異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~ 作:九泉
転移門の青白い光が収束する。
浮遊感が消え、足裏に硬い石畳の感触が戻ってきた。
同時に、むっとするような熱気と、喧噪が鼓膜を震わせる。
静寂と死が支配していた地下迷宮とは対極にある、生のエネルギーに満ちた場所。
だが今の蒼介たちにとって、その明るさは少し眩しすぎた。
「……着いたな」
蒼介は背中の重みを確かめるように担ぎ直す。
エリーズはまだ意識を取り戻さない。
規則正しい寝息が首筋にかかるたび、彼女が生きているという事実だけが、鉛のように重い疲労感を辛うじて支えていた。
「ああ。……戻ってきたのだな」
セレスが槍を床に突き、深い溜息をつく。
その顔色は青白く、銀の鎧は泥と魔物の体液で汚れていた。
見れば、周囲にいる他の冒険者たちが、ぎょっとした顔でこちらを見ている。
無理もない。
今の二人は、地獄の底から這い上がってきた亡者のような有様だろう。
「急ぐぞ。エリーズを医務室へ」
蒼介は足早に広場を出た。
身体中の筋肉が悲鳴を上げている。
ナノマシンの【
それでも、足を止めるわけにはいかない。
ギルドの回廊を抜け、併設された医務室へと飛び込む。
白いローブを纏った治癒術師たちが、蒼介たちの姿を見るなり慌ただしく動き出した。
「重傷者か!?」
「いや、外傷はあるようだが、わからない。気絶してる」
「……おそらく、魔力枯渇と極度の衰弱ですね。こちらのベッドへ!」
指示された寝台にエリーズを横たえる。
治癒術師がすぐに魔法をかけ、安堵の息を漏らした。
どうも、命の危険はないらしい。
その言葉を聞いて、蒼介は張り詰めていた糸が切れたように、近くの椅子へと崩れ落ちた。
「……はぁ、クソッ。しんど……」
「ソウスケ、大丈夫か」
セレスが心配そうに覗き込んでくるが、彼女自身も立っているのがやっとのはずだ。
隣の椅子を指差すと、彼女もドサリと音を立てて腰を下ろした。
「……生きた心地がしなかったな」
「違いない。あのカマキリ……夢に見そうだ」
二人は顔を見合わせ、力なく笑った。
笑うしか、この重苦しい空気を払拭する術がなかった。
手にはまだ、あの巨大な怪物を切り裂いた感触が残っている。
死神の鎌が鼻先を掠めた風圧。
仲間を失ったエリーズの震える肩。
それらが脳裏に焼き付いて離れない。
(リリア、お前も疲れたろ)
心の中で問いかけると、ペンダントから弱々しい波動が伝わってきた。
『ええ……少し、疲れましたわ。あの主の殺気……』
王女である彼女にとっても、あの死闘は堪えたらしい。
三人はしばらくの間、言葉もなく泥のように椅子に沈み込んでいた。
医務室独特の消毒液と薬草の混じった匂いが、ここが安全地帯であることを認識させてくれる。
一時間ほど経っただろうか。
カーテンの奥から、小さく身じろぎする音が聞こえた。
頷き合うと、二人はカーテンの奥に入った。
「……う、ん……」
エリーズが声を上げる。
焦点の定まらない瞳が天井を彷徨い、やがて近くにいた蒼介とセレスを捉えた。
「……あなたたちは……」
「気がついたか」
蒼介たちはベッドの脇に立った。
エリーズは状況が飲み込めない様子で周囲を見渡し、そして自分の服がボロボロであることに気づいて、ハッと息を呑んだ。
記憶が、濁流のように押し寄せたのだろう。
彼女の顔から血の気が引いていく。
「私……あの、霧の中で……みんな、は……?」
震える唇から紡がれた問いに、蒼介は言葉を詰まらせた。
記憶が混濁しているのかもしれない。
なんと答えるべきか。嘘をつくことはできない。
真実を告げることもまた、残酷さを持っている。
「……俺たちが見つけた時、生きていたのはあんただけだ」
選んだのは、事実だけの短い言葉だった。
それが一番、誠実だと思ったからだ。
エリーズの瞳が揺れる。
涙が溢れ出し、頬を伝って枕を濡らした。
「……そう、ですか……。やっぱり……みんな……」
彼女は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
リーダーの剣士。
大酒飲みだった神官。
陽気な斥候。
最後まで彼女を守ろうとした重戦士。
『銀の翼』という将来有望なパーティが、たった一体の怪物によって蹂躙され、消滅した。
その事実はあまりにも重く、理不尽だ。
セレスが痛ましげな表情で、エリーズの背中を優しく撫でる。
かける言葉が見つからない。
「生きていてよかった」なんて言葉は、今の彼女には何の意味も持たないだろう。
生き残ってしまった罪悪感が、これから彼女を苦しめることになる。
「……あの、怪物は……?」
しばらくして、エリーズが涙声で尋ねてきた。
「倒したよ」
蒼介は短く答えた。
「
仇を取ったところで、死んだ仲間は帰ってこない。
だが、せめてもの慰めになればと思った。
エリーズは濡れた瞳で蒼介とセレスを見つめ、震える声で言った。
「……ありがとう。……ありがとう、ございます……」
その言葉は、感謝というよりも、懺悔のように聞こえた。
蒼介は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
(俺たちは英雄なんかじゃない。ただ、運良く生き残り、運良く勝てただけの、薄汚れた冒険者に過ぎない)
エリーズの容態が安定したことを確認し、蒼介たちは医務室を後にした。
彼女には休息が必要だ。
心と体の傷が癒えるまで、どれだけの時間がかかるかわからない。
あるいは、二度と冒険者としては戻れないかもしれない。
それでも、彼女は生きていかなければならない。
「……行くか。報告しなきゃならねえ」
蒼介の声は低く、重かった。
セレスも無言で頷く。
二人は重い足取りで、ギルドのメインホールへと向かった。
夕刻のギルドは、依頼を終えた冒険者たちで賑わっていた。
酒を酌み交わす者、戦果を自慢し合う者、明日の予定を話し合う者。
活気に満ちたその光景が、今はひどく遠い世界のことのように思える。
蒼介たちがカウンターに近づくと、顔馴染みの受付嬢が笑顔を向けようとして、二人の様子に気づいて表情を凍りつかせた。
「カミヤ様、セレスティーナ様……? そのお怪我……一体……」
「……緊急の報告がある」
蒼介はカウンターに身を預けるようにして、乾いた声を出した。
「第21層、【濃霧と幻影の回廊】で消息を絶っていたパーティ『銀の翼』を発見した」
受付嬢の表情が真剣なものに変わる。
周囲にいた冒険者たちも、会話を止めてこちらに注目し始めた。
『銀の翼』の遭難は、この数日間のギルドにおける最大の関心事だったからだ。
「……生存者は一名。魔術師のエリーズだけだ。現在は医務室にいる」
「一名……ですか……」
受付嬢が息を呑む。
ホール全体に、さざ波のように動揺が広がっていく。
『銀の翼』は銀級の中でも上位の実力派パーティだった。
それが壊滅したという事実は、他の冒険者たちにとっても他人事ではない衝撃を与える。
「他のメンバーは……?」
「全滅だ。遺体の回収も……難しいだろう」
あの乱戦の中、彼らの遺体がどうなったか。
瓦礫の下か、あるいは怪物の腹の中か。
想像するだけで気が滅入る。
「……原因は?」
受付嬢の手が震えている。
記録用紙を持つペン先が揺れていた。
「階層主だ」
「えっ……?」
その場にいた全員が、耳を疑うような顔をした。
第21層の主?
いや、そんなはずはない。
21層に固定のボス部屋はないはずだ。
「徘徊型だ。第30層の主が、上層まで出張ってきていたらしい」
「なッ……!?」
誰かが驚愕の声を上げた。
徘徊型の主。
それは冒険者にとって最悪のイレギュラーだ。
遭遇率は低いが、出会ってしまえば準備不足のパーティなど一瞬で全滅に追いやられる。
『銀の翼』は運が悪かった。
ただそれだけの理由で、彼らは死んだのだ。
「……その、主は……?」
「討伐した」
蒼介は腰のポーチから、回収した巨大な魔石と、鎌の破片を取り出してカウンターに置いた。
ゴトッ、と重い音が響く。
魔石は不気味な緑色の光を放ち、鎌の破片は鋼鉄をも切り裂く鋭さを主張していた。
それを見た瞬間、ホールは水を打ったように静まり返った。
「ば、馬鹿な……」
「30層の主だぞ……? それを、たった二人で……?」
「銅級だぞ、あいつら……」
囁き声が聞こえる。
称賛よりも先に、困惑と恐怖が混じったような視線。
常識外れ。
異常。
彼らの目に映る自分たちは、もはや同じ人間ではない何かのように見えているのかもしれない。
蒼介は小さくため息をついた。
別に英雄になりたいわけじゃない。
ただ、生き残るために殺しただけだ。
「……確認しました」
受付嬢の声が裏返る。
「『サイレント・ストーカー』……第30層、幻影の処刑人。……間違いありません」
その名を聞いて、ベテランの冒険者たちが顔色を変えた。
過去に何人もの銅級、銀級を葬ってきた悪名高いモンスターだ。
霧に紛れ、音もなく忍び寄り、一撃で首を刈り取る死神。
「よく、ご無事で……」
受付嬢の目には、涙が浮かんでいた。
生きて帰ってきたことへの安堵と、失われた命への哀悼。
彼女もまた、冒険者たちの死を数多く見送ってきた一人なのだ。
「それで……報告は以上だ。報酬の査定、頼めるか」
「あ、はい……! ただちに!」
蒼介が話を切り上げようとした時、奥の扉が開き、一人の男が現れた。
白髪交じりの髪をオールバックにし、眼光鋭い瞳を持つ初老の男。
このテルス支部のギルドマスターだ。
騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう。
「……ご苦労だったな、二人とも」
低い、よく通る声が響く。
ざわついていた冒険者たちが、自然と道を空ける。
(ギルマス……)
「『銀の翼』の件、聞いたぞ。……惜しい連中を亡くした」
ギルドマスターは沈痛な面持ちで目を伏せ、そしてゆっくりと蒼介とセレスに向き直った。
その瞳には、値踏みするような色はなく、ただ純粋な敬意だけが宿っていた。
「だが、君たちが仇を討ち、生存者を連れ帰ったことで、彼らの魂も少しは救われるだろう。……よくやった」
「……たまたまです。運が良かっただけだ」
蒼介は視線を逸らした。
真っ直ぐな賞賛が、今はこそばゆいというより、痛かった。
あの時、もっと早く気づいていれば。
もっと早く決断していれば。
もしかしたら、重戦士くらいは助けられたかもしれない。
そんな「たられば」が頭をよぎる。
「運も実力のうちだ。特に、この大迷宮においてはな」
ギルドマスターは重々しく頷き、カウンターに置かれた魔石を手に取った。
「第30層の主を、銅級が討伐した。……これは、ギルド始まって以来の快挙だ。いや、異常事態と言ってもいい」
「褒められてる気がしねえな」
「事実を言ったまでだ」
周囲の冒険者たちも、同意するように頷いている。
かつて彼らを侮っていた者たちの目にも、今は畏敬の色が浮かんでいた。
魔法が使えない男と、令嬢騎士。
そんなレッテルは、この圧倒的な実績の前に跡形もなく吹き飛んでいた。
「ゆっくり休め。査定と報酬については、特例措置を含めて色を付けよう」
「……ああ、助かる」
金は必要だ。
装備の修理、消耗品の補充、そして何より、次の階層へ進むための準備資金。
命を懸けた対価としては安いものかもしれないが、それでも生きていくためには金がいる。
「セレス、行くぞ」
「うむ」
蒼介はギルドマスターに軽く頭を下げ、踵を返した。
背中に突き刺さる視線を振り払うように、出口へと歩く。
外はもう日が暮れているだろう。
冷たい夜風に当たりたかった。
ギルドを出ると、街は夜の帳に包まれていた。
魔石灯の明かりが、石畳の道をぼんやりと照らしている。
昼間の喧騒は去り、静けさが戻ってきた街並みは、どこか寂しげに見えた。
「……苦い勝利だな」
隣を歩くセレスが、ぽつりと呟いた。
その横顔には、悔しさと無力感が滲んでいる。
勝利の美酒に酔うには、失ったものが多すぎた。
「ああ。……全くだ」
蒼介は夜空を見上げた。
見慣れない星座が輝いている。
この世界に来てから、いくつもの死を見てきた。
現代のダンジョンでもそうだった。
シーカーという職業は、常に死と隣り合わせだ。
わかっていたはずのことだ。
それでも、慣れることはない。
(……俺たちは、生きてる)
心臓が動いている。
息ができる。
痛みを感じる。
それが、勝者の唯一の特権であり、敗者への義務でもあった。
『ソウスケさん、セレスさん。……今日は、美味しいものを食べて、温かいベッドで眠りましょう』
ペンダントから、リリアの優しい声が聞こえた。
彼女なりに、沈んだ空気を変えようとしているのだろう。
「……そうだな。腹減ったな」
「ああ。……肉が食べたい。分厚い肉だ」
「いいねえ。一番高い店に行ってやろうぜ。ギルマスが色を付けてくれるって言ってたしな」
空元気でもいい。
今は、生きていることを実感したかった。
食って、寝て、明日また歩き出すために。
二人の足音が、夜の石畳に響く。
その足取りは重いが、決して立ち止まることはなかった。
【濃霧と幻影の回廊】を抜けた彼らの前には、まだ見ぬ深淵が広がっている。
大迷宮の闇は深く、その果ては見えない。
だが、彼らは進むだろう。
この苦い勝利を糧にして、一歩ずつ、確実に。
霧は晴れた。
しかし、その先に待つのは、さらなる過酷な試練であることを、彼らはまだ知らない。
今はただ、泥臭く掴み取った生を噛み締める夜だった。