異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第54話 苦い勝利

 転移門の青白い光が収束する。

 浮遊感が消え、足裏に硬い石畳の感触が戻ってきた。

 同時に、むっとするような熱気と、喧噪が鼓膜を震わせる。

 静寂と死が支配していた地下迷宮とは対極にある、生のエネルギーに満ちた場所。

 だが今の蒼介たちにとって、その明るさは少し眩しすぎた。

 

「……着いたな」

 

 蒼介は背中の重みを確かめるように担ぎ直す。

 エリーズはまだ意識を取り戻さない。

 規則正しい寝息が首筋にかかるたび、彼女が生きているという事実だけが、鉛のように重い疲労感を辛うじて支えていた。

 

「ああ。……戻ってきたのだな」

 

 セレスが槍を床に突き、深い溜息をつく。

 その顔色は青白く、銀の鎧は泥と魔物の体液で汚れていた。

 見れば、周囲にいる他の冒険者たちが、ぎょっとした顔でこちらを見ている。

 無理もない。

 今の二人は、地獄の底から這い上がってきた亡者のような有様だろう。

 

「急ぐぞ。エリーズを医務室へ」

 

 蒼介は足早に広場を出た。

 身体中の筋肉が悲鳴を上げている。

 ナノマシンの【自己修復(リペア)】が過剰稼働し、熱を持った細胞が焼けるように痛む。

 それでも、足を止めるわけにはいかない。

 

 ギルドの回廊を抜け、併設された医務室へと飛び込む。

 白いローブを纏った治癒術師たちが、蒼介たちの姿を見るなり慌ただしく動き出した。

 

「重傷者か!?」

「いや、外傷はあるようだが、わからない。気絶してる」

「……おそらく、魔力枯渇と極度の衰弱ですね。こちらのベッドへ!」

 

 指示された寝台にエリーズを横たえる。

 治癒術師がすぐに魔法をかけ、安堵の息を漏らした。

 どうも、命の危険はないらしい。

 その言葉を聞いて、蒼介は張り詰めていた糸が切れたように、近くの椅子へと崩れ落ちた。

 

「……はぁ、クソッ。しんど……」

「ソウスケ、大丈夫か」

 

 セレスが心配そうに覗き込んでくるが、彼女自身も立っているのがやっとのはずだ。

 隣の椅子を指差すと、彼女もドサリと音を立てて腰を下ろした。

 

「……生きた心地がしなかったな」

「違いない。あのカマキリ……夢に見そうだ」

 

 二人は顔を見合わせ、力なく笑った。

 笑うしか、この重苦しい空気を払拭する術がなかった。

 手にはまだ、あの巨大な怪物を切り裂いた感触が残っている。

 死神の鎌が鼻先を掠めた風圧。

 仲間を失ったエリーズの震える肩。

 それらが脳裏に焼き付いて離れない。

 

(リリア、お前も疲れたろ)

 

 心の中で問いかけると、ペンダントから弱々しい波動が伝わってきた。

 

『ええ……少し、疲れましたわ。あの主の殺気……』

 

 王女である彼女にとっても、あの死闘は堪えたらしい。

 三人はしばらくの間、言葉もなく泥のように椅子に沈み込んでいた。

 医務室独特の消毒液と薬草の混じった匂いが、ここが安全地帯であることを認識させてくれる。

 

 一時間ほど経っただろうか。

 カーテンの奥から、小さく身じろぎする音が聞こえた。

 頷き合うと、二人はカーテンの奥に入った。

 

「……う、ん……」

 

 エリーズが声を上げる。

 焦点の定まらない瞳が天井を彷徨い、やがて近くにいた蒼介とセレスを捉えた。

 

「……あなたたちは……」

「気がついたか」

 

 蒼介たちはベッドの脇に立った。

 エリーズは状況が飲み込めない様子で周囲を見渡し、そして自分の服がボロボロであることに気づいて、ハッと息を呑んだ。

 記憶が、濁流のように押し寄せたのだろう。

 彼女の顔から血の気が引いていく。

 

「私……あの、霧の中で……みんな、は……?」

 

 震える唇から紡がれた問いに、蒼介は言葉を詰まらせた。

 記憶が混濁しているのかもしれない。

 なんと答えるべきか。嘘をつくことはできない。

 真実を告げることもまた、残酷さを持っている。

 

「……俺たちが見つけた時、生きていたのはあんただけだ」

 

 選んだのは、事実だけの短い言葉だった。

 それが一番、誠実だと思ったからだ。

 エリーズの瞳が揺れる。

 涙が溢れ出し、頬を伝って枕を濡らした。

 

「……そう、ですか……。やっぱり……みんな……」

 

 彼女は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。

 リーダーの剣士。

 大酒飲みだった神官。

 陽気な斥候。

 最後まで彼女を守ろうとした重戦士。

『銀の翼』という将来有望なパーティが、たった一体の怪物によって蹂躙され、消滅した。

 その事実はあまりにも重く、理不尽だ。

 

 セレスが痛ましげな表情で、エリーズの背中を優しく撫でる。

 かける言葉が見つからない。

「生きていてよかった」なんて言葉は、今の彼女には何の意味も持たないだろう。

 生き残ってしまった罪悪感が、これから彼女を苦しめることになる。

 

「……あの、怪物は……?」

 

 しばらくして、エリーズが涙声で尋ねてきた。

 

「倒したよ」

 

 蒼介は短く答えた。

 

セレス(こいつ)が魔法で吹き飛ばして、トドメを刺した。……仇は取った」

 

 仇を取ったところで、死んだ仲間は帰ってこない。

 だが、せめてもの慰めになればと思った。

 エリーズは濡れた瞳で蒼介とセレスを見つめ、震える声で言った。

 

「……ありがとう。……ありがとう、ございます……」

 

 その言葉は、感謝というよりも、懺悔のように聞こえた。

 蒼介は胸の奥が締め付けられるのを感じた。

 

(俺たちは英雄なんかじゃない。ただ、運良く生き残り、運良く勝てただけの、薄汚れた冒険者に過ぎない)

 

 エリーズの容態が安定したことを確認し、蒼介たちは医務室を後にした。

 彼女には休息が必要だ。

 心と体の傷が癒えるまで、どれだけの時間がかかるかわからない。

 あるいは、二度と冒険者としては戻れないかもしれない。

 それでも、彼女は生きていかなければならない。

 

「……行くか。報告しなきゃならねえ」

 

 蒼介の声は低く、重かった。

 セレスも無言で頷く。

 二人は重い足取りで、ギルドのメインホールへと向かった。

 

 夕刻のギルドは、依頼を終えた冒険者たちで賑わっていた。

 酒を酌み交わす者、戦果を自慢し合う者、明日の予定を話し合う者。

 活気に満ちたその光景が、今はひどく遠い世界のことのように思える。

 蒼介たちがカウンターに近づくと、顔馴染みの受付嬢が笑顔を向けようとして、二人の様子に気づいて表情を凍りつかせた。

 

「カミヤ様、セレスティーナ様……? そのお怪我……一体……」

「……緊急の報告がある」

 

 蒼介はカウンターに身を預けるようにして、乾いた声を出した。

 

「第21層、【濃霧と幻影の回廊】で消息を絶っていたパーティ『銀の翼』を発見した」

 

 受付嬢の表情が真剣なものに変わる。

 周囲にいた冒険者たちも、会話を止めてこちらに注目し始めた。

『銀の翼』の遭難は、この数日間のギルドにおける最大の関心事だったからだ。

 

「……生存者は一名。魔術師のエリーズだけだ。現在は医務室にいる」

「一名……ですか……」

 

 受付嬢が息を呑む。

 ホール全体に、さざ波のように動揺が広がっていく。

『銀の翼』は銀級の中でも上位の実力派パーティだった。

 それが壊滅したという事実は、他の冒険者たちにとっても他人事ではない衝撃を与える。

 

「他のメンバーは……?」

「全滅だ。遺体の回収も……難しいだろう」

 

 あの乱戦の中、彼らの遺体がどうなったか。

 瓦礫の下か、あるいは怪物の腹の中か。

 想像するだけで気が滅入る。

 

「……原因は?」

 

 受付嬢の手が震えている。

 記録用紙を持つペン先が揺れていた。

 

「階層主だ」

「えっ……?」

 

 その場にいた全員が、耳を疑うような顔をした。

 第21層の主?

 いや、そんなはずはない。

 21層に固定のボス部屋はないはずだ。

 

「徘徊型だ。第30層の主が、上層まで出張ってきていたらしい」

「なッ……!?」

 

 誰かが驚愕の声を上げた。

 徘徊型の主。

 それは冒険者にとって最悪のイレギュラーだ。

 遭遇率は低いが、出会ってしまえば準備不足のパーティなど一瞬で全滅に追いやられる。

『銀の翼』は運が悪かった。

 ただそれだけの理由で、彼らは死んだのだ。

 

「……その、主は……?」

「討伐した」

 

 蒼介は腰のポーチから、回収した巨大な魔石と、鎌の破片を取り出してカウンターに置いた。

 ゴトッ、と重い音が響く。

 魔石は不気味な緑色の光を放ち、鎌の破片は鋼鉄をも切り裂く鋭さを主張していた。

 それを見た瞬間、ホールは水を打ったように静まり返った。

 

「ば、馬鹿な……」

「30層の主だぞ……? それを、たった二人で……?」

「銅級だぞ、あいつら……」

 

 囁き声が聞こえる。

 称賛よりも先に、困惑と恐怖が混じったような視線。

 常識外れ。

 異常。

 彼らの目に映る自分たちは、もはや同じ人間ではない何かのように見えているのかもしれない。

 

 蒼介は小さくため息をついた。

 別に英雄になりたいわけじゃない。

 ただ、生き残るために殺しただけだ。

 

「……確認しました」

 

 受付嬢の声が裏返る。

 

「『サイレント・ストーカー』……第30層、幻影の処刑人。……間違いありません」

 

 その名を聞いて、ベテランの冒険者たちが顔色を変えた。

 過去に何人もの銅級、銀級を葬ってきた悪名高いモンスターだ。

 霧に紛れ、音もなく忍び寄り、一撃で首を刈り取る死神。

 

「よく、ご無事で……」

 

 受付嬢の目には、涙が浮かんでいた。

 生きて帰ってきたことへの安堵と、失われた命への哀悼。

 彼女もまた、冒険者たちの死を数多く見送ってきた一人なのだ。

 

「それで……報告は以上だ。報酬の査定、頼めるか」

「あ、はい……! ただちに!」

 

 蒼介が話を切り上げようとした時、奥の扉が開き、一人の男が現れた。

 白髪交じりの髪をオールバックにし、眼光鋭い瞳を持つ初老の男。

 

 このテルス支部のギルドマスターだ。

 騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう。

 

「……ご苦労だったな、二人とも」

 

 低い、よく通る声が響く。

 ざわついていた冒険者たちが、自然と道を空ける。

 

(ギルマス……)

「『銀の翼』の件、聞いたぞ。……惜しい連中を亡くした」

 

 ギルドマスターは沈痛な面持ちで目を伏せ、そしてゆっくりと蒼介とセレスに向き直った。

 その瞳には、値踏みするような色はなく、ただ純粋な敬意だけが宿っていた。

 

「だが、君たちが仇を討ち、生存者を連れ帰ったことで、彼らの魂も少しは救われるだろう。……よくやった」

「……たまたまです。運が良かっただけだ」

 

 蒼介は視線を逸らした。

 真っ直ぐな賞賛が、今はこそばゆいというより、痛かった。

 

 あの時、もっと早く気づいていれば。

 もっと早く決断していれば。

 もしかしたら、重戦士くらいは助けられたかもしれない。

 そんな「たられば」が頭をよぎる。

 

「運も実力のうちだ。特に、この大迷宮においてはな」

 

 ギルドマスターは重々しく頷き、カウンターに置かれた魔石を手に取った。

 

「第30層の主を、銅級が討伐した。……これは、ギルド始まって以来の快挙だ。いや、異常事態と言ってもいい」

「褒められてる気がしねえな」

「事実を言ったまでだ」

 

 周囲の冒険者たちも、同意するように頷いている。

 かつて彼らを侮っていた者たちの目にも、今は畏敬の色が浮かんでいた。

 魔法が使えない男と、令嬢騎士。

 そんなレッテルは、この圧倒的な実績の前に跡形もなく吹き飛んでいた。

 

「ゆっくり休め。査定と報酬については、特例措置を含めて色を付けよう」

「……ああ、助かる」

 

 金は必要だ。

 装備の修理、消耗品の補充、そして何より、次の階層へ進むための準備資金。

 命を懸けた対価としては安いものかもしれないが、それでも生きていくためには金がいる。

 

「セレス、行くぞ」

「うむ」

 

 蒼介はギルドマスターに軽く頭を下げ、踵を返した。

 背中に突き刺さる視線を振り払うように、出口へと歩く。

 外はもう日が暮れているだろう。

 冷たい夜風に当たりたかった。

 

 ギルドを出ると、街は夜の帳に包まれていた。

 魔石灯の明かりが、石畳の道をぼんやりと照らしている。

 昼間の喧騒は去り、静けさが戻ってきた街並みは、どこか寂しげに見えた。

 

「……苦い勝利だな」

 

 隣を歩くセレスが、ぽつりと呟いた。

 その横顔には、悔しさと無力感が滲んでいる。

 勝利の美酒に酔うには、失ったものが多すぎた。

 

「ああ。……全くだ」

 

 蒼介は夜空を見上げた。

 見慣れない星座が輝いている。

 

 この世界に来てから、いくつもの死を見てきた。

 現代のダンジョンでもそうだった。

 シーカーという職業は、常に死と隣り合わせだ。

 わかっていたはずのことだ。

 それでも、慣れることはない。

 

(……俺たちは、生きてる)

 

 心臓が動いている。

 息ができる。

 痛みを感じる。

 それが、勝者の唯一の特権であり、敗者への義務でもあった。

 

『ソウスケさん、セレスさん。……今日は、美味しいものを食べて、温かいベッドで眠りましょう』

 

 ペンダントから、リリアの優しい声が聞こえた。

 彼女なりに、沈んだ空気を変えようとしているのだろう。

 

「……そうだな。腹減ったな」

「ああ。……肉が食べたい。分厚い肉だ」

「いいねえ。一番高い店に行ってやろうぜ。ギルマスが色を付けてくれるって言ってたしな」

 

 空元気でもいい。

 今は、生きていることを実感したかった。

 食って、寝て、明日また歩き出すために。

 

 二人の足音が、夜の石畳に響く。

 その足取りは重いが、決して立ち止まることはなかった。

【濃霧と幻影の回廊】を抜けた彼らの前には、まだ見ぬ深淵が広がっている。

 大迷宮の闇は深く、その果ては見えない。

 だが、彼らは進むだろう。

 この苦い勝利を糧にして、一歩ずつ、確実に。

 

 霧は晴れた。

 しかし、その先に待つのは、さらなる過酷な試練であることを、彼らはまだ知らない。

 今はただ、泥臭く掴み取った生を噛み締める夜だった。

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