異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第46話 濃霧と幻影の回廊

 白濁した世界に、微かに音が響いた。

 だが、その音がどこから発せられたのか、耳では判別できない。

 視界は乳白色の闇に閉ざされ、平衡感覚すらも曖昧になる空間。

 第21層、【濃霧と幻影の回廊】。

 

 蒼介は口元を覆った布越しに、冷たく湿った空気を吸い込む。

 視神経には、乳白色の霧しか映っていない。

 だが、脳内の視界――ナノマシンが構築した電脳空間には、赤が三つ、点滅していた。

 

「来るぞ。右前方、時計の2時の方向。距離8メートル」

 

 蒼介の低い警告に、セレスが即座に反応する。

 彼女は視界がきかないことへの恐怖を意志の力でねじ伏せ、蒼介の言葉だけを頼りに愛槍を構えた。

 

「その位置か!」

 

 セレスが踏み込む。

 石畳を蹴る音。

 彼女の突きは鋭く、霧を切り裂いて虚空へと吸い込まれていく。

 通常なら、手応えがあるはずの距離。

 だが、槍先は空を切った。

 

「なっ……!?」

「騙されるな、セレス! 視覚情報と実際の距離がズレてる!」

 

 蒼介が叫ぶと同時に、彼自身も地面を蹴った。

 この霧には、光の屈折率を狂わせる魔力が含まれている。

 肉眼で見える影は、実際の位置よりも数メートル手前、あるいは奥に投影された虚像だ。

 だが、【探知(サーチ)】が捉える生体反応に嘘はない。

 

「そこだァッ!」

 

 蒼介はセレスの横をすり抜け、何もないはずの霧の空間へと、新調した魔鉄製のナイフを薙ぎ払った。

 

 ギャッ!

 

 空気が裂けるような不快な悲鳴と共に、どす黒い液体が飛沫を上げる。

 霧の中から転がり出たのは、苔むしたような緑色の肌を持つ、小柄な人型の魔物だった。

 長い手足に、眼球のないのっぺりとした顔。

霧に這うもの(ミスト・クローラー)】。

 音もなく忍び寄り、冒険者の寝首を掻く。

 

「目に見える影を追うな! 気配と、俺の指示だけを信じろ!」

「くっ……了解した!」

 

 セレスが即座に修正する。

 彼女は目を閉じ、聴覚と肌で感じる空気の流れ、そして何より蒼介の声に全神経を集中させた。

 

「左から二体目、来るぞ! 低い位置、足元だ!」

 

 蒼介の指示は、コンマ一秒の遅れもなく届く。

 セレスは目を開けることなく、槍を石突きから地面へ叩きつけた。

 ガィィィン!

 硬質な甲殻が砕ける音。

 足元へ滑り込もうとしていたクローラーの脳天を、正確に粉砕した感触が手に伝わる。

 

「あと一体!」

 

 最後の一体は、仲間の死に怯んだのか、霧の中へとバックステップで逃れようとする。

 だが、蒼介の【探知(サーチ)】からは逃れられない。

 彼は懐から手裏剣のような形状の投擲ナイフを取り出すと、ノールックで放り投げた。

 

 シュッ。ドサッ。

 

 短い風切り音の後、何かが崩れ落ちる音が響く。

 生体反応消失。

 三つの赤い光点が、脳内マップから消え去った。

 

「……ふぅ。片付いた」

 

 蒼介がナイフの血糊を振り払い、鞘に収める。

 セレスがゆっくりと目を開け、周囲を見渡した。

 足元には、確かに二体の魔物の死骸が転がっている。そして少し離れた場所にもう一体。

 だが、数メートル先は再び濃密な霧に覆われ、何も見えない。「勿体ねえ勿体ねえ」と、投擲したナイフを蒼介が拾っている。

 

「厄介極まりないな、ここは……」

 

 セレスが忌々しげに呟く。

 剣技や魔法の腕前以前の問題だ。

 敵が見えない、距離感が狂うというのは、戦士にとって手足を縛られているに等しい。

 もし一人で来ていたら、最初の遭遇戦で重傷を負っていただろう。

 

「視覚へのジャミングがきついな。ナノマシンの補正がなきゃ、俺も酔って吐いてるところだ」

『魔力濃度も高いですわ。呼吸をするたびに、微量の幻惑毒を吸い込んでいるようなものです』

 

 リリアの声にも緊張が混じる。

 物理的な脅威よりも、環境そのものが牙を剥いている。

 それが、この第21層の特徴だった。

 

「行くぞ。立ち止まってると、精神が削られる」

 

 蒼介が先頭に立ち、歩き出す。

 セレスはその背中に遅れないよう、ぴったりと追従した。

 彼女の視界の中で、唯一確かな色彩を持った道標。

 今は、その背中だけが頼りだった。

 

 

 

 回廊は、どこまでも続いていた。

 時折、崩れかけた石柱や、何かのレリーフが刻まれた壁が現れるが、それらもすぐに霧の中へと消えていく。

 変化のない景色。

 終わりのない白。

 それは、人間の時間感覚を狂わせるには十分な舞台装置だった。

 

 カツ、カツ、カツ……。

 

 自分たちの足音だけが、不気味なほど大きく響く。

 いや、本当に自分たちの足音なのだろうか。

 霧の向こうから、別の誰かの足音が重なっているような錯覚に陥る。

 

「……ソウスケ」

「なんだ」

「いや……なんでもない」

 

 セレスが槍を握り直す。

 彼女は先ほどから、視界の端に何かが映り込むのを感じていた。

 ふと横を見ると、人影のようなものが立っている気がする。

 だが、振り返ると誰もいない。

 ただの霧の揺らぎだ。そう自分に言い聞かせるが、背筋を撫でるような悪寒は消えない。

 

「何か見えるのか?」

 

 蒼介が足を止めずに尋ねる。

 振り返らない背中が、全てを見透かしているようで頼もしくもあり、少し恐ろしくもある。

 

「……ああ。時折、人影のようなものが」

「気にするな。この階層特有の幻影だ。実体はない」

『残留思念、と呼ぶべきかもしれませんわね』

 

 リリアが補足する。

 

『過去にこの階層で命を落とした冒険者たちの、無念や恐怖。そういった強い感情が、この魔力濃度の高い霧に記録され、再生されているのです』

「ゆ、幽霊……ということか?」

 

 セレスの声が僅かに上ずる。

 物理攻撃の効かない相手は、騎士にとって最も苦手とする部類だ。

 

「幽霊ってよりは、ビデオテープの再生に近いな」

「びでお……?」

「あー悪い、なんというか、写し絵みてえなもんだ。向こうに意識はない。ただ、そこに『あった』事実が浮かび上がってるだけだ」

 

 蒼介が淡々と説明する。

 彼の【探知(サーチ)】には、それらの幻影は映らない。

 生体反応もなければ、魔力の核もないからだ。

 つまり、物理的な脅威ではない。

 だが、精神的な攻撃としては一級品だ。

 

『……意外ですわね』

 

 リリアがぼそりと呟く。

 

「何がだ?」

『ソウスケさんのことですから、お化けが怖いセレスさんのことを、嬉々として揶揄(からか)うかと思ったのですが』

「なっ……別に、怖くなど!」

「流石にそこまでガキじゃねーよ」

 

 蒼介は溜息を吐いて、にやりと笑う。

 

「それに、幽霊ならもう間に合ってるからな」

『……? な、もう! 私は幽霊ではありませんわ!』

「ふふふっ」

 

 二人のやり取りにセレスが笑みを漏らした、その時。

 前方の霧がゆらりと揺れ、一つの人影が明確に形を成した。

 

「――助け、て」

 

 はっきりとした声が聞こえた。

 セレスがハッとして足を止める。

 そこには、片足を失い、血まみれになった冒険者の男が這いつくばっていた。

 革鎧の意匠は古いが、その苦痛に歪んだ表情は生々しい。

 

「おい、しっかりしろ!」

 

 セレスが反射的に駆け寄ろうとする。

 騎士としての本能だ。傷ついた者を前にして、見捨てるという選択肢はない。

 

「止まれ、セレス!」

 

 蒼介の鋭い制止。

 だが、セレスの手が男に届こうとしたその瞬間、男の姿は霧散した。

 まるで煙のように。

 残されたのは、冷たい石畳と、行き場をなくしたセレスの手だけ。

 

「……え?」

 

 セレスが呆然とする。

 今までそこにいたはずの存在感。血の臭いすら感じたはずのリアリティ。

 それが、嘘のように消え失せた。

 

「言ったろ。幻影だって」

 

 蒼介が追いつき、セレスの肩を掴んで引き戻す。

 

「反応するな。心を動かすな。奴らは、お前の良心や恐怖につけ込んでくる。足を止めたら、本物の魔物が来るぞ」

 

 厳しい口調だった。

 だが、そこには仲間を案じる響きがあった。

 セレスは唇を噛み締め、震える手で槍を握り直す。

 

「……すまない。覚悟が、足りなかったようだ」

「誰だって最初はビビるさ。俺だって、スキルの裏付けがなけりゃ叫んで逃げ出してる」

 

 蒼介はそう言って、再び歩き出す。

 嘘だ。

 セレスは直感する。

 

 この男は、恐怖を感じていないわけではない。

 恐怖を情報として処理し、切り捨てているのだ。

 その冷徹なまでの精神力は、一体どこで培われたものなのか。

 彼女は改めて、目の前の男の底知れなさを垣間見た気がした。

 

 

 *

 

 

 探索を開始して数時間。

 体感時間はもっと長く感じる。

 神経を張り詰め続けた疲労が、ボディブローのように効いてきていた。

 

 蒼介は、脳内のマップを確認する。

 現在地は、入り口からおよそ3キロメートル地点。

 進みは遅い。

 一歩進むごとに【探知(サーチ)】で安全を確認し、トラップがないか、敵が潜んでいないかを精査しているからだ。

 

(脳の糖分が足りねえな……)

 

 ナノマシンによる情報処理の負荷は、想像以上にカロリーを消費する。

 ポケットから携帯食料を取り出し、齧る。

 パサパサとした食感と、人工的な甘みが口に広がる。

 美味くはないが、今はこれが命綱だ。

 

「セレス、小休止だ。あそこの壁際なら、背後は取られない」

 

 蒼介が指差したのは、少し凹んだ窪みのような場所だった。

 三方向を壁に囲まれており、入り口さえ警戒していれば奇襲は受けにくい。

 

「……助かる」

 

 セレスが重い足取りで窪みに入り、壁に背を預けて座り込む。

 霧の湿気で、金の髪が頬に張り付いている。

 彼女は水筒を取り出し、喉を潤した。

 

「ソウスケ、あとどれくらいだ?」

「まだ入り口付近だ。この階層は広い。今日中に突破するのは無理だな」

「そうか……」

 

 セレスがため息をつく。

 この神経が磨り減るような行軍を、あと何日続けなければならないのか。

 野営をするにしても、この霧の中では熟睡など不可能だろう。

 

『……奇妙ですわね』

 

 リリアが不意に呟いた。

 

「何がだ?」

『幻影の数です。最初は散発的でしたが、奥に進むにつれて頻度が増しています。それに……』

 

 リリアが言葉を探すように間を置く。

 

『幻影の種類が変わってきています。最初はただの死に際の再生でしたが、今は……もっと意図的な、こちらの精神を揺さぶるような光景が増えている気がします』

 

 確かに、先ほどから聞こえる声の内容が変わってきていた。

 最初は「痛い」「助けて」といった単純な悲鳴だった。

 だが、今は違う。

 

『……どうして助けてくれなかったの?』

『お前だけが生き残るのか?』

『偽善者め』

 

 そんな、罪悪感を抉るような囁きが、風に乗って聞こえてくるのだ。

 

「……悪趣味なダンジョンだぜ」

 

 蒼介が悪態をつく。

 これは、単なる自然現象としての幻覚ではない。

 この階層そのものが、侵入者の記憶やトラウマを読み取り、それを具現化して攻撃してきている可能性が高い。

 

(俺のトラウマ、か……)

 

 蒼介の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。

 ランク昇格試験。

 崩落する天井。

 手を伸ばした先にあった、仲間の絶望に染まった顔。

 

『神谷! 逃げろ!』

 

 幻聴が聞こえた気がした。

 蒼介は強く頭を振り、その記憶を振り払う。

 

(今は、その時じゃねえ)

 

 彼はナノマシンの精神安定プログラムを呼び出し、強制的に心拍数を落ち着かせる。

 過去の亡霊に足を引っ張られている場合ではない。

 今は、隣にいる仲間を守ることだけを考えろ。

 

「行くぞ、セレス。休みすぎると身体が冷える」

「ああ、わかった」

 

 セレスが立ち上がる。

 その顔色はまだ悪いが、瞳の光は失われていない。

 彼女もまた、何かと戦っているのだろう。

 エッケハルト家の重圧か、あるいは自身の未熟さか。

 

 二人は再び、濃霧の中へと歩き出した。

 白濁した闇の奥で、何かが嗤う気配がした。

 

 

 変化が起きたのは、それから数十分後のことだった。

 蒼介の【探知(サーチ)】が、前方に広がる空間の歪さを捉えた。

 

「……広いな」

 

 これまでの一本道のような回廊から一転、巨大なホールのような空間に出たようだ。

 霧の密度は相変わらずだが、音の反響が変わった。

 

「何かあるのか?」

「わからん。だが、空間が開けた。……気をつけろ、広い場所ってのは、得てしてボス部屋か、罠の設置場所と相場が決まってる」

 

 蒼介が慎重に足を進める。

 その時、霧の中からぼんやりとした光が浮かび上がった。

 

 青白い、人魂のような光。

 それは一つではない。

 十、二十、いやもっと。

 無数の光が、ホールの中央に集まっている。

 

「あれは……なんだ?」

 

 セレスが警戒して足を止める。

 光の集団は、ゆらゆらと揺れながら、人の形を模っていく。

 それは、冒険者のパーティのようだった。

 剣を持つ者、杖を持つ者、大盾を構える者。

 彼らは円陣を組み、何者かと戦っているように見えた。

 

『戦闘の……記憶?』

 

 リリアが呟く。

 だが、敵の姿はない。

 冒険者たちの幻影は、見えない敵に向かって武器を振るい、魔法を放ち、そして次々と倒れていく。

 音のないパントマイムのような惨劇。

 首を飛ばされ、胴を裂かれ、絶叫を上げて崩れ落ちる。

 

「ひどい……」

 

 セレスが思わず口元を覆う。

 その光景があまりにも凄惨で、リアルだったからだ。

 そして、全滅した冒険者たちの幻影が消え去った後、そこに残されたものがあった。

 本物の、装備品の残骸だ。

 錆びついた剣。砕かれた盾。

 そして、夥しい量の乾いた血痕。

 

「……ここは、本物の死地だ」

 

 蒼介が確信する。

 ここで、何かが起きた。

 それも、そう遠くない過去に。

 

 カサリ。

 

 微かな音がした。

 幻影ではない。物質が擦れる音だ。

 蒼介の【探知(サーチ)】が反応する。

 前方、ホールの中心部。

 死体の山の上に、何かがいる。

 

「セレス、構えろ」

 

 蒼介の声は、氷のように冷たかった。

 霧が、風もないのに動いた。

 ホールの中心から、風圧と共に霧が晴れていく。

 そこに立っていたのは、一人の少女――の形をした何かだった。

 

 ボロボロのローブを纏っている。

 長い髪は濡れたように張り付き、顔はうつむいていて見えない。

 だが、その手には不釣り合いなほど巨大な、歪な形状の大鎌が握られていた。

 

「……あ、あぁ……」

 

 少女のようなものが、顔を上げる。

 そこには、顔がなかった。

 目も鼻も口もない、真っ白なのっぺらぼう。

 ただ、黒い穴のような空洞が、口の位置にぽっかりと開いているだけ。

 

「ミツ……ケ……タ……」

 

 耳障りな声。

 それは声帯から発せられたものではなく、空気を直接振動させて鼓膜に叩きつけられるような不快音だった。

 

「来るぞッ!」

 

 蒼介が叫ぶと同時に、少女の姿がかき消えた。

 速い。

 【迅速(ブースト)】を使っている蒼介の動体視力ですら、残像しか捉えられない速度。

 

 キィィィン!

 

 金属音が響き、火花が散る。

 セレスが咄嗟に槍を掲げ、頭上から振り下ろされた大鎌を受け止めていた。

 だが、その衝撃は凄まじい。

 セレスの足元の石畳が、蜘蛛の巣状にひび割れる。

 

「ぐぅッ……! なんだ、この馬鹿力は……!」

「離れろセレス!」

 

 蒼介が横合いからナイフを投げる。

 少女は人間離れした柔軟さで身体を折り曲げ、ナイフを回避すると、天井へと張り付いた。

 まるで蜘蛛のように。

 

「ギギギ……アソボ……アソボウヨ……」

 

 

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