異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第50話 静寂が語る絶望

 あまりにも呆気ない、そして理不尽な死だった。

 つい先刻まで助けを求めていた男は、もはや肉塊と化している。

 

「くっ……!」

 

 セレスが短く呻き、槍を構え直す。その碧眼には憤怒の炎が宿っているが、同時に焦燥の色も濃い。

 敵の姿がないからだ。

 血飛沫の中に一瞬だけ浮かび上がった、巨大な鎌と複眼を持つ異形のシルエット。だが、それは瞬きの間に周囲の霧と同化し、完全に消失していた。

 

「迂闊に動くな、セレス」

 

 蒼介は低く鋭い声で制した。

 背中合わせになった二人の周囲を、濃密な霧がゆっくりと流れていく。

 視界は最悪だ。数メートル先すら白い壁に遮られ、何が潜んでいるかわからない。

 だが、それ以上に厄介なのは音だった。

 霧の階層特有の、湿気を帯びた静寂。

 魔物の足音も、衣擦れの音も、呼吸音すら聞こえない。

 

(【探知(サーチ)】、全力稼働。モード・パッシブソナー。環境音の差異を解析しろ)

 

 蒼介は自身の脳内チップにコマンドを送る。

 視界に展開されたARウィンドウには、無数のノイズが走っていた。

 この階層の霧は魔力を含んでおり、センサーにとって最悪のジャミングとして機能している。

 だが、それでも蒼介は諦めない。

 ノイズの海の中から、微かな違和感を拾い上げる。

 

『ソウスケさん……気配が、完全に断たれていますわ。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように』

 

 腰のペンダントから、リリアの震える声が脳裏に響く。

 霊感に優れた彼女ですら感知できないステルス能力。

 それはつまり、相手が単なる保護色で隠れているのではなく、魔術的あるいは生物学的な特殊能力で、存在感そのものを希薄にしていることを意味していた。

 

「ああ、わかってる。厄介な相手だ」

 

 蒼介はナイフを逆手に持ち直し、神経を研ぎ澄ます。

 汗が頬を伝う。

 重戦士を殺したあの一撃。風切り音すらしなかった。

 音速を超えた攻撃か、あるいは音を消す能力か。どちらにせよ、反応が遅れれば即死する。

 

(落ち着け。相手は生物だ。質量があり、体温があり、殺意がある)

 

 蒼介は呼吸を整え、ナノマシンの演算処理を加速させる。

 五感で捉えきれない情報を、科学の力で補完する。

 気温の変化。空気の流れ。霧の揺らぎ。

 それら全てのデータを統合し、不可視の敵の輪郭をあぶり出す。

 

 ――ヒュン。

 

 微かな、本当に微かな風の乱れ。

 左後方。

 

「セレス、伏せろッ!」

 

 蒼介の叫びと同時に、セレスが反射的に身を低くする。

 直後、彼女の頭があった空間を、鋭利な何かが横薙ぎに切り裂いた。

 キィン! と金属音が鳴り響く。

 セレスの肩当ての一部が弾け飛び、火花が散った。

 

「ぐぅッ!?」

 

 セレスがたたらを踏む。

 直撃は避けたが、衝撃だけで鎧ごと肉を削がれたのだ。

 見えない凶刃。

 だが、攻撃の瞬間に生じた空気の圧縮が、霧を散らし、再び敵の輪郭を露わにした。

 

 巨大なカマキリのような姿。

 だが、その体表はガラスのように透き通り、背景の霧を映し込んでいる。

 複眼が、無機質に二人を見下ろしていた。

 

「そこかあああッ!」

 

 セレスが咆哮と共に、反撃の槍を突き出す。

 稲妻のような鋭い突き。

 だが、穂先が敵の胴体を貫く寸前、その姿は再び蜃気楼のように揺らぎ、霧の中へと溶けて消えた。

 槍は空を切り、虚しく霧を攪拌するだけだった。

 

「消えた……!? 馬鹿な、確かに捉えたはずだ!」

「光学迷彩か、あるいはカメレオンのような擬態能力か……。それにしても性能が高すぎるぞ」

 

 蒼介は舌打ちし、再び全周囲警戒に移る。

 今の攻防でわかったことがある。

 敵は、こちらの攻撃が届く間合いに入ってから、攻撃の瞬間だけ姿を現す。

 そして、攻撃が終われば即座にステルス状態に戻り、離脱する。

 ヒット・アンド・アウェイの極致だ。

 

「姿を消したり現れたり、あの「処刑人」も似たような特性を持っていたが……あやつは数段上だと言わざるを得ない」

「厄介極まりないな。これじゃあ、カウンターを合わせるのも至難の業だ」

『ソウスケさん、あの魔物……』

 

 リリアの声には、焦りだけでなく、ある種の戦慄が含まれていた。

 

『あの一瞬見えた姿……王家の書庫にあった禁書の挿絵と一致します。あれは「サイレント・ストーカー」と記されています。音もなく忍び寄り、恐怖すら与えずに命を刈り取る、霧の処刑人……』

「名前負けしてねえ強さだな。リリア、弱点は?」

『……わかりません。文献には、遭遇した者の記録がほとんど残っていないのです。つまり……』

「遭遇したら、生きて帰れないってことか」

 

 蒼介は皮肉っぽく笑い、額の汗を拭った。

 絶望的な状況だが、不思議と恐怖で足がすくむことはない。

 現代のダンジョンでも、理不尽な死とは常に隣り合わせだった。

 それに、今は背中を預けられる仲間がいる。

 

「セレス、怪我は?」

「かすり傷だ。鎧が少し削れただけだ。……だが、次は首を持っていかれるかもしれん」

 

 セレスの声は硬いが、闘志は衰えていない。

 彼女もまた、死線を潜り抜けてきた戦士だ。

 

「奴の狙いは、おそらく一撃必殺だ。奇襲で確実に一人ずつ仕留めるつもりだろう。さっきの重戦士みたいにな」

「ならば、どうする? このまま防戦一方で消耗を待つか?」

「いいや。こちらから仕掛ける……と言いたいところだが、闇雲に動くのは奴の思う壺だ。まずは奴を暴く」

 

 蒼介は腰のポーチから、手製の閃光弾を取り出した。現代の素材と異世界の魔石を組み合わせて作った、視覚と聴覚を同時に潰す非殺傷兵器だ。

 

「セレス、目を閉じろ! カウント、3、2、1……!」

 

 蒼介が地面に叩きつけると同時に、強烈な閃光と轟音が霧の中で炸裂した。

 普通の生物ならば、これで数秒は動きが止まる。聴覚や視覚に頼る捕食者ならなおさらだ。

 蒼介は【迅速(ブースト)】を発動し、白く染まった視界の中で【探知(サーチ)】を走らせる。

 

「――いたッ!」

 

 一瞬だけ、霧の揺らぎが不自然に固まった場所があった。

 右後方、5メートル上。

 奴は壁に張り付いていたのだ。

 

「そこだ、セレス!」

「おおおおおッ!」

 

 セレスが蒼介の指示に反応し、目を開くと同時に跳躍する。

 雷を纏った槍の一撃。

 タイミングは完璧だった。閃光に驚いた魔物が体勢を崩した隙を突いた、必殺のタイミング。

 

 ガキンッ!!

 

 鈍い金属音が響き、セレスの手首に衝撃が走る。

 槍の穂先は、魔物の身体を貫いてはいなかった。

 奴の、巨大な鎌の片方によって受け止められていたのだ。

 

「なっ……!?」

 

 セレスが驚愕に目を見開く。

 霧の中に浮かび上がったサイレント・ストーカーの複眼は、閃光の残滓の中でもギラギラと冷徹な光を放っていた。

 怯んでいない。いや、反応速度が異常なのだ。

 爆音と光を浴びた瞬間に防御態勢を取り、反撃の予備動作すら完了している。

 

 ギチチッ……!

 

 虫が歯ぎしりをするような不快な音が響く。

 次の瞬間、もう一本の鎌が、空中にいる無防備なセレスの脇腹を狙って振り抜かれた。

 

「しまっ――」

「セレス!」

 

 蒼介は咄嗟にワイヤーを射出する。

 アンカーがセレスの鎧の背面に吸着し、蒼介は全力でそれを引き戻す。

 ギリギリのタイミングでセレスの身体が後方へ引っ張られる。

 その鼻先を、死の風が掠めていった。

 

「くっ……すまん!」

「謝ってる暇はねえぞ! 来る!」

 

 着地したセレスと蒼介の間に、透明な質量が割り込んでくる。

 姿は見えない。だが、殺気だけが肌を刺す。

 シュン、シュン、シュン!

 風切り音のない連撃。

 蒼介はナイフで、セレスは槍の柄で、見えない攻撃を必死に弾く。

 だが、全ては見切れない。

 蒼介の頬が切れ、セレスの鎧が削られる。

 浅い傷だが、出血は避けられない。そして血の匂いは、捕食者をさらに興奮させる。

 

「速い……! それに、重い!」

「こいつ、弄んでやがるのか……!?」

 

 蒼介は歯噛みする。

 敵の攻撃は、急所を狙っているようでいて、どこかこちらの反応を楽しんでいるような底意地の悪さを感じる。

 恐怖を煽り、疲弊させ、絶望の淵に追い込んでから喰らう。

 そんな悪趣味な嗜好を感じさせる動きだ。

 

『ソウスケさん、気をつけて! 霧が……濃くなります!』

 

 リリアの警告通り、周囲の乳白色の霧が、生き物のようにうねり、密度を増していく。

 ただでさえ悪い視界が、今や自分の足元すら見えないほどになった。

 そして、その濃霧に紛れて、敵の気配が完全に消失する。

 

「消えた……」

「いや、いる。絶対に近くにいる」

 

 セレスが槍を構えたまま、じりじりと後退し、蒼介と背中を密着させる。

 互いの体温と鼓動が伝わってくる。それが唯一の安心材料だ。

 

(【探知(サーチ)】……反応なし。サーモグラフィー……温度変化なし。音響センサー……ノイズのみ)

 

 蒼介は焦りを覚える。

 ナノマシンの性能をもってしても、この状況下では敵を捉えきれない。

 霧そのものが魔力を持っており、それがセンサーを撹乱するチャフのように機能しているのだ。

 加えて、敵の隠密能力。

 完全に詰みに近い状況だった。

 

 このままではジリ貧だ。

 精神的な摩耗が激しい。

 いつどこから斬られるかわからない恐怖。

 音のない世界での、死の舞踏。

 

 ――カラン。

 

 不意に、右手の奥で小石が転がるような音がした。

 

「右だ!」

 

 セレスが反応し、槍を突き出す。

 だが、手応えはない。

 

「……誘導か!」

 

 蒼介が気づいた時には遅かった。

 それは囮の音だ。

 本命は、意識が右に向いた瞬間に生まれた、左側の死角。

 

 ドスッ!

 

「がぁっ!?」

 

 蒼介の左太ももに、鋭い痛みが走る。

 見えない何かが突き刺さり、即座に引き抜かれた。

 熱い液体が噴き出し、ズボンを濡らす。

 深い。動脈は避けたが、筋肉をやられた。

 

「ソウスケ!」

「来るな! 陣形を崩すな!」

 

 蒼介は激痛を堪えて叫び、【自己修復(リペア)】を患部に集中させる。

 ナノマシンが傷口を塞ぎにかかるが、失った血液と体力は戻らない。

 足が重い。

 これで機動力が削がれた。

 

「ヒヒッ……」

 

 霧の奥から、嘲笑うような、擦れた呼吸音が聞こえた気がした。

 獲物が傷つき、弱っていく様を楽しんでいる。

 

「……趣味の悪い野郎だ」

 

 蒼介は脂汗を流しながら、ナイフを構え直す。

 勝てる気がしない。

 少なくとも、今のまま正面からやり合っては、確実に殺される。

 

 これが、階層を進むということか。

 今までの攻略が、児戯に思えるほどの絶望感。

 

「セレス……聞こえるか」

「ああ」

「今のままじゃ全滅だ。一度、体勢を立て直す場所が必要だ」

「逃げるか?」

「一時撤退だ。この開けた場所は奴の独壇場すぎる。背後を取られない、狭い場所へ移動する」

 

 蒼介は【探知(サーチ)】で地形データを再確認する。

 先ほど通りがかった回廊跡。崩れた石柱が折り重なり、狭い空洞を作っている場所があったはずだ。

 あそこなら、少なくとも背後と側面は守れる。正面からの攻撃に絞れば、勝機はあるかもしれない。

 

「3時の方向、約50メートル。崩れた柱の瓦礫がある。そこへ走るぞ」

「お前の足で、走れるのか?」

「這ってでも行くさ。……俺が合図したら、お前の最大火力で牽制を頼む。奴を少しでも怯ませて、その隙に移動だ」

 

 セレスは一瞬だけ蒼介の負傷した足に視線を落としたが、すぐに前を向き、力強く頷いた。

 

「わかった。……死ぬなよ、ソウスケ」

「お前こそな」

 

 霧が再び揺らぐ。

 死神が、次の鎌を振り上げている気配がした。

 

「今だッ! やれ、セレス!」

「雷よ、哭け! 『サンダー・バースト』!!」

 

 セレスが槍を地面に突き立てると、周囲一帯に無差別な雷撃が放たれた。

 狙いをつける必要はない。自分たちの周囲全てを攻撃範囲とする飽和攻撃だ。

 バリバリバリッ!

 紫電が霧を焼き、空間を震わせる。

 

 ギィイイッ!

 

 至近距離にいたであろう魔物が、嫌がるような声を上げて後退した気配がした。

 チャンスは、今しかない。

 

「走れッ!!」

 

 蒼介は【迅速(ブースト)】を痛覚遮断のために使用し、壊れた足を無理やり動かして駆け出した。

 セレスがその背中を守るように続く。

 霧の中、見えない恐怖に背を向けての逃走。

 背筋が凍るような殺意が、執拗に追いかけてくるのを感じながら、二人は瓦礫の山へと死に物狂いで飛び込んだ。

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