異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
転移門の光の渦を抜けた瞬間、世界は再び色を失った。
視界を埋め尽くすのは、乳白色の絶望。
第21層【濃霧と幻影の回廊】。
ほんの数時間前まで死闘を繰り広げていた場所に、こうして舞い戻ってくるとは、物好きにも程がある。
「……相変わらず、肌にまとわりつく嫌な空気だ」
蒼介は顔をしかめ、湿った空気を肺から追い出すように短く息を吐いた。
テルスの街の喧騒や、温かい食事の余韻は、冷ややかな霧によって瞬時に冷やされていく。
視界は悪い。数メートル先ですら白い
「油断するなよ、ソウスケ。処刑人を倒したとはいえ、この霧自体が魔物を生み出す苗床のようなものだ。雑魚といえど、視界を奪われた状態では脅威になる」
セレスが槍を構え、周囲を警戒する。彼女の碧眼は霧の奥を見透かそうと細められているが、物理的な視界はこの階層では最も当てにならない情報源だ。
「わかってらあ。だからこそ、俺の出番だろ」
蒼介は意識を集中させ、体内のナノマシンにコマンドを送る。
(【
――ピ、ヒュン。
脳内で電子音が鳴り、蒼介の網膜に
肉眼で見えている白い霧の映像に、サーモグラフィーのような色彩が重なる。
だが、ノイズが酷い。
この霧は魔力そのものが気化しているようなもので、探知スキルにとっては砂嵐の中で針を探すような悪条件だ。
「チッ……やっぱりノイズだらけだな。感度を上げるぞ」
蒼介はこめかみを指で軽く叩き、ナノマシンの出力を調整する。
脳が焼けるような負荷がかかるが、今はそんなことを言っていられない。行方不明者の捜索において、時間はすなわち命だ。
ギルドで得た情報によれば、『銀の翼』は五人パーティ。リーダーは剣士、他には魔術師、神官、
彼らの装備品、特に魔術師が使っていた杖の魔力波長や、神官が帯びていた聖印の微弱な波動。それらをキーにして、この広大な霧の海から痕跡を拾い上げる。
「どっちだ……?」
蒼介はその場でゆっくりと回転し、全方位のスキャンを行う。
視界の隅で、赤いアラートが明滅した。
魔物の反応だ。だが、今は無視する。遠いし、こちらに気づいている様子はない。
「……あった」
数分後、蒼介の目が一点を捉えた。
微弱だが、人工的な魔力の揺らぎ。自然発生した魔物のそれとは明らかに違う、秩序だった波長。
「反応ありだ。10時の方向、距離およそ300メートル。……薄いな。三日前の痕跡ならこんなもんか」
「でかした! さすがだな」
「まだ見つけたわけじゃねえ。とりあえず行ってみよう」
蒼介を先頭に、二人は霧の中を進み始める。
足音は霧に吸い込まれ、響かない。
自分たちが歩いているのか、それとも景色の方が流れているのか錯覚しそうになる浮遊感。
時折、霧の奥から「ギギッ……」という何かが擦れるような音や、人の笑い声に似た風切り音が聞こえるが、蒼介は【
『ソウスケさん、少しお話してもよろしいですか?』
腰のペンダントから、リリアの緊張した声が響いた。
周囲の静寂を破るのを躊躇うような、小さな声だ。
「ああ、構わねえよ。何か気になることでもあったか?」
『ええ。ギルドで『行方不明』と聞いた時から、王家の書庫にあった古い記述が頭を離れないのです』
リリアの言葉に、セレスも耳を傾ける。
『周囲の様子から判断するに、この第21層を含む中層エリアは、かつてアルストロメリア王国の領土の地下深くに位置する場所、なのだと思います。当時はまだ迷宮化していませんでしたが、特異な魔力が溜まりやすい場所として、王家の魔術師たちが調査を行っていたのです』
「へえ、いわくつきの土地ってわけか」
『はい。その調査記録の中に、『霧の魔物』に関する伝承がありました。……『音なき捕食者』と呼ばれる存在について』
音なき捕食者。
その響きに、蒼介の背筋に冷たいものが走る。
霧の中で視界を奪われること以上に、音が聞こえない、あるいは音を消す存在というのは、冒険者にとって致命的だ。
『詳細な姿形は描かれていませんでした。ただ、『霧と同化し、獲物の背後に音もなく忍び寄る』『悲鳴すら上げさせずに命を刈り取る』と……。当時の調査団も、数名が忽然と姿を消し、二度と戻らなかったそうです』
「……怖い話だな。怪談としちゃ上出来だ」
『脅かすつもりではありませんの! ただ、この霧の濃さといい、嫌な予感がするのです。先ほどの処刑人のような強さとは違う、もっと……異質な気配を感じますわ』
リリアの霊感めいた直感は、これまでも数々の危機を救ってきた。
彼女が嫌な予感と言うなら、それは十中八九、何かが潜んでいる証拠だ。
「心しておこう。姿が見えず、音もしない敵か……」
セレスが槍を握る手に力を込める。
蒼介は【
やがて、蒼介が足を止めた。
そこは、崩れかけた石柱が並ぶ、かつての回廊跡のような場所だった。
「……ここだ」
蒼介が指差した石柱の根元。
そこに、一本の矢が突き刺さっていた。
矢羽は湿気でボロボロになっていたが、明らかに冒険者が使うクロスボウの矢だ。
「これは……『銀の翼』のものか?」
「ああ、間違いない。矢尻に刻まれてる刻印、ギルドで見せてもらった資料と同じだ」
蒼介は矢には触れず、【
矢尻には、緑色の粘液が付着していた。
(……魔物の体液だな。成分は……酸性)
さらに周囲を探ると、石畳の上に点々と続く焦げ跡が見つかった。
火魔法の痕跡だ。
「戦闘があったようだな」
「だが、死体はない。……彼らはここで襲撃を受け、逃走したということか?」
「その可能性が高い。見てみろ、あの焦げ跡。あっちに向かって続いてる」
蒼介が示した方向は、正規のルートから大きく外れた、霧がより一層濃い深部への道だった。
通常、撤退するなら来た道を戻るはずだ。
あえて深部へ向かったということは、帰り道を塞がれたか、あるいはパニック状態で方向感覚を失ったか。
「追うぞ。まだ痕跡は新しい」
蒼介たちは慎重に、焦げ跡と微かな魔力の残り香を追跡する。
進むにつれて、戦闘の痕跡は激しさを増していった。
砕かれた岩、切り裂かれた地面、そして所々に落ちている装備品の一部。
ポーションの空き瓶が転がっていた。中身は空だ。
「回復薬を使い切るほどの激戦……か」
蒼介が空き瓶を拾い上げる。
ガラスの表面に、べっとりと血が付着していた。
まだ、乾ききっていない。
「ソウスケ、あれを」
セレスの緊張した声。
彼女の視線の先、霧の中にぼんやりと青白い光が浮かんでいた。
近づくと、それは壁に描かれた文字だった。
発光塗料で殴り書きされている。
『 音 に 気 を つ け ろ 』
震える筆致で書かれたその警告は、最後の力を振り絞ったメッセージのようにも、狂気じみた遺書のようにも見えた。
「音に気をつけろ……? 音を立てるな、という意味か? それとも……」
「リリアの話にあった『音なき捕食者』……そいつに関するヒントかもしれねえな」
蒼介はルーン文字を凝視する。
このメッセージを残したのは、おそらく『銀の翼』の魔術師か神官だ。彼らは何かに気づき、後続の者たちへ――あるいは自分たちが生還できなかった時のために――これを書き残した。
「……生存者は、いると思うか?」
セレスが重い口調で問う。
これだけの激戦の痕跡、そして消耗した物資。状況は絶望的だ。
「わからん。だが、死体が見つからない以上、全滅したとは限らねえ。もしかしたら、どこかに隠れて……」
その時。
蒼介の【
生体反応ではない。
魔力の炸裂音だ。
「ッ! 十二時方向! 爆発音!」
肉耳には届かない距離だが、ナノマシンの聴覚センサーが、微かな振動を拾ったのだ。
誰かが、今この瞬間に戦っている。
「おそらく生き残りがいる! 急ぐぞ!」
「ああ!」
隠密行動を捨て、蒼介は【
石畳を蹴り、霧を切り裂いて疾走する。
セレスも重い鎧を鳴らしながらついてくる。
「リリア、周辺の索敵を頼む! 伏兵がいるかもしれん!」
『はいっ! 範囲を広げますわ! ……左舷に反応あり! でも……小さい? 小型の魔物です!』
「無視だ! 突っ切る!」
小型の蝙蝠のような魔物が数匹、霧の中から襲いかかってきたが、蒼介はナイフを一閃させて撃ち落とし、セレスは槍の柄で薙ぎ払う。
足を止める暇はない。
爆発音のした場所へ近づくにつれ、血の匂いが濃くなってくる。
そして、何かが引きずられるような、不快な音が聞こえ始めた。
ズルッ……ズルッ……。
蒼介は足を緩め、ハンドサインでセレスに停止を命じる。
霧の向こう、廃墟の広場のような場所に、人影が見えた。
いや、あれは――。
「……あ、あぁ……」
呻き声。
地面を這いずる男が一人。
片足を失い、全身が血まみれの重戦士だ。
『銀の翼』のメンバーだろう。彼は必死に、何かから逃れようと腕だけで這い進んでいる。
「助けないと!」
セレスが飛び出そうとするのを、蒼介が強く腕を掴んで制止した。
「待て! 何かおかしい!」
蒼介のARマップには、重戦士の周囲に
だが、彼の背後には、明らかに不自然な空間の歪みがあった。
霧が、そこだけ避けているような。
何もない空間が、重戦士を見下ろしているような。
「……いや……こないで……くれ……」
重戦士が虚空に向かって哀願する。
次の瞬間。
ヒュンッ。
風切り音すらなく。
重戦士の首が、不自然な角度に跳ね飛んだ。
「――ッ!?」
セレスが息を呑む。
首を失った胴体が、どうと地面に倒れる。
血飛沫が霧を赤く染めた。
だが、その血飛沫の中に、一瞬だけ浮かび上がったシルエットがあった。
巨大な鎌のような前脚と、昆虫のような複眼。
それが、血に濡れた一瞬だけ可視化され、すぐにまた透明な空気に溶けて消えた。
「……見えたか?」
「あ、ああ……。一瞬だが、何かがいた。あれが……『音なき捕食者』か」
蒼介は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
【
ステルス性能が高すぎる。
それに、あの重戦士は、つい先ほどまで生きていた。爆発音は彼が最後の抵抗として魔道具か何かを使った音だったのだろう。
「遅かったか……」
セレスが悔しげに拳を握りしめる。
だが、感傷に浸っている時間はない。
敵はまだ、そこにいる。
獲物を仕留めた余韻に浸っているのか、それとも新たな獲物――蒼介たちの存在に気づき、舌なめずりをしているのか。
『ソウスケさん……気配が、消えました。完全に』
「ああ。厄介だな」
蒼介はナイフを構え直し、背中合わせになるようセレスに指示する。
遺された道標を辿り、ようやく追いついた先で見たのは、絶望的な結末と、未知の脅威だった。
だが、ここで引くわけにはいかない。
まだ、他のメンバーの死体は確認していないのだから。
「行くぞ、セレス。奴の縄張りに入っちまったようだ」
「望むところだ。騎士として、この非道な殺戮者を見逃すわけにはいかん」
霧が、意思を持った生き物のようにうねり始めた。
静寂が、何よりも雄弁に死を語りかけていた。