異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
あまりにも呆気ない、そして理不尽な死だった。
つい先刻まで助けを求めていた男は、もはや肉塊と化している。
「くっ……!」
セレスが短く呻き、槍を構え直す。その碧眼には憤怒の炎が宿っているが、同時に焦燥の色も濃い。
敵の姿がないからだ。
血飛沫の中に一瞬だけ浮かび上がった、巨大な鎌と複眼を持つ異形のシルエット。だが、それは瞬きの間に周囲の霧と同化し、完全に消失していた。
「迂闊に動くな、セレス」
蒼介は低く鋭い声で制した。
背中合わせになった二人の周囲を、濃密な霧がゆっくりと流れていく。
視界は最悪だ。数メートル先すら白い壁に遮られ、何が潜んでいるかわからない。
だが、それ以上に厄介なのは音だった。
霧の階層特有の、湿気を帯びた静寂。
魔物の足音も、衣擦れの音も、呼吸音すら聞こえない。
(【
蒼介は自身の脳内チップにコマンドを送る。
視界に展開されたARウィンドウには、無数のノイズが走っていた。
この階層の霧は魔力を含んでおり、センサーにとって最悪のジャミングとして機能している。
だが、それでも蒼介は諦めない。
ノイズの海の中から、微かな違和感を拾い上げる。
『ソウスケさん……気配が、完全に断たれていますわ。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように』
腰のペンダントから、リリアの震える声が脳裏に響く。
霊感に優れた彼女ですら感知できないステルス能力。
それはつまり、相手が単なる保護色で隠れているのではなく、魔術的あるいは生物学的な特殊能力で、存在感そのものを希薄にしていることを意味していた。
「ああ、わかってる。厄介な相手だ」
蒼介はナイフを逆手に持ち直し、神経を研ぎ澄ます。
汗が頬を伝う。
重戦士を殺したあの一撃。風切り音すらしなかった。
音速を超えた攻撃か、あるいは音を消す能力か。どちらにせよ、反応が遅れれば即死する。
(落ち着け。相手は生物だ。質量があり、体温があり、殺意がある)
蒼介は呼吸を整え、ナノマシンの演算処理を加速させる。
五感で捉えきれない情報を、科学の力で補完する。
気温の変化。空気の流れ。霧の揺らぎ。
それら全てのデータを統合し、不可視の敵の輪郭をあぶり出す。
――ヒュン。
微かな、本当に微かな風の乱れ。
左後方。
「セレス、伏せろッ!」
蒼介の叫びと同時に、セレスが反射的に身を低くする。
直後、彼女の頭があった空間を、鋭利な何かが横薙ぎに切り裂いた。
キィン! と金属音が鳴り響く。
セレスの肩当ての一部が弾け飛び、火花が散った。
「ぐぅッ!?」
セレスがたたらを踏む。
直撃は避けたが、衝撃だけで鎧ごと肉を削がれたのだ。
見えない凶刃。
だが、攻撃の瞬間に生じた空気の圧縮が、霧を散らし、再び敵の輪郭を露わにした。
巨大なカマキリのような姿。
だが、その体表はガラスのように透き通り、背景の霧を映し込んでいる。
複眼が、無機質に二人を見下ろしていた。
「そこかあああッ!」
セレスが咆哮と共に、反撃の槍を突き出す。
稲妻のような鋭い突き。
だが、穂先が敵の胴体を貫く寸前、その姿は再び蜃気楼のように揺らぎ、霧の中へと溶けて消えた。
槍は空を切り、虚しく霧を攪拌するだけだった。
「消えた……!? 馬鹿な、確かに捉えたはずだ!」
「光学迷彩か、あるいはカメレオンのような擬態能力か……。それにしても性能が高すぎるぞ」
蒼介は舌打ちし、再び全周囲警戒に移る。
今の攻防でわかったことがある。
敵は、こちらの攻撃が届く間合いに入ってから、攻撃の瞬間だけ姿を現す。
そして、攻撃が終われば即座にステルス状態に戻り、離脱する。
ヒット・アンド・アウェイの極致だ。
「姿を消したり現れたり、あの「処刑人」も似たような特性を持っていたが……あやつは数段上だと言わざるを得ない」
「厄介極まりないな。これじゃあ、カウンターを合わせるのも至難の業だ」
『ソウスケさん、あの魔物……』
リリアの声には、焦りだけでなく、ある種の戦慄が含まれていた。
『あの一瞬見えた姿……王家の書庫にあった禁書の挿絵と一致します。あれは「サイレント・ストーカー」と記されています。音もなく忍び寄り、恐怖すら与えずに命を刈り取る、霧の処刑人……』
「名前負けしてねえ強さだな。リリア、弱点は?」
『……わかりません。文献には、遭遇した者の記録がほとんど残っていないのです。つまり……』
「遭遇したら、生きて帰れないってことか」
蒼介は皮肉っぽく笑い、額の汗を拭った。
絶望的な状況だが、不思議と恐怖で足がすくむことはない。
現代のダンジョンでも、理不尽な死とは常に隣り合わせだった。
それに、今は背中を預けられる仲間がいる。
「セレス、怪我は?」
「かすり傷だ。鎧が少し削れただけだ。……だが、次は首を持っていかれるかもしれん」
セレスの声は硬いが、闘志は衰えていない。
彼女もまた、死線を潜り抜けてきた戦士だ。
「奴の狙いは、おそらく一撃必殺だ。奇襲で確実に一人ずつ仕留めるつもりだろう。さっきの重戦士みたいにな」
「ならば、どうする? このまま防戦一方で消耗を待つか?」
「いいや。こちらから仕掛ける……と言いたいところだが、闇雲に動くのは奴の思う壺だ。まずは奴を暴く」
蒼介は腰のポーチから、手製の閃光弾を取り出した。現代の素材と異世界の魔石を組み合わせて作った、視覚と聴覚を同時に潰す非殺傷兵器だ。
「セレス、目を閉じろ! カウント、3、2、1……!」
蒼介が地面に叩きつけると同時に、強烈な閃光と轟音が霧の中で炸裂した。
普通の生物ならば、これで数秒は動きが止まる。聴覚や視覚に頼る捕食者ならなおさらだ。
蒼介は【
「――いたッ!」
一瞬だけ、霧の揺らぎが不自然に固まった場所があった。
右後方、5メートル上。
奴は壁に張り付いていたのだ。
「そこだ、セレス!」
「おおおおおッ!」
セレスが蒼介の指示に反応し、目を開くと同時に跳躍する。
雷を纏った槍の一撃。
タイミングは完璧だった。閃光に驚いた魔物が体勢を崩した隙を突いた、必殺のタイミング。
ガキンッ!!
鈍い金属音が響き、セレスの手首に衝撃が走る。
槍の穂先は、魔物の身体を貫いてはいなかった。
奴の、巨大な鎌の片方によって受け止められていたのだ。
「なっ……!?」
セレスが驚愕に目を見開く。
霧の中に浮かび上がったサイレント・ストーカーの複眼は、閃光の残滓の中でもギラギラと冷徹な光を放っていた。
怯んでいない。いや、反応速度が異常なのだ。
爆音と光を浴びた瞬間に防御態勢を取り、反撃の予備動作すら完了している。
ギチチッ……!
虫が歯ぎしりをするような不快な音が響く。
次の瞬間、もう一本の鎌が、空中にいる無防備なセレスの脇腹を狙って振り抜かれた。
「しまっ――」
「セレス!」
蒼介は咄嗟にワイヤーを射出する。
アンカーがセレスの鎧の背面に吸着し、蒼介は全力でそれを引き戻す。
ギリギリのタイミングでセレスの身体が後方へ引っ張られる。
その鼻先を、死の風が掠めていった。
「くっ……すまん!」
「謝ってる暇はねえぞ! 来る!」
着地したセレスと蒼介の間に、透明な質量が割り込んでくる。
姿は見えない。だが、殺気だけが肌を刺す。
シュン、シュン、シュン!
風切り音のない連撃。
蒼介はナイフで、セレスは槍の柄で、見えない攻撃を必死に弾く。
だが、全ては見切れない。
蒼介の頬が切れ、セレスの鎧が削られる。
浅い傷だが、出血は避けられない。そして血の匂いは、捕食者をさらに興奮させる。
「速い……! それに、重い!」
「こいつ、弄んでやがるのか……!?」
蒼介は歯噛みする。
敵の攻撃は、急所を狙っているようでいて、どこかこちらの反応を楽しんでいるような底意地の悪さを感じる。
恐怖を煽り、疲弊させ、絶望の淵に追い込んでから喰らう。
そんな悪趣味な嗜好を感じさせる動きだ。
『ソウスケさん、気をつけて! 霧が……濃くなります!』
リリアの警告通り、周囲の乳白色の霧が、生き物のようにうねり、密度を増していく。
ただでさえ悪い視界が、今や自分の足元すら見えないほどになった。
そして、その濃霧に紛れて、敵の気配が完全に消失する。
「消えた……」
「いや、いる。絶対に近くにいる」
セレスが槍を構えたまま、じりじりと後退し、蒼介と背中を密着させる。
互いの体温と鼓動が伝わってくる。それが唯一の安心材料だ。
(【
蒼介は焦りを覚える。
ナノマシンの性能をもってしても、この状況下では敵を捉えきれない。
霧そのものが魔力を持っており、それがセンサーを撹乱するチャフのように機能しているのだ。
加えて、敵の隠密能力。
完全に詰みに近い状況だった。
このままではジリ貧だ。
精神的な摩耗が激しい。
いつどこから斬られるかわからない恐怖。
音のない世界での、死の舞踏。
――カラン。
不意に、右手の奥で小石が転がるような音がした。
「右だ!」
セレスが反応し、槍を突き出す。
だが、手応えはない。
「……誘導か!」
蒼介が気づいた時には遅かった。
それは囮の音だ。
本命は、意識が右に向いた瞬間に生まれた、左側の死角。
ドスッ!
「がぁっ!?」
蒼介の左太ももに、鋭い痛みが走る。
見えない何かが突き刺さり、即座に引き抜かれた。
熱い液体が噴き出し、ズボンを濡らす。
深い。動脈は避けたが、筋肉をやられた。
「ソウスケ!」
「来るな! 陣形を崩すな!」
蒼介は激痛を堪えて叫び、【
ナノマシンが傷口を塞ぎにかかるが、失った血液と体力は戻らない。
足が重い。
これで機動力が削がれた。
「ヒヒッ……」
霧の奥から、嘲笑うような、擦れた呼吸音が聞こえた気がした。
獲物が傷つき、弱っていく様を楽しんでいる。
「……趣味の悪い野郎だ」
蒼介は脂汗を流しながら、ナイフを構え直す。
勝てる気がしない。
少なくとも、今のまま正面からやり合っては、確実に殺される。
これが、階層を進むということか。
今までの攻略が、児戯に思えるほどの絶望感。
「セレス……聞こえるか」
「ああ」
「今のままじゃ全滅だ。一度、体勢を立て直す場所が必要だ」
「逃げるか?」
「一時撤退だ。この開けた場所は奴の独壇場すぎる。背後を取られない、狭い場所へ移動する」
蒼介は【
先ほど通りがかった回廊跡。崩れた石柱が折り重なり、狭い空洞を作っている場所があったはずだ。
あそこなら、少なくとも背後と側面は守れる。正面からの攻撃に絞れば、勝機はあるかもしれない。
「3時の方向、約50メートル。崩れた柱の瓦礫がある。そこへ走るぞ」
「お前の足で、走れるのか?」
「這ってでも行くさ。……俺が合図したら、お前の最大火力で牽制を頼む。奴を少しでも怯ませて、その隙に移動だ」
セレスは一瞬だけ蒼介の負傷した足に視線を落としたが、すぐに前を向き、力強く頷いた。
「わかった。……死ぬなよ、ソウスケ」
「お前こそな」
霧が再び揺らぐ。
死神が、次の鎌を振り上げている気配がした。
「今だッ! やれ、セレス!」
「雷よ、哭け! 『サンダー・バースト』!!」
セレスが槍を地面に突き立てると、周囲一帯に無差別な雷撃が放たれた。
狙いをつける必要はない。自分たちの周囲全てを攻撃範囲とする飽和攻撃だ。
バリバリバリッ!
紫電が霧を焼き、空間を震わせる。
ギィイイッ!
至近距離にいたであろう魔物が、嫌がるような声を上げて後退した気配がした。
チャンスは、今しかない。
「走れッ!!」
蒼介は【
セレスがその背中を守るように続く。
霧の中、見えない恐怖に背を向けての逃走。
背筋が凍るような殺意が、執拗に追いかけてくるのを感じながら、二人は瓦礫の山へと死に物狂いで飛び込んだ。