異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
石柱の空洞から飛び出した蒼介とセレスを待っていたのは、視界を奪う濃霧。その奥に潜む、姿なき死神。
蒼介は【
だが、この「サイレント・ストーカー」という魔物は、その名の通りあまりにも静かすぎた。
「……来るぞ、右だ!」
蒼介が叫ぶと同時に、右側の霧が不自然に揺らぐ。
セレスが反射的に槍を突き出す。雷光を纏った鋭い一撃が霧を貫く。
しかし、手応えはない。
「くっ……!」
直後、セレスの頭上から、風を切る音もなく巨大な鎌が時間差で振り下ろされる。
蒼介が体当たりするようにセレスを突き飛ばした。
二人がいた場所のアスファルトのような硬い地面が、音もなく十字に切り裂かれる。
「速ぇ……! それに、気配が霧と同化してやがる!」
蒼介は舌打ちをして体勢を立て直す。
通常、どんな魔物であれ、動けば空気を揺らし、殺気を放つ。
だが、こいつは違う。
まるで霧そのものが意思を持って襲いかかってくるようだ。
【
それでは遅すぎるのだ。
「そこかッ!」
セレスが勘を頼りに薙ぎ払う。
空を切る音だけが虚しく響く。
焦りが、二人の呼吸を乱していく。
(まずいな……。長期戦になれば、こっちが先に消耗する)
蒼介は額の汗を拭った。
足の傷は塞がったとはいえ、失った血液は戻らない。
貧血特有のめまいが、視界をチカチカと明滅させる。
セレスも同様だ。
見えない敵に対する極度の緊張と、空振りを続ける徒労感が、彼女の精神を削り取っている。
「ソウスケ、次はどっちだ!? 指示をくれ!」
「わからねえ! 反応が消えたり現れたりしてやがる!」
「貴様のスキルでも捉えきれんのか!?」
「俺だって万能じゃねえんだよ!」
怒鳴り合いながら、二人は背中合わせに立つ。
連携が、噛み合わない。
本来なら、蒼介が敵の位置を正確に特定し、セレスが打撃を与えるのが彼らの必勝パターンだ。
だが、その前提となる索敵が機能しない今、二人は暗闇で手探りをするような無力感に苛まれていた。
ギチギチ……。
嘲笑うような顎の音が、霧のあちこちから反響して聞こえる。
どこにいる?
前か、後ろか、あるいは頭上か。
「ええい、出て来い卑怯者め!」
セレスが痺れを切らし、闇雲に魔法を放つ。
放たれた雷撃が霧を散らすが、敵の影すら捉えられない。
それどころか、魔法の光が霧に乱反射し、一瞬だけ二人の視界をホワイトアウトさせた。
「馬鹿野郎、視界を悪くしてどうする!」
「じっとしていられるか! このままではなぶり殺しだ!」
二人の声が重なった瞬間、殺気が膨れ上がった。
蒼介の背筋が凍りつく。
死角。
セレスの放った魔法の光が消え、瞳孔が開いて暗闇に目が慣れていない、その一瞬の隙。
「伏せろッ!」
蒼介は考えるよりも早く、セレスの襟首を掴んで地面に引き倒した。
ヒュンッ、と頭上を何かが通り過ぎる。
数本の髪の毛が、ふわりと宙を舞った。
セレスの美しい金髪が、見えない刃によって切り落とされたのだ。
「……ッ!」
セレスが息を呑む。
地面に這いつくばったまま、彼女は青ざめた顔で自分の髪を見つめた。
あと数センチ深く刃が入っていれば、首が飛んでいた。
「……すまない、ソウスケ。私が冷静さを欠いた」
「謝ってる場合か。立つぞ」
蒼介はセレスの手を引いて立ち上がらせるが、その手も微かに震えている。
限界が近い。
このままでは、ジリ貧どころか、次の一撃で終わる。
何か、手はないのか。
この見えない、聞こえない状況を打開する、起死回生の一手が。
(探知も効かない、目視もできない……。どうすりゃいい?)
蒼介が必死に思考を巡らせていた時、腰のペンダントが微かに熱を帯びた。
リリアの声が、脳内に響く。
『ソウスケさん、落ち着いてくださいまし』
「落ち着いて死ねってか? こっちは手詰まりなんだよ」
『いいえ。敵の習性を考えるのです。あの魔物は、昆虫のような姿をしていましたわね?』
「ああ、巨大なカマキリだ。それがどうした」
リリアの冷静な声が、パニックになりかけた蒼介の思考を現実に引き戻す。
彼女は続ける。
『昆虫型の魔物は、視覚よりも触角……空気の微かな振動に敏感なはずですわ。特に、霧の中という視界の悪い環境に適応した個体なら、尚更その傾向が強いはず』
「振動……?」
『ええ。貴方たちが動く際の空気の流れ、衣擦れの音、心音……それらを敏感に感じ取って、位置を把握しているのですわ』
蒼介はハッとした。
そういえば、さっきセレスが魔法を放った直後、敵は正確にその隙を突いてきた。
あれは魔法の光を見ていたのではない。
魔法が発動する際の魔力の奔流、その振動を感知し、発生源を特定したのではないか。
(【
ならば、それを逆手に取れるかもしれない。
(閃光と、爆音……。いや、もっと単純な「衝撃」だ)
この濃霧ごと吹き飛ばすような、巨大な衝撃波。
それがあれば、敵の鋭敏すぎる感覚器官を破壊し、同時にこの厄介な霧を晴らせるかもしれない。
「セレス、聞け」
蒼介は視線を巡らせながら、早口で告げた。
敵はまだ様子を窺っている。次の攻撃が来るまでの数秒が勝負だ。
「一か八かの賭けをする」
「賭けだと? どのような?」
「お前の持っている最大火力の範囲魔法……それを、ここでぶっ放す」
「なっ!?」
セレスが驚愕に目を見開く。
「正気か!? 範囲魔法など、詠唱に時間がかかる! その間、私は無防備になるぞ! それにこんな至近距離で放てば、私たち自身も巻き込まれる!」
「詠唱の間は俺が守る。巻き添えに関しては……まあ、うまく耐えろ」
「無茶苦茶だ!」
「他に手があるか!? このままじわじわ削られて死ぬのを待つか、それとも勝率の低い賭けに乗るか、どっちだ!」
蒼介の怒号に、セレスが口をつぐむ。
彼女は一瞬だけ悔しげに顔を歪め、すぐに覚悟を決めた戦士の顔に戻った。
「……わかった。貴様のその悪知恵に、命を預けよう」
「よし。狙う必要はねえ。全方位に衝撃波を撒き散らすイメージだ。風属性の魔法で、霧を吹き飛ばしつつ、爆音を轟かせろ!」
「注文が多いな……! だが、やってやる!」
セレスが槍を地面に突き立て、両手を広げた。
彼女の周囲に、凄まじい密度の魔力が渦巻き始める。
「我は求め訴える……!」
朗々とした詠唱が始まる。
それは、彼女が使える最上位の風魔法の詠唱だ。
周囲の霧が、魔力の奔流に巻き込まれて渦を巻き始める。
ギチギチギチッ!!
敵が反応した。
当然だ。これほど巨大な魔力を、あの敏感な捕食者が見逃すはずがない。
獲物が大きな隙を晒している。
奴にとっては絶好の狩りの好機。
「来たぞッ!」
蒼介は【
右斜め前方。
霧が裂け、透明な何かが砲弾のような勢いで突っ込んでくる。
(速ええッ!)
先ほどまでの慎重な動きとは段違いだ。
一撃でセレスを葬り去るつもりだ。
姿は見えない。だが、殺気が肌を刺す。
「させるかよォッ!」
蒼介は【
脳内麻薬が駆け巡り、世界がスローモーションになる。
迫り来る死の凶刃。
その軌道を予測し、蒼介は自らの身体を盾にするように割り込んだ。
ガギィィィンッ!
金属音が火花を散らす。
蒼介のナイフと、見えない巨大な鎌が激突したのだ。
重い。
まるでダンプカーに正面衝突されたような衝撃が、腕から肩、そして背骨へと抜ける。
「ぐぅぅッ……!」
踏ん張った足元の石畳が砕ける。
ナイフに亀裂が走る。
力負けしている。このままでは押し切られる。
(まだだ……まだ詠唱は終わってねえ……!)
蒼介は歯を食いしばり、にじり寄ってくる死神の圧力を全身で受け止めた。
傷口が開いたのか、包帯から血が滲む。
だが、一歩も退かない。
背後では、セレスが命懸けで詠唱を続けている。
彼女は蒼介を信じ、防御を捨てて魔力を練り上げているのだ。
その信頼に応えなくて、何が相棒か。
「……大気の精霊よ、その荒ぶる怒りを束ね、我が敵を薙ぎ払え……!」
セレスの声がクライマックスに近づく。
魔力が臨界点に達し、彼女の髪が逆立つ。
ギチッ!?
眼前の透明な怪物が、本能的な恐怖を感じたのか、僅かに圧力を緩めた。
逃げようとしている。
この異常なエネルギーの塊が炸裂する前に。
「逃がすかよ……!」
蒼介はニヤリと笑い、逆に前に出た。
ナイフを絡め、敵の鎌をロックする。
逃げられないように。
道連れにするように。
「セレス、やれえええええッ!」
「吹き荒れろ! 『テンペスト・バースト』ッ!!」
セレスの絶叫と共に、圧縮された暴風が炸裂した。
ドォォォォォォォォンッ!!
視界が白く染まる。
鼓膜を叩く轟音。
そして、暴風と衝撃波が、中心点であるセレスから全方位へと解き放たれた。
「うぐぁッ!」
至近距離にいた蒼介もまた、木の葉のように吹き飛ばされる。
だが、彼は空中で身体を丸め、衝撃を受け流すことに集中した。
ナノマシンの【
数秒後。
蒼介は地面に転がり、咳き込みながら顔を上げた。
土煙が舞っている。
だが、あのまとわりつくような濃霧は、跡形もなく消し飛んでいた。
視界はクリアだ。
そして、その開けた視界の先。
空洞の入り口付近に、一匹の異形の怪物が蹲っていた。
全長五メートルはあるだろうか。
半透明だった体色は、衝撃によるダメージで迷彩が解け、どす黒い緑色の甲殻を露わにしている。
巨大なカマキリ。
だが、その複眼からは体液が流れ出し、触角は千切れ飛び、自慢の鎌も痙攣している。
リリアの読み通り、爆音と衝撃波によって感覚器官にダメージを受け、方向感覚を失っているのだ。
「……はっ、ざまあみろ」
蒼介は血の味のする唾を吐き捨て、ふらつく足で立ち上がった。
ナイフを握り直す。
亀裂の入ったナイフだが、あと一回くらいなら持つだろう。
「セレス、生きてるか?」
「……誰に向かって言っている。貴様こそ大丈夫なのだろうな」
背後から、荒い息遣いと共に力強い声が返ってきた。
振り返ると、セレスが槍を杖代わりにして立ち上がるところだった。
服はボロボロで、髪も乱れているが、その碧眼は勝気を宿して輝いている。
「私の魔法で死ぬような間抜けな相棒を持った覚えはない」
「そりゃどうも。……仕上げといこうぜ」
「ああ。あの不愉快な虫ケラを、今度こそ地獄へ送ってやる」
二人は視線を合わせ、頷き合う。
もはや言葉はいらない。
蒼介が【
セレスが槍に最後の魔力を込める。
霧は晴れた。
反撃の時だ。