した瞬間、光はすでに下部へと移動を開始していた。
(追いかけっこじゃ勝てねえ。先回りだ。奴が次にどこへ行くか、法則を見つけろ)
ランダムに見える動き。
だが、完全に無作為な動きなど、自然界には存在しない。
水が低いところへ流れるように、電気抵抗の少ない回路を選ぶように、魔力にも必ず流れやすいルートがあるはずだ。
『ソウスケさん……魔力の流れを、もっと大きく捉えてください』
リリアの静かな声が、焦燥に駆られる蒼介の意識を引き戻す。
彼女は今、蒼介のナノマシンと感覚を同調させ、同じ景色を見ている。
いや、生粋の王族であり魔力持ちである彼女には、蒼介には見えない理が見えているのかもしれない。
『あの核は、ただ逃げ回っているだけではありませんわ。魔力を供給するために、特定のポイントを巡回しています』
「巡回……だと?」
『ええ。攻撃のための枝、再生のための根、そして防御のための樹皮。それぞれに魔力を送る中継点があるはずです。核はそこを経由して移動していますの』
その言葉が、混沌とした思考に一本の補助線を引いた。
そうか。
奴は無意味に動いているんじゃない。
俺やセレスの攻撃に合わせて、防御や再生が必要な場所へ、エネルギーを運びながら移動しているんだ。
(なら、誘導できる!)
蒼介はナノマシンの演算能力をフル動員し、エンシェント・トレント体内の魔力分布図を脳内に描画する。
敵の攻撃パターンと、核の移動ルートを重ね合わせる。
セレスが枝を攻撃すれば、核はその枝の再生のために近くへ移動する。
俺が幹を傷つければ、核はその周辺の防御力を上げるために寄ってくる。
(奴の思考を読め。生存本能を逆手に取るんだ)
「セレス! 聞こえるか!」
「なんだ! もう撃っていいのか!」
「いや、逆だ! 派手に暴れろ! 右側の枝を全部へし折る勢いで頼む!」
蒼介の無茶な要求に、セレスは一瞬だけ呆れたような息を吐いた。
だが、次の瞬間には口元に好戦的な笑みを浮かべる。
「注文が多い男だ! だが、それこそが私の役目ということだな!」
セレスが動く。
彼女は残された魔力を惜しみなく使い、剣に雷を纏わせる。
温存していた突きのための一撃ではなく、広範囲を薙ぎ払うための拡散する雷撃。
「散れぇッ! 【サンダー・ストーム】!」
彼女を中心に、放射状の稲妻が迸る。
それはエンシェント・トレントの右半身にある枝を次々と焼き払い、黒焦げにしていく。
凄まじい破壊力。
当然、エンシェント・トレントは、失われた部位を再生しようと魔力を集中させる。
(来たッ!)
蒼介の【
体内を巡る核が、ダメージを受けた右側へと急速に引き寄せられていく。
再生のために。
傷を癒やすために。
だが、蒼介の狙いはそこではない。
再生が終われば、核はまた安全な場所――つまり、最も守りが堅い幹の中心部へと戻ろうとするはずだ。
その帰り道。そこが、唯一の狙い目だ。
「リリア、予測ルートを出せ! 右から中心へ戻る最短経路はどこだ!」
『……解析します! 魔素濃度、導管の太さ、流れの抵抗……ここです! 幹の中央、地上から五メートルの位置にある、古傷のようなコブの裏側!』
視界の中に、青いラインが引かれる。
それは、核がこれから通過するであろう未来の軌跡。
そして、その一点で交差するタイミングは――数秒後。
「……見えたッ!」
蒼介のカッと見開かれた瞳が、確信の光を宿す。
彼は幹に張り付いたまま、身体を捻った。
狙うべき座標は決まった。
あとは、そこにセレスの一撃を誘導するだけだ。
だが、問題が一つある。
その合流地点は、今の蒼介の身体の真裏――つまり、幹の深層部にある。
セレスから見て、その直線上には蒼介自身がいる。
(上等だ。俺の身体を的にしてくれれば、照準は合わせやすいだろ?)
恐怖をねじ伏せ、蒼介は叫んだ。
「セレスッ! 俺の背中だ!」
「なっ……!?」
セレスの動揺が伝わってくる。
当然だ。
「俺の背中を狙え」と言われて、即座に引き金を引ける味方はいない。
ましてや、彼女は騎士だ。
仲間を、守るべき対象を背後から撃つなど、その矜持が許さないだろう。
だが、今の二人には言葉はいらなかった。
ここまでの戦いで積み上げてきたものがある。
互いの背中を預け合い、死線を越えてきた時間の重みがある。
「迷うな! 俺は避ける! お前が放った瞬間にな!」
「馬鹿な、私の雷撃は音よりも速いのだぞ! 見てから避けるなど……!」
「出来る! お前なら俺を信じられるし、俺ならお前を信じられる! そうだろ!?」
根拠のない自信。
だが、その言葉には不思議な説得力があった。
いや、それは説得ではない。
共犯の誘いだ。
常識外れの、命知らずの、狂った作戦への招待状。
一瞬の静寂。
エンシェント・トレントが、身に取り付いた蒼介を排除しようと、巨大な顎のような樹皮を開く。
時間がない。
だが、セレスの声が響いた。
迷いを振り切った、澄み渡るような戦士の声が。
「……いいだろう。その狂気、乗った!」
「ありがとよ!」
蒼介はニヤリと笑うと、再び意識を体内の核へと集中させる。
来る。
セレスの陽動によって右側に寄っていた核が、用を済ませて中心部へと戻ってくる。
まるでジェットコースターだ。
凄まじい速度で接近してくる高エネルギー反応。
(3、2、1……)
リリアのカウントダウンが脳内に響く。
セレスの槍に、眩いばかりの雷光が収束していくのが気配でわかる。
周囲の空気が帯電し、肌が粟立つ。
三人の意識が完全に一つになった。
蒼介の【
リリアの予測。
セレスの破壊力。
それぞれが異なる役割を持ちながら、一つの目的のために完璧に噛み合った瞬間。
それはまるで、美しい三重奏のようだった。
核が、予測地点である「蒼介の背中の真裏」を通過する、そのコンマ一秒前。
蒼介は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「――今だァァァッ!!」
反撃の号砲が鳴る。
絶望的な戦況を覆すための、最初で最後の一撃が放たれようとしていた。